ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権368~自由と権利に伴う責任と義務

2016-10-27 09:40:09 | 人権
●自由と権利に伴う責任と義務

 人権の要素とされる自由と権利は、それ自体が目的ではない。個人においては、人格の成長・発展こそが、目的である。自由と権利は、人格の成長・発展のために必要な条件であり、また条件に過ぎない。条件と目的を混同してはならない。政府が国民に自由と権利を保障するのは、個人を人格的存在ととらえ、人格の成長・発展のために、国民が政府を通じて相互に自由と権利を保障するものである。
 人格は、自己にだけでなく、他者にも存在する。人は他者にも人格があることを認め、互いにそれを尊重し合わねばならない。個人の人格の成長・発展は、自己のためのみでなく、他者のためともなり、また社会の公益の実現につながるものでなくてはならない。ここにおいて個人間の関係とは、抽象化された成人の関係だけではない。子供や青少年は、親の保護と社会の教育のもとに、将来大人となるべく人格を形成する。親や大人には、子どもや青少年の人格を涵養する義務がある。年齢や性別等の違いを超えて、自他は互いに人格の成長・発展を促す共同的な存在であり、自由と権利は相互的・共助的な人格の成長・発展のために、必要な条件として集団によって保障されるべきものである。ここで集団とは、家族を単位とし、血縁・地縁による結びつきを持つ地域・民族・国家等の集団であることに注意すべきである。
 自由の擁護と権利の保障は、個人の欲求を無制限に認めるものではない。人はみな人格的存在であるという認識を欠いたならば、自由は放縦となり、権利は欲望の追求の正当化になる。権利の保障のための相互承認ではなく、権利の拡張・奪取のための闘争となる。だが、人権という言葉は、今日しばしば放縦や欲望の隠れ蓑になっている。私は、人格という概念の掘り下げを欠いたまま、自由と権利を人権条約や各国憲法で保障することは、自由と権利が目的化されてしまい、利己的個人主義を助長するおそれがあると考える。
 ここで重要なのが、自由に伴う責任、権利に伴う義務である。個人の権利は集団の権利あってのものであり、権利の行使には、社会的責任を伴う。権利を相互に承認することは、その保障について何らかの社会的義務を負うことである。
 人間の能力については、一般に本能、知能、理性、知性、感性、感覚、感情、思考、霊性、徳性等の概念が用いられる。世界人権宣言は、これらのうち、理性・良心・同胞愛の精神を揚げる。これらの能力を持つ主体が、宣言における人格である。宣言に基づくならば、人格的存在としての諸個人は、これらの能力を発揮して、社会生活を行う。その能力の行使が承認されたものが権利であり、その権利を普遍的・生得的なものと仮定したところに、人権の観念が成立した。
 宣言は、理性・良心・同胞愛の精神を掲げることによって、暗黙の裡に、人間は、人格的存在として理性・良心・同胞愛の精神を持って、自由に伴う責任、権利に伴う義務を果たすべきものと想定していると理解される。しかし、宣言は、人権に関する宣言であり、責任と義務については、主題的に宣言していない。宣言を踏まえて人権を考察する時、権利を行使するだけでなく、責任と義務を担う人格的存在としての人間を考察する必要がある。
 人間は集団生活を行う動物であり、生物としての人間の集団は、生存と繁栄を活動の目的とする。集団の構成員は、集団の目的に沿った行動をしなければならない。諸個人は、それぞれの能力を発揮する際、集団の目的のもとに、集団に貢献するよう、本能によって方向づけられている。この基本は、いかに文化が発達しても、人間が生物である以上、変わらない。人間はまた文化を創造し継承するという人間独自の集団活動を行う。人間は、協力して文化を創造し、親から子へ、世代から世代へと生命とともに文化を継承していく。諸個人の能力は、集団の文化が継承・発展されることに貢献するよう、知能・理性・知性等と呼ばれる能力によって、方向付けられている。こうした集団における能力の行使が社会的に承認されたものが、権利である。それゆえ、権利は本来、集団の目的に沿って、社会的な責任を以て行使しなければならず、またその行使には社会的な義務を伴う。その責任と義務の範囲内で、権利の行使が認められる。権利には、例えば、子供ではなく成人に限るとか、心神耗弱者ではなく健常者に限る等の場合があるのは、そのためである。しかし、近代西欧においては、共同体の解体によって、個人本位の考え方が強くなり、個人の権利を中心に考える傾向が顕著になった。個人の権利は集団の権利あってのものであることや、集団の目的のもとに責任と義務を伴うことが軽視されている。
 世界人権宣言の起草においては、西洋的伝統だけでなく、それ以外の多くの伝統を持つ諸社会からも代表が送り込まれて、議論がされた。だが、人権、自由、平等、人格等の価値は、基本的に近代西洋文明で生み出されたものであり、宣言はこれらの概念を十分検討することなく使ったため、自由に対する責任、権利に対する義務の側面が軽視されている。自由の擁護と権利の保障は進んだが、その反面、先進国を中心に個人主義的な権利意識が強まり、社会の共同性が損なわれる傾向に陥っている。この点の反省を踏まえて、権利を行使するだけでなく責任と義務を担う人格的存在としての人間の諸能力が考察されねばならない。

 次回に続く。