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「水濃徃方」の解読 55


(サイドミラーに蜘蛛の巣)

マイカーのサイドミラーに蜘蛛の巣が張られている。毎日乗っている車の運転席側で、助手席側には張ったことがない。よく観察すると普通の蜘蛛の巣とは違って、鏡を覆うように張っている。実はこれが最初ではない。もう二年ほど前から何度か奇麗にするのであるが、一晩で新しい網が張られる。

観察するうちに、幾つか疑問がわく。まず、第一に、蜘蛛の姿を一度も見ないが、いったい蜘蛛はどこのいるのか。第二に、こんな所に張って、獲物が引っかかるのだろうか。獲物が掛かっているのも見たことがない。第三に、最初から同じ蜘蛛のしわざなのか、あるいは代替わりして、その方法が受け継がれているのだろうか。

第一の疑問は、想像するに鏡の裏側の空間(ミラーケース)が住処になっているのだろう。出入りするくらいの透き間はある。第二の疑問は、獲物があるから生きて行けるので、獲物は見たことがないだけで、掛っているのだろう。鏡の空間へ飛び込もうとして、網にかかると想像するのだが、果たして虫に、鏡の向うの空間が見えているのだろうか。第三の疑問には答えがない。もしこの狩の方法が受け継がれているとすれば、なかなか面白い。

鏡を外してミラーケース内を調べれば、色々な疑問が解明できるのだろうが、今や、身内のように感じて、触る気にはならない。ただ時々は蜘蛛の巣を奇麗に掃除させてもらおう。

10時ごろ、長兄の長男、自分には甥が、我家にやって来た。駅まで迎えに行き、金谷は初めてだと云うから、先ず牧之原公園から、金谷の町を展望して、案内した。残念ながら、富士山は見えなかったが、スマホで方向を確かめて、この方向でしょうと自分で指さした。金谷の町を説明するにはここへ連れてくるに限る。

旧東海道を日本橋から歩き始めて、原宿まで来たというので、石畳の金谷から登って来るところと、菊川の下り口を見せて、諏訪原城を少しだけ案内した。その間に牧之原大茶園の一部も見せることが出来た。

家に連れて帰って、二時間ほど話しをする。ほとんど、お遍路、東海道歩き、古文書解読など、自分の話で終わったような気がする。コロナも気になって、今日は限られた時間に終わったが、コロナ禍が終れば、時間を十分に取って、ゆっくりと話したいと思った。

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「水濃徃方」の解読を続ける。

礼は飲食に始まるとて、天地開け始まりしより、一日に三度ずつ、戦場でも、焼原でも、喰わねばならぬ一大事と、聖人も、大牢小牢の分かちより、甜瓜(まくわうり)のむき様まで、貴賤の(しな)を厳重に設け給う。
※ 分かち(わかち)➜ 物事の区別。けじめ。
※ 等(しな)➜ 物事の格付けをさしていう。わかち。

着るものじゃとて、その通り、近き頃までも、軽ろき町人、百姓は、芦の穂を入れて、麻の布を着たと言えば、綿入れと云う詞(ことば)に並びて、穂入れと云うたればこそ、穂入れ綿と云う言葉がある。芳嶺綿、おろしの保冷綿、色々ありのと、看板に書くも、昔の質朴な世に心が付かぬ間違い。新道の講釈じゃの。
※ 穂入れ綿(ほいれわた)➜ 穂綿。綿の代用にした、チガヤ・アシなどの穂。
※ 質朴(しつぼく)➜ 性格がすなおで律義なこと。また、そのさま。純朴。素朴。
※ 新道(しんどう)➜町家の間にある狭い道。また、それに面した家。多く借屋などのあるところ。ろじ。
※ 新道の講釈(しんどうのこうしゃく)➜ しょせんは路地裏の講釈だ、の意味。
(「水濃徃方」つづく)

読書:「源九郎の涙 はぐれ長屋の用心棒 40」 鳥羽亮 著
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