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砂防の神様、赤木正雄 - 墓参に帰郷の三日間

(赤木正雄銅像、いつも登山家の服装にリュック姿だった)

七日、アクアで帰郷し、円山川の土手から市街地に入る右手に、水防小屋の裏に隠れるように、昔の山歩きの姿の銅像が円山川に向いて立っていた。「あんなところに銅像が!」実家で次兄に聞くと、故郷が生んだ砂防の神様と言われた赤木正雄氏の銅像だという。赤木正雄という名は、どこかで聞いたことがあるが、その人生に付いては全く知らなかった。


(円山川改修碑と赤木像)

初盆に参ったあと、そこへ立ち寄り写真を撮ってきた。土手下で、銅像の回りは小さな公園になっているが、水防小屋が出来て、道路からは陰になって目立たなくなってしまったと次兄が話す。公園も夏草に覆われて、足を踏み入れるのが躊躇われるほどで、郷土の偉人もこんな風に段々忘れ去られるのだろうと思った。

その台座の碑文によれば、
豊岡市の生んだ赤木正雄農学博士は、我が国砂防の神とまでいわれていることは、ひとり博士の名誉と栄光にとどまらず、但馬の誇りでもある。博士は長い内務省生活を通じ、また貴族院及び参議院議員としての政治的立場からも、自ら全国各地に赴いて、治水砂防事業の必要性を説かれ、県下では六甲をはじめ円山川、矢田川水系の砂防並に円山川改修等に残された業績はまことに大であり、住民ひとしくその恩恵に浴し、永久にその功績を讃えるものである。(以下略)


(赤木正雄生誕地碑、背後に見えるのが、赤木氏の実家)

翌日、丹後半島一周のドライブに出かける途中で、赤木氏の実家の手前の道沿いに「赤木正雄生誕の地」の碑があることを次兄が教えてくれた。

その碑の略歴によると、
博士は碑の南の地に、明治二十年三月二十四日、赤木家十一代甚太夫次男に生まれ、旧制第一高等学校、東京大学卒業、大正三年内務省に入り、治水工事に従事、令兄の勧めにより、大正十二年より二ヶ年間、西欧諸国に渡り、ウヰーン工科大学等にて研究、帰国後内務省にて、全国各地の砂防治水に関与、全国治水砂防協会を創設し、昭和十七年貴族院議員に勅選、同二十二年参議院議員に当選、建設次官任命、昭和四十六年豊岡名誉市民に推さる、同年文化勲章受章、昭和四十七年九月八十五才にて逝去、従三位勲一等瑞宝章に叙さる。

この碑には書いてないが、赤木氏は豊岡中学校(旧制)の卒業生である。豊岡中学は我が母校の豊岡高校の前身でもある。つまり、赤木氏は自分の大先輩に当たる。

実家へ戻ると、次兄が「赤木正雄先生追想録」という本を貸してくれた。赤木正雄氏が亡くなった後に出版された、縁(ゆかり)の人々の思い出を集撰した本であった。もう昔に亡くなった伯父の蔵書から頂いた本だと言い、赤木氏の小伝も付いていた。

パラパラ見ていくと、紙が挟まれたページに伯父の思い出文が載っていた。貴族院議員が、戦後民主主義になって、参議院議員の選挙の洗礼を受けることになったとき、伯父はどうやら但馬赤木会の事務局長をしていて、選挙運動で、演説の露払いの役割を果たしていたらしい。飾らない人柄を紹介している。どこへ行くにも、登山家のような服装だった。いつでも、治水砂防の現場に出向くことが出来るようにという理由であった。
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