ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権102~フランス市民革命と人権宣言

2014-06-29 08:38:49 | 人権
●フランス市民革命と人権宣言

 アメリカで独立と建国がなされたことは、西欧諸国に大きな影響を与えた。最も早く反応が現れたのがフランスである。フランス市民革命は、ロックの思想の影響のもと、アメリカの独立革命に強い刺激を受けたものである。そして、主権と民権と人権の歴史において、画期的な出来事となったと見なされている。
 フランスはイギリスに比べて絶対王政が長く続いた。ブルボン家のルイ14世(1643-1715)の時代には、その絶頂に達した。王権は神に授けられたものだとする王権神授説が唱えられ、君主専制が行われた。重商主義政策を推進し、強力な常備軍を作り、ヨーロッパ随一の陸軍力を誇った。しかし、ルイ16世(1754-1793)の時代になると、イギリス等との植民地獲得戦争や宮廷の浪費が財政の悪化を招いた。そのうえ、アメリカ独立戦争を支援したことにより、財政は一挙に悪化した。
 アメリカでは、1776年1月に刊行されたトマス・ペインの『コモン・センス』が、独立運動の高揚に決定的な影響力を振るった。本書はその年の内にフランス語に訳され、フランスでも広く読まれ、大きな影響を及ぼした。
 ルイ16世は特権階級への課税で財政を改善しようとした。これに貴族が反発した。国王は事態打開のため、1789年に三部会を召集した。当時のフランスは、封建的特権を持つ聖職者(第一身分)と貴族(第二身分)、そして参政権がなく課税の義務を負う農民や市民(第三身分)に分かれていた。三部会は封建制のもとでの身分制議会だが、平民の代表も参加していた。
 それまで175年間招集されていなかった三部会が開催されると、会議は議決方法をめぐって紛糾した。シェイエス神父が『第三身分とは何か』を著し、「第三身分はこれまで無であったが、これからは力を持つべきだ」と訴えた。シェイエスに呼応した第三身分は、独自に国民議会を結成した。
 ルイ16世は軍隊をもって国民議会に圧力をかけた。怒ったパリ市民は武装蜂起を図り、7月14日、武器・弾薬の保管所となっていたバスティーユ監獄を襲撃した。蜂起の成功を受けて、国民議会はアメリカ独立宣言等を参考にした「人間及び市民の権利宣言」を採択した。このいわゆるフランス人権宣言は「人間は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」と宣言した。そして、国民主権、法の前の平等、意見表明・表現の自由、所有権の不可侵等が謳われた。人権宣言の思想については、項目を改めて書く。国民議会は91年、一院制の立憲君主制、有産市民の選挙権等を盛り込んだ憲法を制定した後、解散した。
 憲法のもとに、新たに立法議会が発足した。立法議会では、共和制を主張するジロンド派が台頭した。ジロンド派は、ジャコバン修道院に集うジャコバン・クラブから自立した穏健共和主義者だった。
 立法議会は、92年、亡命者送還の要求に応じないオーストリアに宣戦を布告した。ここでフランス市民革命は、国内の変革だけでなく、対外戦争を伴うものに拡大した。フランス軍は苦戦したが、「祖国の危機」が叫ばれ、義勇兵が結集した。この時歌われた「ラ・マルセイエーズ」がフランス国歌となっている。
 抗争と戦争の中で民衆はチュイレーリ宮を襲撃し、王権の停止を宣言した。また男子普通選挙による国民公会の招集が決定された。9月20日、国民公会は、王政の廃止と共和制の成立を宣言した。以後、革命前の体制は、アンシャン=レジーム(旧制度)と呼ばれる。
 翌93年、ルイ16世と王妃マリー=アントワネットは、断頭台(ギロチン)で処刑された。このことは、諸外国の王族・貴族に衝撃を与えた。イギリスが中心となって第1回対仏大同盟が結成された。外圧による危機が高まるなか、国民公会でジャコバン・クラブの急進共和主義者が主導権を握った。より急進的なコンドリエ・クラブからもこれに合流した。彼らをモンターニュ派と呼ぶ。その中心指導者のロベスピエールやダントンは、ジロンド派等の反対派を次々に断頭台に送って処刑した。国王が処刑されて君主制が廃止され、共和制が実現し、独裁者が登場し、粛清が行われたという展開は、まるでイギリス・ピューリタン革命の悲劇の再演である。
 恐怖政治の最中、エベール等の過激派によって、理性を神格化した「理性の祭典」が行われた。過激派は、カトリック教会の破壊や略奪を強行した。ロベスピエールやダントンは、無秩序が広がるのを恐れ、過激派を逮捕・処刑した。その後、独裁者となったロベスピエールは、94年「至高の存在の祭典」を行った。ロベスピエールは無神論に反対し、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と主張し、カトリック教会の神観念に代わるものとして、「至高の存在」を祭壇に祀った。
 恐怖政治への反発は強まった。94年7月27日、クーデタが決行された。今度は、ロベスピエールが襲われた。その死が銃殺か自殺かは不明である。これをテルミドールの反動というのは、急進共和主義をよしとする立場からの言い方である。95年には穏健な共和派によって、5人の総裁による総裁政府が成立したが、不安定な政局が続いた。
 ところで、18世紀後半のフランスでは、フリーメイソンが活動していた。ロックの思想は、フランスのメイソンにも影響を与えていた。絶対王政やカトリック教会を批判した啓蒙主義者のモンテスキューやヴォルテール、百科全書を編纂したダランベール等はメイソンだった。革命の指導者には、多くのメイソンがいた。シェイエスはその一人である。メイソンは一枚岩ではなく、意見の違いから対立・抗争し、革命の混乱は深まった。フランス革命の思想面については、第9章で市民革命から20世紀初めまでの時代に現れた思想について書く際に述べる。

 次回に続く。