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丹後半島一周の車旅 - 墓参に帰郷の三日間



(伊根の舟屋)

七日に初盆参りも、墓参も済ませて、八日は車でどこかへ周ろうと次兄が誘う。本当は竹田城跡に行ってみたいと思った。竹田城跡は、今、日本のマチュピチと呼ばれて脚光を浴びている。雲海に浮ぶ島のように見える石垣群は、確かに一見に値する。霧の中では町からは、あの有名な写真のようには見えないのは勿論、城跡に登っても、雲海が見えても石垣の全貌は見えない。どこか近くの山に登ってみるのだろうか。出来たらそんな事も良く調べた後に、登りたいと思った。とにかく、この暑さでは例え低山とは言え、山に登るのは無理である。また登っても雲海がないとつまらない。雲海が出るのは秋だから、またの機会にするしかないと思った。

次兄の提案で、丹後半島を一周、兄弟3夫婦揃って、2台の車に分乗して出掛けた。外は酷暑だけれども、車の中はクーラーが効いて快適である。自分が運転したアクアは燃料が高騰していることが全く気にならないほど燃費が良い。一方、次兄の車はアクアの2.5倍ほどガソリンが掛かって大変だと思った。

幾度も訪れたことのある天の橋立はそばを通過しただけで、今日のメインの伊根に急いだ。伊根の舟屋は何時からだったか、急に有名になった。絵を描くのを趣味にしている長兄が一度行って見たいと話していたところである。丹後半島の東岸を北上した先に入江や島の囲まれた伊根の町が見えてきた。

伊根の舟屋のある町並みは重要伝統的建造物群保存地区に指定されて、保存が図られていると案内板にあった。

若狭湾に面した伊根浦は、日本海には珍しく南に開けた静かな入り江であり、東、西、北の三方を山に囲まれている。伊根湾と日本海の接するほぼ中ほどに、自然の築いた防波堤のように緑深い青島が浮かんでおり、伊根湾の入口を二分している。

しかも伊根湾の三方を囲んでいる急斜面の硬い岩山は、そのまま海に落ちて深い淵をつくっており、波を起こしにくい地勢を形成している。また、伊根湾においては潮の干満差は極めて小さく(年間50cm程度)、静穏度の高い天然の良港といえる。

およそ350世帯で構成される伊根浦の集落は、延長約5kmにおよぶ伊根湾の海岸沿いに連続して細長く形成されている。


大変解りやすい説明だったので、長々と引用させてもらった。湾に沿って建てられた家は、2階建ての一階が海に向かって開き、舟でそのまま家へ入る造りになっている。まるで住居の下がガレージになっているような造りである。海側から見ると家が半分海に沈んでいるように見える。

湖のように静かで、水位が変わらない湾だから出来た特殊な町並みで、おそらく日本には外に例のない地形条件であると思う。若狭湾には年縞で世界に知られた水月湖もあり、何か不思議な魅力を持っている。

この後、灯台のある経ヶ岬、間人皇后ゆかりの間人、鳴き砂の琴ヶ浜、小天橋などを通って実家へ帰った。ほとんどが素通りだったが、日本でもっとも目立たない半島の丹後半島にも、なかなか見所が多そうである。

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「かさぶた日録」のことなど - 墓参に帰郷の三日間

(三日留守にしたら、裏の畑のキュウリが巨大化した
- 小さいのが採り頃のキュウリ)

7、8、9日の三日間、故郷に墓参で帰郷した。

故郷の次兄との話で、「かさぶた日録」はもう何年になると聞く。2006年元旦から始めたから、もう7年と8ヶ月目に入った。ほぼ毎日の書き込みがそれだけ続いているのは誉められてよいのだろうと思う。生まれてこの方、毎日のことで、これほど長く続けたことはない。始めた当初、59歳でまだ現役だったけれども、67歳にも齢を重ねた今は、まったく仕事はしていない。あと2年半で「かさぶた日録」開設から10年になる。そこまでは何とか続けたい。60代が終ったら、70代をどう生きるかと考える中で、ブログをどうするかを考えよう。

ブログを毎日続けていることを誉められることがあるが、自分の意思さえしっかりしていれば、続けられるなどと、今は大言はしない。病気でもすればたちまちストップするし、家族に心配事があれば、ブログなど書いておれなくなるだろう。これだけ続けられたのは、何と言っても、家族に大きな心配事がなく、自分もまずまず健康に過せたからであろう。周りの皆さんに感謝々々である。

最近は古文書の解読の勉強に一生懸命で、ブログを休みたいくらいであるが、両立させるために、今勉強していることをブログに書こうと思った。そうすれば両立できる。皆さんには興味のないことを書き綴って、大変迷惑なことと思う。自覚はしているけれども、勘弁してもらうしかない。古文書以外の関心事も、せいぜい、書くように心掛けたいとは思っている。ただ、古文書の解読に熱中していると、世の中の日々の動きなどに興味が湧かなくなることも事実である。

七日の夕方、嫂の実家へ、嫂の母親の初盆のお参りに、兄弟三人揃って行き、少しお話をしてきた。嫂の兄さんは高校の一年先輩で、文化祭の時に、その先、親戚になるとも知らないで、少しお話をしたことがあった。家業の不動産業をまだ続けているのだが、近年は身体にも色々いう事があって、と話される。それでも、次男が継いでくれることになって、勉強を終って、今徐々に仕事を任せ始めていると聞いた。

お遍路に行ったときに聞いた話で、人生で一番良い頃は、何と言っても60代、仕事も子育ても終えて、しかもまだ体力が残っている。何かするなら60代だと言われたことを話した。だから自分は仕事はすべて止めた。今は古文書の解読の勉強に頑張っている。嫂の兄さんは68歳、早く仕事を息子さんに任せて、何時までも仕事にかまけている時ではないと話したかったが、言葉を呑んだ。人それぞれのライフスタイルで、他人がとやかくいう事ではないからである。
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事実証談 神霊部(上) 31、32 社木を薪として家を焼失した祟り

(第31話、山名郡大原村の水神社)

二日間、ブログの書き込みを休んだ。理由は7、8、9日と2泊3日で故郷へ墓参に帰っていたためである。ネット環境が整えなくて書き込みを休んでしまった。帰郷の話はまた日を改めて書き込もうと思うが、今日は7時間ほど車を運転しっぱなしで疲労困憊して、事実証談の31話、32話の紹介で書き込みに変えようと思う。この2話は社木を薪として燃やした崇りで、自宅を焼失した話である。

第31話
山名郡大原村、市三郎という者、文化三年、同郡大和田水神社の社木を、伐り取り薪にせし崇りにこそ有りつらめ、その年の十一月晦(みそか)頃、思いがけざる所より出火して焼失せし故、兄の家に移り同居してありしに、又十二月晦頃、兄の家も焼失して頼み拠るべき住所なきにより、とかくして己が家を造りて有りけるに、又翌年の正月、屋根の上に出火せしを見付けて打ち消したりしに、又二月の末の頃、出火してその家も焼失しかば、今は家作して住むべき力もなくて、こゝかしこの寺院によりて有りしと言えり。

第32話
長上郡美薗庄、住吉社の祠官、文化四年の冬、社木三本伐り取り、薪とせしを、翌年正月の初め、月役にて有りし女、誤りて別屋(これは国の慣わしにて、月役の女は火を忌み憚りて、別屋にて炊(かしき)するなり)の薪とせし事有りし故にや、二月三日、その家に積み置きし書籍の中より出火し、畳へ焼け抜けしを見付けて打ち消しけるに、また同月六日、庇より出火して神棚に焼け抜け、それより遠く、次の間、襖、障子まで焼け通りたるを打ち消しけるに、怪しくも丸く焼け抜けしさま、大筒にて打ち抜きし如く、自然と焼け抜けし様にはあらざりしと言えり。

また三日ばかり過ぎし頃、いづくよりか、烏(からす)火をくわえ来りて、外庭に寄せ置くる籾糠の中に入れしを見付けて、いとゞ怪しみ、これた只事にあらじと、その村挙(こぞ)りて、凶事を祝い直さんとて、二月十九日よりその年の正月事始めとせんとて、改め祝い、同廿一日、昼九つ時の頃、天竜川に出で、身そぎして有りし程に、ある家の二階より出火して、その辺、四十五軒焼失せしが、かの祠官の家はその時に免れしかども、三月廿日頃に至りて、雪隠、馬屋ばかり焼失せり。
※ 籾糠(もみぬか)- 籾米の外皮。もみがら。

これ等は穢れたる火に社木を焚(た)きし崇りなるべければ、慎み恐るべき事になん有りける。
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事実証談 神霊部(上) 28~30 山神の祭り日に木を伐り崇った話

(先日、買ってきたエキザカムの花)

事実証談 神霊部(上)第28話から第30話までは、山神の祭り日に木を伐って崇った話である。

第28話
榛原郡小牧村、源蔵という者、同村八幡社の社木を、神主中村日向に乞いて伐取るとて、文化九年十二月七日に、かの社に行きしに、日暮れけれども帰らざりける故、家族怪しみ尋ね行きければ、その木の本に気絶して有るを、見驚き呼び活けて、家に連れ帰り、その故を問うに、かの者言いけるは、初め木を伐らんとする時、後より袂(たもと)を取り引く心地せし故、振り返り見しに、物なければ、又伐らんとするに、なお前の如くなる故、また見れども衣裳(きもの)に障るべき物もなければ、怪しき事に思いつゝ、また伐らんとせしまでは覚え有りしを、何とて気絶せしか、知らずと言いしとなん。それより弥増(いやまし)に悩みて、同月九日死せりと言えり。

第29話
周智郡宇刈郷に、次郎九、与兵衛という者両人、文化四年十一月七日、山神という所の木を伐り初めしに、その日伐り終らず、また翌八日に行きて伐りたりしに、与兵衛その木に押し殺されしと言えり。

第30話
佐野郡原田庄、常五郎という者、文化八年十一月七日、山に入りて木を伐らんとせしに、その斧を己が膝に打ち込みし故、治療して疵口は癒えしかど、かゞまり付きて、漸(ようよう)杖にすがりて歩行(あるく)と言えり。すべて十一月七日、十二月八日は山神の祭りとて、山里にて木を伐る事は、更にも言わず、山に入る事をも忌み憚(はばか)りければ、かゝる事の有りしは、皆山神の崇りなるべし。


日本の現代の山々にはびっしりと針葉樹や照葉樹が生えて、山に入ると、森林限界を越える高さまで登らない限り、ほとんど見晴しはきかない。ところが江戸時代の山は、色々な文書で見る限り、もう少し樹木が少なくて見晴らしがきいたように書かれている。

江戸時代、木は建築の主材料であり、煮炊きや暖房のための燃料であり、生活に欠かせないものであった。人々は山に入り、山から多くの木を頂いて生活を立てていた。現代中国の山々では、気候の温暖な恵まれた地域でも、貧弱な樹木がまばらに生えている状態である。木々は無制限に切られて日々の燃料にされてしまうからである。江戸時代の山もそれと似たような状況であった。

樹木について、様々なタブーがあるのは、樹木の乱伐を防ぐ、往昔の人々の知恵だったのだと思う。山神の祭り日には木を伐らないというのも、そんなタブーの一つだと思う。なお、現在のように、日本の山々に木々が溢れるようになったのは、戦後荒れた山々に挙って植林を進めた結果である。
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事実証談 神霊部(上) 24~27 神木、社木を伐り、押殺された話

(雨に濡れた我が家の庭)

朝早くから、孫四人が我が家に来て大騒ぎで目が覚めた。午前中、雨が降ったり止んだりで、涼しくて凌ぎ易い日であった。午後は雨も止んで、気温が上った。

   *    *    *    *    *    *    *

事実証談 神霊部(上)第24話から第27話までは、神木、社木を伐り、その木に押殺された崇りの話である。真っ直ぐに伸びた杉や桧と違って、自由に枝を伸ばした神木、社木は倒れる方向を定め難い。それだけ事故も多い。現代ならば労災事故として片付けられる事件なのだろうが、往時は社木を伐った崇りとなる。

社木を伐って崇られて、その木の下敷きになって死んだとは、そんな不名誉な話は、公にすることがはばかられたのであろう。どの話も場所が特定できるものがぼやかされていて、現地へおもむく手掛かりが少なくて、取材は断念せざるを得なかった。

第24話
周智郡粟倉村、鷲岡寺門前なる荒神の社の神木と言い伝えし木を、同郡宮代村幸右衛門という木挽き、伐りけるに、その木に押し殺されしと言えり。これは天明四年の事なり。

第25話
豊田郡、ある稲荷明神社なる松木を、同村彦太夫という者伐りしに、彦太夫の男子与三吉(十四、五才)押し殺されしと言えり。この木は囲壱丈八尺有りしと聞けり。これは寛政と言いし年の末の頃なり。

第26話
文化三年冬、城東郡笠原庄、ある寺の地内なる、稲荷の社の松の大木を伐りしめんとするに、神木ならん事を恐れて伐る者なかりしかば、住僧自ら根伐りせんとて、伐りたりしに、図らずもその木、僧の上に倒れて、押し殺さるべきありさまなるを、人見付けて、大木を取退(の)くべき由なければ、早鐘を撞き、人を呼び集め、その木の本末を伐りて、かの僧を引き出させしかど、その程に死せりと言えり。

第27話
長上郡美薗庄にて、寛政十年と言いし年、久左衛門と言いし者の計らいにて、八幡社と明神社と二社有りしを、二社にては費(ついえ)なりとや思いけん、八幡の社の方へ明神社を遷し、明神社地を廃せんと図り定めたりければ、その崇りにてこそありつらめ、久左衛門、俄かに大熱の病、発(おこ)りて、病死せしのみか、それより社鳴動する事、度々なりしかども、その崇りとも知らずや有りけん。氏子たゞ怪しむのみにて、久左衛門が言いし如く、社木を伐り新たに社を造立して、一所に祭らんとて、鍵取り、奥谷某(なにがし)の伯父、油屋某、社木を伐りしに、その木に押し殺されしかば、始めて神の崇りなるらん事を恐れて、卜者に占わせたりけるに、両社を一社に遷し祭らん事、神の御心に叶わずと占い合わせけるにより、その事を止めしと言えり。
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事実証談 神霊部(上) 23 江戸葺屋町市村座の蒙った障り

(子供たちが、道の駅掛川で買ってきた、富士山メロンパン?)

昨日の昼頃、名古屋の孫、かなくんとそのママが新幹線でやって来た。パパはどうしたのと聞くと、カブトムシの世話で家に残ったと答える。幼稚園が夏の休みに入り、まーくんたちと遊びたいので、仕事があるパパを残して一足早くやって来たのだろうが、「カブトムシの世話」というのが面白い。さらに聞けば、番いのカブトムシが卵を数十個産んで、次々に幼虫に孵っているらしい。パパは仕事が夏休みに入ったら、そのカブトムシを持ってやってくるという。

今夜はかなくんはまーくんの家へ一人でお泊まりに行った。

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事実証談 神霊部(上)第23話は江戸の話である。

江戸葺屋町、市村座芝居は、堺町、木挽町と共に、常に繁昌せしに、文化十二年の頃より、何となく不繁昌にて、同十二年という年の春の頃には、退転にもなるべき状(さま)となれりけるにより、二月下旬より、座元名代、桐長桐と改め、三月中旬頃より漸(ようよう)に興行せしに、三日ばかり過ぎし頃、口論有りて神田の鳶の者という者どもの仲間言い合わせ、凡そ三、四百人、火事具、鳶口など持って押し寄せ、狂言最中に打壊しけり。見物の者も怪我せし者多かりけり。
※ 桐長桐(きりちょうきり)- 江戸前期の女歌舞伎桐座の座元。名跡は代々女子が相続し、市村座の控櫓(興行の代行者)として、天明4年(1784)から4年間、寛政5年(1793)から5年間、文化13年(1816)から翌年まで、葺屋町で興行した。文化12年と13年の一年の違いがある。事実証談の方に間違いがあるようだ。

公訴ともなるべかりしを、よう/\内済にて鎮めりしかども、その騒ぎによりて、又暫く休み、その後、又二日ばかり興行せしに、又故障出来て休みたり。これ唯事にはあらじと、人皆噂しけるに、忌々しき障り出来にけり。その由は、堺町肝煎名主方、書き留むとて、江戸より送り来たりし書を、證しとして、こゝに記す。

    葺屋町芝居座     桐長桐
右芝居狂言座、市村羽左衛門、興行仕り候節、四ヶ年以前、酉年十一月中、類焼仕り、翌戌年春、普請の砌り、芝居梁に相用い候松材木、東海道程ヶ谷在、星川村、日蓮宗法性院持ちの由、松山大明神、境内にこれ有り候、松三本伐り出し、梁に相用い、普請出来仕り候所、右松木は神木にて崇りこれ有り、芝居不繁昌の由、この節、取沙汰仕り候に付、芝居の者ども、先月下旬松山大明神へ参詣罷り越し、先方へも祈祷相頼み罷り帰り候。

芝居にても祈祷致すべき旨、芝居並び町内の者ども申し合い、谷中善龍寺地中、本壽院住持日應、外九人相頼み、当月三日、朝五つ半時頃、右僧拾人罷り越し、芝居表入口這入り、舞台正面に曼荼羅を備え持ち出し、法事千巻だらに読誦相始り、間もなく在曼荼羅の前に差し置き候、百目掛けの蝋燭弐挺、一時に消え、表の方より三本目、長サ拾弐間余り、末口壱尺五寸余り、松梁壱本、中程より折れし、屋根、坪凡そ六拾坪程、落ち込み申し候。もっとも怪我人は御座なく候。

本文梁伐り出し候砌り、松山大明神社損じさせ候由、右崇りにてこれ有るべく候趣に御座候、已上。
  五月

前代未聞の珍事なりと、江戸より言い送りし故、写し添えつ。
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事実証談 神霊部(上) 19~22 各地、しゃぐじの杜(もり)の崇り



(遠江国一宮、小国神社の「飯王子社」)

事実証談 神霊部(上)第19話から第22話までは、各地に残る、しゃぐじの杜(もり)の崇りの話である。

第19話
同郡太田郷の杣人武助という者、粟倉村社宮子の杜の木を伐りべかりしに、その日伐り終らず、翌朝、又伐らんとて、行き見るに、一夜のうちに、昨日の伐り口癒(い)え合いて有りし故、畏き事に思い、粟倉村文殊院という修験に祈願を頼みて、札守りをかの杜(もり)に収めしといえり。

第20話
同郡天宮村、市兵衛という者、天宮郷薄場村の山にて、松の木を伐りしに、その日伐り終えずして、翌日なお猶伐らんと行きしに、切口もとの如く癒(い)え合たりし故、怪しみて伐る事止めしと言えり。又粟倉村の何某、同村なる社宮子の杜の木を伐りしより、口曲がりたるも、上にいえる文珠院の父、仲條院の祈願にて、速かに直りしと言えり。これは安永年中の事なりとぞ。

第21話
榛原郡地頭方村、勘兵衛、幸八という者両人とも、十五、六歳の頃、山の神の辺なる草を刈るとて、勘兵衛はその事を山神に断り申して刈りけるを、幸八嘲けりたりければ、その者の口、忽ちに曲りたりし故、和し祭りければ、大方は直りしかど、猶いさゝか曲りて、文化五年五十二歳にて、なお然りと言えり。
※ 和す(なごす)- 柔らげる。穏やかにする。

第22話
佐野郡尾高庄、五郎右衛門という者の妻、社子師の杜の辺にて草刈りけるを、人皆社宮子の杜のわたりなる草をば、忌みて刈らぬ習いなりというを、かの妻言いけるは、草刈りたりとて何事か有るべきと、社子師の杜の草刈りければ、忽ちに口曲りたりける故、崇りなりと和(なご)し、祭りたりければ、少しは直りしかど、それより口曲りて今に然りと言えり。


崇りで口が曲るという話が続いたが、病だとすれば脳梗塞のようなものだろうか。「しゃぐじ」から「斜口」で、「口が曲る」という症状が連想されたようにも思う。もちろん、個人的な思い付きであるが。脳梗塞のように、突然に襲われる病は、崇りとでもしなければ理屈が付かなかったのであろう。

小国神社の境内に「飯王子社」という小祠があると、ネットで見付けた。7月28日に現地へ行ってみた。小国神社の鳥居の前には、「ことまち横丁」という商業施設が出来ている。伊勢神宮の「おかげ横丁」を真似たものなのだろうが、神霊スポットブームにも乗って、この暑さにも関わらず、駐車場はいっぱいで、カキ氷の店など行列が出来ていた。後から考えるとその日は日曜日だった。「飯王子社」は「ことまち横丁」のすぐそば、鳥居を潜った左手の山の斜面にあった。近くをたくさんの参拝客が通るけれども、関心を寄せる人はいない。

ネットの由緒では、昔、遠州横須賀で、旱魃や長雨で五穀稔らず、住民は遠江国一宮に詣でた。豆を捧げたところ、村長の霊夢に「端殿を横須賀の方に向け、保食神を飯王子社と称へ奉らば五穀稔らむ」との神託を受け、社殿を横須賀の方に向けて祭ったところ、以来、不作が絶へたと伝わる。2月15日の祭りに上げた大豆を、馬や牛に与えれば災いなく無病に育つとも伝えられる。

この「飯王子社」の振り仮名が、「いいおおじしゃ」となっていた。縄文時代の狩猟、採集の神であったはずが、弥生時代以降の農耕の神になっている。おそらく「飯王子」という当て字されたことから生じた、誤解ではないのかと思う。誤解されても、その祈りを受けてしまう「しゃぐじ」の杜の神の大らかさが面白い。
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横内川通船一件控え帳 5 - 駿河古文書会

(庭のムクゲ花盛り)

午後、駿河古文書会にて、靜岡へ行く。今回の課題は「横内川通船一件控え帳」で、半年前の2月15日に扱ったものの続きである。御役所へ上げる文書は、その一紙で今までの事情が判るように書くため、内容が少し追加になるだけであっても、始めから事情の説明を行わねばならず、内容がくり返しになることを否めない。今回、御役所に上げた文書も、2月15日に紹介した文書と似ている部分が多い。

   恐れながら書付を以って願い上げ奉り候
池田岩之丞御代官所 松平丹後守領分 有渡郡上足洗村、岡野出羽守知行所 同郡下足洗村、曽我伊予守知行所 同郡沓谷村、右三ヶ村役人ども、申し上げ奉り候

今般、横内川通船の義、仰せ出させられ、川筋通り御見分、御水盛り遊ばさせられ、村々役人ども召し出され、大塚唯一郎様仰せ聞かれ候は、この度横内川
通船路切り開きに相成り候に付ては、右川通り、上土村通りの間、川巾切り広げ、川床も掘り候場所、これ有るべく候間、御田地に差し障らざる様、新規養水路の御思し召し付、御上様には御座候えども、村々役人どもよりも、御田地養水差し障りに相成らざる様、新規養水路存じ付の趣、絵図面に仕立て差し上ぐべき様、仰せ付けられ候に付、村々役人ども申し談じ、よんどころなく、荒増の所、書き上げ奉り候

右絵図面の通り、仰せ付けられ候ても、新規の義に御座候えば、往々難儀覚束なく、殊に新川相立て、古川切広げ相成り候えば、御田地相潰れ、百姓の難義、如何程か積り難く、多分(に)御取箇筋へ拘わり候義に存じ奉り候、かつ私ども村々の義、往古より御堀御流れ横内川のみを以って、御田地相養い、滞りなく御年貢御上納仕り、村々永続致し、有難く存じ奉り候、右養水路の義は、四季ともに掛け干し第一の地情にて、別して冬水不足致し候えば、忽ち地劣りに相成り、御上納米も相減り、百姓ども家業薄く、殊に私ども村々の義は、堀井戸出来仕らず、百姓ども日用の呑み水に差し支え、一同退転仕るべき基いと、歎かわしく存じ奉り候

かつまた、右川通船の義、往古、権現様御時、右川筋舟入りに遊ばさせらるべきと、仰せ出でさせられ候えども、村々難義の段々御訴詔申し上げ奉り候えば、舟入りの義、仰せ付けさせられざる記録も御座候、その後、延宝度、安永度、寛政度も願人これ有り、目論見候えども、村役人相対仕り、御奉行所様へ差し障り書差し上げ奉り候えば、御沙汰止みに相成り来り申し候間、この度の御義も前顕差し障りの廉々聞こし召し訳させられ、格別の御慈悲を以って、これまでの通り御差し置き候様、願い上げ奉りたく存じ奉り候えども、相成らざる義に御座候わば、御田地用水の義は、何方より下し置かれ候とも、一旦御堀へ落ち込み、御堀水落より御分水頂戴仕りたく存じ奉り候、これとても新規の義に御座候えば、往々義、計り難く百姓ども愚意に落ち兼ね候間、それぞれ御地頭所へも申し上げ置き候間、何とぞ莫大の御仁恵を以って、村々百姓永続仕り候様、御憐愍の御意幾重にも願い上げ奉り候、以上
※ 前顕(ぜんけん)- 前に書きしるしたこと。また、前にあきらかにしたこと。

 卯六月            池田岩之丞御代官所
                    松平丹後守領分
                  有渡郡上足洗村
                   名主  久右衛門
                   同   権右衛門
                   組頭百姓代 不残
                 岡野出羽守知行所
                   名主  彦作
                   組頭  清次郎
                   百姓代 与市
                 曽我伊豫守知行所
                   名主  卯兵衛
                   組頭  藤兵衛
                   百姓代 彦八
    通船御用
       御役人中様
             六月七日、清水出役先、差出し申し候

(つづく)
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事実証談 神霊部(上) 18 周智郡天宮村、しゃぐじの杜の崇り



(裏の畑のブルーベリーの収穫、7月27日)

事実証談 神霊部(上)第18話は周智郡天宮村のしゃぐじ(飯王子)の杜の崇りの話である。

周智郡天宮村に飯王子(しゃぐじ)の杜(もり)(或は社宮子又左軍師、左口神、赤口神、六狐、また夜川十五七百村なるは社子神と書けり、未詳)とて、雑木生い繁りし杜有り。
※ 夜川十五七百村 - 周智郡にかつてあった村

寛政年中、ある老婆、かの森の枯れ枝を取りて薪とせしに、それより眼かすみて、瞽(めしい)の如くなりしゆえ、飯王子杜の崇りなるべしと、天宮の社人、乗松衛門という者に乞いて、祈願せさせたりければ、廿日余りかすみたりし眼の、忽ち明らかになりしは、誠にかの崇りなること、著しくぞ有りける。

すべて飯王子の杜というは、山里に数多あれども、祠のある所は、おさ/\見えず。多くは楠の木をしるしとし、諸木生い繁げれる杜のみなるが、萬ずに付きて、崇り有る事、いち早き故に、速かに崇る事をば、世の諺に「社宮子の罰」と言えり。
※ おさおさ - ほとんど。まったく。


飯王子の杜の神とは、日本にまだ稲作が伝わって来ない以前、狩猟と採集でかてを得ていた時代(縄文時代)から、日本の杜にいる神であるといわれる。文字のない時代の神だから、日本に文字が伝わってから、様々な文字が当てられて、200種類以上の書き方がされ、その属性も地域によって様々である。ないがしろにすると、崇りを起こす神様で、縄文の神とか、狩猟の神とか、山神、測量神、樹木の神とか、その信仰も様々である。「しゃぐじ」に接頭語「み」を付けて、「みじゃぐじ」と呼ばれることもある。

多くの場合は、社殿や鳥居もなく、野原の真ん中の数十センチの自然石に、しめ縄を巻いたりして、「しゃぐじ」を拝む場としたり、また、毎年、山の小枝で山中に小さな社殿をつくり、ここに「しゃぐじ」を祀る地域もある。本州中部に多い信仰で、山梨や長野には特に多い。現代でも、山仕事をする人たちは、しゃぐじに山の幸を頂くことを断り、作業の安全を祈る。

6月8日の当ブログで、「ヤシャビシャク」の話を書いた。「ヤシャビシャク」を手元に置く効用として、「昔は猟師が、縁起物、あるいは神が宿ると考えたのか、狩にでる前に庭に植えたヤシャビシャクに、ちょっと手を合わせて出かけると、良い猟が出来る」という伝聞を書いた。「ヤシャビシャク」は夜叉柄杓と書く。柄杓は杓子(しゃくし)とも言い換えられるから、「しゃくし」から「しゃぐじ」が連想されて、人目に付かない高木の上で密かに生える「ヤシャビシャク」が飯王子の杜の神の化身とされて、祈りの対象になったのではないか。まったく個人的な想像であるが、どこかの民俗学者がそんな話を書いているかもしれない。
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