●ナチスによるユダヤ人の迫害
ナチスは、国家社会主義とユダヤ人を敵視する特異な排外的民族主義とが一体になった特異な運動を推進した。ここに、国家的なユダヤ人迫害という重大な人権問題が生じた。ユダヤ人への差別は、ナチスが初めて行ったものではない。第5章にユダヤ人の自由と権利の拡大について書いたように、その根は深い。また、ユダヤ人への迫害は、西欧だけでなされたことでもない。19世紀末ロマノフ朝圧制下のロシアで、ユダヤ人は「ポグロム」と呼ばれる虐待・虐殺を受けた。多数のユダヤ人が、国外に出国してアメリカ等に移民するか、国内に残って帝政打倒の政治運動に参加した。ボルシェヴィキの幹部には、ユダヤ人が多かった。トロツキーやジノヴィエフ等がそうである。スターリンは、彼らユダヤ人幹部を次々に粛清した。その後も、ソ連におけるユダヤ人差別は続いた。社会主義または共産主義は、人種問題・民族問題を解決するというのは、虚偽の宣伝である。
だが、ナチスによる迫害は、政府によって組織的・計画的に行われ、またその規模において、前例がない。迫害は第2次世界大戦前から行われていた。戦争による虐待・虐殺とは、別の人種差別によるものである。
ワイマール共和国時代のドイツは、それまでの歴史において、ユダヤ人が最も活躍した社会だった。物理学者アインシュタインをはじめとして、ノーベル賞受賞者が11人も続出した。“ワイマール憲法の父”プロイス、外務大臣ラーテナウ、法学者イェリネック、フランクフルト学派のホルクハイマー、アドルノなど、科学、政治、経済、文学、美術、報道等の多彩な分野で、ユダヤ人の才能は大きく開花し、驚異的な活動を行った。
ところが、それゆえにこそドイツ人のユダヤ人への反感が強まった。ドイツでも中世以来、ユダヤ人への差別・迫害が行われていた。ナチスは、そうした国民の伝統的な反ユダヤ感情を増幅させ、ユダヤ人に対する迫害を行った。多くの優秀なユダヤ人が国外に亡命した。
第2次世界大戦開始後、ナチスによる人種差別的な迫害はさらに激しくなった。通説によると、強制収容所への収容、強制労働、毒ガス等によって、600万人のユダヤ人が犠牲になったとされている。毒ガスの使用や犠牲者の数等、通説には多くの疑義が出されている。だが、いずれにしても大規模に国家的な迫害が行われたことは事実である。
第2次世界大戦後の人権問題への取り組みの重要な動機の一つが、ナチスによるユダヤ人への迫害だった。国際的なユダヤ人の生命と尊厳、自由と権利を守るにはどうすべきか。外国に亡命を希望する被迫害者、国籍を失った人間、彼らの権利とは何か、誰がどのように守るかという課題が生じた。この点は、後に改めて書く。
●杉原千畝と樋口季一郎
ここで強調しておきたいのは、戦前のわが国は、日独伊三国軍事同盟によってドイツと同盟を結び、国家の針路を大きく誤ったものの、ナチスによるユダヤ人迫害には加担していないことである。逆に迫害を受けたユダヤ人を支援した日本人がいた。特筆すべき事例として、杉原千畝と樋口季一郎がある。
1940年(昭和15年)夏、ドイツ占領下のポーランドから多数のユダヤ人がリトアニアに逃亡した。彼らは当地で各国の領事館・大使館からビザを取得しようとした。しかし、リトアニアはソ連に併合されており、ソ連政府は各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めた。そこでユダヤ難民は日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。この時、彼らのために、ビザを発給したのが、杉原千畝である。第2次世界大戦の開始時、ヒトラーとスターリンには密約があった。杉原の行動は、その密約の下にドイツとソ連がポーランドを分割し、ソ連がバルト三国を併合するという状況におけるものだったのである。
杉原の職を賭した勇気ある行動によってリトアニアを出ることのできたユダヤ難民は、シベリアを渡り、ウラジオストク経由で敦賀港に上陸した。うち約千人はアメリカやパレスチナに向かった。杉原によって救われたユダヤ人は、6千人にのぼると推計されている。1985年(昭和60年)、杉原は、イスラエル政府から日本人で唯一、「諸国民の中の正義の人」としてヤド・バシェム賞を受賞し、顕彰碑が建てられた。
樋口季一郎陸軍少将もまた多数のユダヤ人を救出した。1938年(昭和13年)、約2万人のユダヤ人が、ソ満国境沿いのシベリア鉄道オトポール駅にいた。ナチスの迫害から逃れて亡命するためには、満州国を通過しなければならない。しかし、入国許可は出なかった。彼らの惨状を見た樋口は、部下の安江仙江大佐らとともに即日、ユダヤ人に食糧・衣類等を与え、医療を施し、出国、入植、上海租界への移動の斡旋を行った。
大戦末期、樋口はソ連軍千島侵攻部隊に打撃を与え、北海道占領を阻止した。スターリンはその樋口を戦犯に指名した。これに対し、世界ユダヤ協会は、各国のユダヤ人組織を通じて樋口の救援活動を展開し、欧米のユダヤ人資本家はロビー活動を行った。その結果、マッカーサーはソ連による樋口引き渡し要求を拒否し、身柄を保護した。樋口の名は、イスラエル建国功労者として、「黄金の碑」に「偉大なる人道主義者」として刻印され、その功績が顕彰されている。
ユダヤ人を迫害したナチス・ドイツと誤った提携をしたわが国ではあったが、こうした人道的な行為をして感謝されている日本人がいることは、わが国の誇りとすべきである。
次回に続く。
ナチスは、国家社会主義とユダヤ人を敵視する特異な排外的民族主義とが一体になった特異な運動を推進した。ここに、国家的なユダヤ人迫害という重大な人権問題が生じた。ユダヤ人への差別は、ナチスが初めて行ったものではない。第5章にユダヤ人の自由と権利の拡大について書いたように、その根は深い。また、ユダヤ人への迫害は、西欧だけでなされたことでもない。19世紀末ロマノフ朝圧制下のロシアで、ユダヤ人は「ポグロム」と呼ばれる虐待・虐殺を受けた。多数のユダヤ人が、国外に出国してアメリカ等に移民するか、国内に残って帝政打倒の政治運動に参加した。ボルシェヴィキの幹部には、ユダヤ人が多かった。トロツキーやジノヴィエフ等がそうである。スターリンは、彼らユダヤ人幹部を次々に粛清した。その後も、ソ連におけるユダヤ人差別は続いた。社会主義または共産主義は、人種問題・民族問題を解決するというのは、虚偽の宣伝である。
だが、ナチスによる迫害は、政府によって組織的・計画的に行われ、またその規模において、前例がない。迫害は第2次世界大戦前から行われていた。戦争による虐待・虐殺とは、別の人種差別によるものである。
ワイマール共和国時代のドイツは、それまでの歴史において、ユダヤ人が最も活躍した社会だった。物理学者アインシュタインをはじめとして、ノーベル賞受賞者が11人も続出した。“ワイマール憲法の父”プロイス、外務大臣ラーテナウ、法学者イェリネック、フランクフルト学派のホルクハイマー、アドルノなど、科学、政治、経済、文学、美術、報道等の多彩な分野で、ユダヤ人の才能は大きく開花し、驚異的な活動を行った。
ところが、それゆえにこそドイツ人のユダヤ人への反感が強まった。ドイツでも中世以来、ユダヤ人への差別・迫害が行われていた。ナチスは、そうした国民の伝統的な反ユダヤ感情を増幅させ、ユダヤ人に対する迫害を行った。多くの優秀なユダヤ人が国外に亡命した。
第2次世界大戦開始後、ナチスによる人種差別的な迫害はさらに激しくなった。通説によると、強制収容所への収容、強制労働、毒ガス等によって、600万人のユダヤ人が犠牲になったとされている。毒ガスの使用や犠牲者の数等、通説には多くの疑義が出されている。だが、いずれにしても大規模に国家的な迫害が行われたことは事実である。
第2次世界大戦後の人権問題への取り組みの重要な動機の一つが、ナチスによるユダヤ人への迫害だった。国際的なユダヤ人の生命と尊厳、自由と権利を守るにはどうすべきか。外国に亡命を希望する被迫害者、国籍を失った人間、彼らの権利とは何か、誰がどのように守るかという課題が生じた。この点は、後に改めて書く。
●杉原千畝と樋口季一郎
ここで強調しておきたいのは、戦前のわが国は、日独伊三国軍事同盟によってドイツと同盟を結び、国家の針路を大きく誤ったものの、ナチスによるユダヤ人迫害には加担していないことである。逆に迫害を受けたユダヤ人を支援した日本人がいた。特筆すべき事例として、杉原千畝と樋口季一郎がある。
1940年(昭和15年)夏、ドイツ占領下のポーランドから多数のユダヤ人がリトアニアに逃亡した。彼らは当地で各国の領事館・大使館からビザを取得しようとした。しかし、リトアニアはソ連に併合されており、ソ連政府は各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めた。そこでユダヤ難民は日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。この時、彼らのために、ビザを発給したのが、杉原千畝である。第2次世界大戦の開始時、ヒトラーとスターリンには密約があった。杉原の行動は、その密約の下にドイツとソ連がポーランドを分割し、ソ連がバルト三国を併合するという状況におけるものだったのである。
杉原の職を賭した勇気ある行動によってリトアニアを出ることのできたユダヤ難民は、シベリアを渡り、ウラジオストク経由で敦賀港に上陸した。うち約千人はアメリカやパレスチナに向かった。杉原によって救われたユダヤ人は、6千人にのぼると推計されている。1985年(昭和60年)、杉原は、イスラエル政府から日本人で唯一、「諸国民の中の正義の人」としてヤド・バシェム賞を受賞し、顕彰碑が建てられた。
樋口季一郎陸軍少将もまた多数のユダヤ人を救出した。1938年(昭和13年)、約2万人のユダヤ人が、ソ満国境沿いのシベリア鉄道オトポール駅にいた。ナチスの迫害から逃れて亡命するためには、満州国を通過しなければならない。しかし、入国許可は出なかった。彼らの惨状を見た樋口は、部下の安江仙江大佐らとともに即日、ユダヤ人に食糧・衣類等を与え、医療を施し、出国、入植、上海租界への移動の斡旋を行った。
大戦末期、樋口はソ連軍千島侵攻部隊に打撃を与え、北海道占領を阻止した。スターリンはその樋口を戦犯に指名した。これに対し、世界ユダヤ協会は、各国のユダヤ人組織を通じて樋口の救援活動を展開し、欧米のユダヤ人資本家はロビー活動を行った。その結果、マッカーサーはソ連による樋口引き渡し要求を拒否し、身柄を保護した。樋口の名は、イスラエル建国功労者として、「黄金の碑」に「偉大なる人道主義者」として刻印され、その功績が顕彰されている。
ユダヤ人を迫害したナチス・ドイツと誤った提携をしたわが国ではあったが、こうした人道的な行為をして感謝されている日本人がいることは、わが国の誇りとすべきである。
次回に続く。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます