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事実証談 神霊部(上) 23 江戸葺屋町市村座の蒙った障り

(子供たちが、道の駅掛川で買ってきた、富士山メロンパン?)

昨日の昼頃、名古屋の孫、かなくんとそのママが新幹線でやって来た。パパはどうしたのと聞くと、カブトムシの世話で家に残ったと答える。幼稚園が夏の休みに入り、まーくんたちと遊びたいので、仕事があるパパを残して一足早くやって来たのだろうが、「カブトムシの世話」というのが面白い。さらに聞けば、番いのカブトムシが卵を数十個産んで、次々に幼虫に孵っているらしい。パパは仕事が夏休みに入ったら、そのカブトムシを持ってやってくるという。

今夜はかなくんはまーくんの家へ一人でお泊まりに行った。

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事実証談 神霊部(上)第23話は江戸の話である。

江戸葺屋町、市村座芝居は、堺町、木挽町と共に、常に繁昌せしに、文化十二年の頃より、何となく不繁昌にて、同十二年という年の春の頃には、退転にもなるべき状(さま)となれりけるにより、二月下旬より、座元名代、桐長桐と改め、三月中旬頃より漸(ようよう)に興行せしに、三日ばかり過ぎし頃、口論有りて神田の鳶の者という者どもの仲間言い合わせ、凡そ三、四百人、火事具、鳶口など持って押し寄せ、狂言最中に打壊しけり。見物の者も怪我せし者多かりけり。
※ 桐長桐(きりちょうきり)- 江戸前期の女歌舞伎桐座の座元。名跡は代々女子が相続し、市村座の控櫓(興行の代行者)として、天明4年(1784)から4年間、寛政5年(1793)から5年間、文化13年(1816)から翌年まで、葺屋町で興行した。文化12年と13年の一年の違いがある。事実証談の方に間違いがあるようだ。

公訴ともなるべかりしを、よう/\内済にて鎮めりしかども、その騒ぎによりて、又暫く休み、その後、又二日ばかり興行せしに、又故障出来て休みたり。これ唯事にはあらじと、人皆噂しけるに、忌々しき障り出来にけり。その由は、堺町肝煎名主方、書き留むとて、江戸より送り来たりし書を、證しとして、こゝに記す。

    葺屋町芝居座     桐長桐
右芝居狂言座、市村羽左衛門、興行仕り候節、四ヶ年以前、酉年十一月中、類焼仕り、翌戌年春、普請の砌り、芝居梁に相用い候松材木、東海道程ヶ谷在、星川村、日蓮宗法性院持ちの由、松山大明神、境内にこれ有り候、松三本伐り出し、梁に相用い、普請出来仕り候所、右松木は神木にて崇りこれ有り、芝居不繁昌の由、この節、取沙汰仕り候に付、芝居の者ども、先月下旬松山大明神へ参詣罷り越し、先方へも祈祷相頼み罷り帰り候。

芝居にても祈祷致すべき旨、芝居並び町内の者ども申し合い、谷中善龍寺地中、本壽院住持日應、外九人相頼み、当月三日、朝五つ半時頃、右僧拾人罷り越し、芝居表入口這入り、舞台正面に曼荼羅を備え持ち出し、法事千巻だらに読誦相始り、間もなく在曼荼羅の前に差し置き候、百目掛けの蝋燭弐挺、一時に消え、表の方より三本目、長サ拾弐間余り、末口壱尺五寸余り、松梁壱本、中程より折れし、屋根、坪凡そ六拾坪程、落ち込み申し候。もっとも怪我人は御座なく候。

本文梁伐り出し候砌り、松山大明神社損じさせ候由、右崇りにてこれ有るべく候趣に御座候、已上。
  五月

前代未聞の珍事なりと、江戸より言い送りし故、写し添えつ。
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