ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権366~世界人権宣言起草で合意が可能となった理由

2016-10-22 08:53:43 | 人権
宣言起草で合意が可能となった理由

 私は、世界人権宣言の起草委員の間で合意がされたことが、そのままで人権の正当化の根拠となりえないと考える。根拠とするには、どうしてそういう合意が成立し得たのかを問わねばならない。言語・文化・宗教・思想等が違っても起草委員の間で人権に関して合意が可能だったのは、合意の出来るような共通性を互いに認め合ったからだ、と考えられる。委員会の提案は、国連総会で決議され、各国で承認を得た。そこにも言語・文化・宗教・思想等の異なる多数の国々が賛同できるような共通性を互いに認め合ったからだ、と考えられる。その共通性とは何か、を問う必要がある。
 私は、人権の正当化の根拠は、権利を相互に承認する人間の能力にあると考える。権利は、神や宇宙的な原理に直接基づくのではなく、人間が相互に承認することによって成り立つ。人々の間での相互承認が要諦である。主権も人権も絶対的なものではない。もとをたどればどちらも人間の権利の相互承認による。仮に承認する者のうちの一人は、その権利は神によって自分にも異教徒にも与えられたものと考え、一人は宇宙的な原理によって等しく人間に内在するものと考え、一人はそれぞれの先祖から受け継いだものとして尊重すべきものと考え、別の一人は互いの利益のために認め合うべきものと考えた、としよう。それぞれの世界観や価値観は違えども、これらの人々が相互に承認するならば、それで人権と称される権利は成立する。世界人権宣言の起草及び総会決議では、こうした合意による承認が行われた。その点をさらに踏み込んでいかないと、人権論は抽象的な認識をやり取りするだけの皮相な議論になると私は思う。
 世界人権宣言の起草の事情を見たとおり、この宣言は、人権の基礎づけをせずに権利を宣言する仕方で発せられた。第2次世界大戦後、世界戦争による自滅、拷問、殺戮等を避けるという目的のもとに、とくかく相互承認の合意が求められたのだろう。この時、宣言に参加した各国の代表者たちは、一方的に権利を主張するのでなく、また一方的に相手の権利を奪うのでなく、相互に権利を認め合う合意をした。この事実が重要である。
 人権は、普遍的・生得的な権利ではなく、権利を相互に承認することによって、人権と呼ばれることになった権利である。人間は、相手の権利を認め、その権利を行使することを許容することができる。だが、同時にまた人間は、相手の権利を奪い、それによって自分の権利を拡張することもできる。人間は権利を巡って協調することも闘争することもできる。
 権利の相互承認は協調的な行為であり、権利の相互争奪は闘争的な行為である。こうした相反する行為は、人間の個人性と社会性に基づく。個人性とは、差異化・個別化を示す性質である。社会性とは、同一化・全体化を示す性質である。一が多となることを分裂という。多が一になることを統合という。分裂は差異化・個別化の方向である。統一は同一化・全体化の方向である。一の否定によって多となり、多の否定によって一となる。一から多へ、さらにその多から一へは、否定の否定である。否定の作用によって、一が多となり、多が一となる。一が多となって分裂した諸個人の間には、対立・闘争が起こる。多が一となって統合した諸個人の間には、融合・合同が行われる。ここで、一か多かという二者択一的な論理には、差異化・個別化か同一化・全体化か、対立・闘争か融合・合同しかない。だが、もう一つ別の論理が考えられる。それは、多が多のままで調和・並存するという関係である。世界人権宣言で合意された人権の思想が示しているのは、この多が多のままで調和・並存する社会の可能性である。世界人権宣言における権利の承認の合意は、この多元的な論理の可能性を示している。
 宣言において、各国の人間が多元的に相互に権利を承認し合ったということは、自分と多くの他者が共通性を持つことを認めたからだろう。多くの他者に自分と同じ権利を認めるということは、相手も自分と同じ能力や欲求を持っていると認めるからである。その認識は、どこから来るのか。共通の文化を持つからでも、共通の神を仰ぐからでも、共通の思想を信じるからでもない。言語・文化・宗教・思想等の違いに関わらず、相互に認め得る共通性が人間に存在するからであり、その共通性を認識する能力が人間にあるからだろう。世界人権宣言は、その共通性を理性と良心と同胞愛の精神という文言にして条文に盛り込んだ。相手も自分と同様、理性と良心を持つという理解と、同胞愛の精神を発揮し得る人類家族の一員だという評価が、権利の相互承認のもとになっている、と考えられる。
 ただし、相手も自分と同じ能力を持ち、また人類家族の一員だと認識したとしても、その上で相手と闘争し、自らの権利を拡張・増大し、相手の権利を制限・剥奪するための行動を起こすのも、また人間である。国際連合は、そもそも連合国の軍事同盟だった。国連加盟国の間でも、かつての米ソの対立、現在の米中の競合等のように、権利を巡る闘争が激しく行われている。この人間の協調性と闘争性という両面を踏まえて、人権を論じるのでなければ、現実を離れた理想論に陥る。協調性を伸長し、闘争性を抑制していくところに、人権のさらなる発達と世界平和の実現のための努力がある。

 次回に続く。

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