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田子乃古道 4 富士川の本瀬替と三股淵近辺地名の話

(枯れた大代川に、二日ばかりの雨で流れが戻った。)

お昼前、まーくん3兄弟がママと来る。幼稚園のまーくんはあと一週間の夏休みである。妹のえまちゃんは這い這い(匍匐前進)を始めた。最近、次男のあっくんがやんちゃぶりを発揮しだしたと聞く。見ていて、あっくんの動きがまーくんを凌ぐようになってきた。そのあっくんが脇をすり抜けるときに、まだかばっている左足の親指を踏んで行った。痛い!幸い傷口が開くようなことにはならなかった。もちろんわざとじゃないことは判っているが、何ていう事をするんだ。しばらく痛みを堪えながら思った。孫を目に入れても痛くないなんて嘘っぱちであると。

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「田子乃古道」の解読を続ける。知らない地名が沢山出始めて、なかなか理解が難しい。現代の地図の地名に名残りを求めながら、解読してゆく。

今に仏原村(この村は前田村の古名なり。棹入後、改むる)保寿寺にその祭りの古札残れり。保寿寺も所替えして、伝法村に上る。什物に蛇鱗が有ると云う事なり。生贄の祭り免じあり。年々六月廿八日、寺大衆往きて、また川施餓鬼を行う。寺跡は前田村、下潤井川添いに、古地、芝河原となり、五輪の石仏捨て残り有り。ここを仏原村とはいうなり。
※ 棹入(さおいれ)- 江戸時代、検地の別称。検地のため間竿(けんざお)で地積を測量すること。竿打ち・縄打ちともいう。
※ 大衆(だいしゅ)- 多くの僧の集まり。またその僧たち。衆徒。だいす。
※ 川施餓鬼(かわせがき)- 水死人の霊を弔うために、川岸や舟の上で行う施餓鬼供養。


富士川本瀬定まり、水神の岩を切り通り、蒲原の海へ流末を落してより已来、備前土手の強きに依って、加嶋この辺、水流少しくなり、窪々、河原、田地になり、村数も追々増して、これに依って、惣名を加嶋という。これ皆、富士川の流跡なれば、加嶋よりこの辺の村々の名、大方水辺の名、多かるべし。
※ 備前土手 - 江戸幕府関東代官頭、伊奈備前守忠次が築いたとされる富士川の土手

水神の岩を切り通して、富士川の瀬替えが行われた記事である。伊奈備前守忠次が活躍したのは江戸時代が始まらんとするときから、江戸時代の極初期の話で、案外、天正の瀬替えを参考に行われた工事かもしれない。

自分が住む近隣は、大井川の天正の瀬替えで、川底だったところが田地にかわった場所である。だから、瀬替えの結果は似通ったものであったと思う。近くの地名に島という名も残っている。

田嶋村の堤外を城山というは、昔しはここに城ありしや、城なる山ありしなり。然し馬場という字、田所有り。何にても小山を引き崩して田と成りしなり。田嶋と名附くる、その次村を中河原と云うは、潤(井)川と生贄と、中の河にて有りしなり。田地と成ると、これ則ち中河原村なり。この村に舟付屋と云う字あり。これまた海川に近き名なり。
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