日本主義という用語を使い出したのは、志賀重昂(しげたか)のようです。明治が生んだ世界的地理学者だった志賀は、三河国 (現・愛知県岡崎市) の武家に生まれ、札幌農学校を卒業しました。明治19年(1886)からダーウィンをまねて、船でオーストラリア、サモア、ハワイを歴訪し、帰国後その見聞記を書きました。その後も世界を旅行してほとんど全大陸を踏破し、当時の日本では比類のない大旅行家でした。
志賀は明治27年(1894)日清戦争勃発の年に『日本風景論』を刊行しました。この書は、日本の気候の特徴、生物、水蒸気の現象、各地の火山等を描き、登山の準備、装備などについても詳細に書いたものです。古典文学からの引用と地理学の術語を駆使し、日本の風土がいかに欧米に比べて優れているかを情熱的な文章で綴(つづ)っています。この本は日清戦争と三国干渉の時期という時勢にのってベストセラーとなりました。若者が競って読み、発売後わずか3週間で完売したといわれます。
志賀は当時、既に思想家としても著名でした。明治21年(1888)、志賀は三宅雪嶺・杉浦重剛・陸羯南らと政教社を結成し、雑誌『日本人』を創刊しました。そして、「国粋保存主義」の唱導者として知られていました。
「国粋」と聞くと、多くの人は右翼をイメージするでしょう。しかし、もともと「国粋」という言葉は 英語の nationality の訳語です。日本独自の風土や歴史や文化をとおして長年の間に形作られてきた国民性・民族性を意味します。志賀は、『日本人』第2号(1888)に次のように書きました。「国粋」とは「大和民族の間に千古万古より遺伝し来りし化醇し来り、終に当代に到るまで保存」されたものだ、と。そして、国粋保存主義とは、その「国粋」の「発育成長」を促し、大和民族を進化改良することを目的とする、と志賀は書いています。(『「日本人」が懐抱する処の旨義を告白す分』)
そして国粋保存主義とは、「国粋」こそ、今後、日本民族の進歩と改良とをめざすにあたって、もっとも考慮されるべき「標準」であり「基本」でなければならないとする主義である、と志賀は定義しています。
ただし、これは外国文化を排斥するような排外的で閉鎖的な思想ではありませんでした。志賀は「日本の宗教、徳教、美術、政治、生産の制度を選択せんにも、亦『国粋保存』の大義を以て之を演繹せんとするものなり。然れども予輩は徹頭徹尾日本固有の旧分子を保存し旧原素を維持せんと欲する者に非ず。只泰西の開化を輸入し来るも、日本国粋なる胃官を以て之を咀嚼し之を消化し、日本なる身体に同化せしめん」とも書いています。(上掲論文)
つまり、西洋の「開化」を採り入れても、それを日本的に「同化」することが大事だ、日本のめざすべきものは「西洋の開化」ではなく、あくまでも「日本の開化」でなければならないと、志賀は説いているのです。それゆえ、志賀の国粋保存主義とは、日本人としての主体的な姿勢を訴えるものだったわけです。
本来、国粋保存主義とは、各民族の「国粋」、つまり国民性・民族性の多様性を前提とするものでした。それは、各国民・各民族の個性を尊重する姿勢ともいえます。志賀は、次のように書いています。「人々個々の間に各自が最特の長処あるを以て、所謂分業なる者起るとなれば、邦国個々も亦長処を以て分業せざる可からざるや知るべし」と。これは、各国がそれぞれ長所を発揮して国際分業を行い、共存共栄することを説くものでしょう。国粋保存主義は、国際的な広がりをもった思想だったのです。
志賀は「日本の国粋を精神となしこれを骨髄となし、而して後能く機に臨みて進退去就する」ところの「国粋保存旨義」とも書いています。日本の国粋を「精神」「骨髄」とする主義であれば、これを日本主義ということもできます。またこの「精神」を日本精神と呼ぶこともできます。
実際、志賀は国粋保存主義を一歩進めて、『日本人』第6号(明治21年)では、「日本旨義」すなわち日本主義という用語を使用します。それは、「欧化旨義」つまり欧化主義と対比して打ち出したものでした。そして、志賀が提唱した日本主義は、その後、大きな発展を見せることになります。
明治に出現した日本主義は、もともと排外的・偏狭的ではなく、主体的であるとともに国際性をもったものだったのです。
参考資料
・志賀重昂著『日本風景論』(岩波文庫)
次回に続く。
************* 著書のご案内 ****************
『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
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志賀は明治27年(1894)日清戦争勃発の年に『日本風景論』を刊行しました。この書は、日本の気候の特徴、生物、水蒸気の現象、各地の火山等を描き、登山の準備、装備などについても詳細に書いたものです。古典文学からの引用と地理学の術語を駆使し、日本の風土がいかに欧米に比べて優れているかを情熱的な文章で綴(つづ)っています。この本は日清戦争と三国干渉の時期という時勢にのってベストセラーとなりました。若者が競って読み、発売後わずか3週間で完売したといわれます。
志賀は当時、既に思想家としても著名でした。明治21年(1888)、志賀は三宅雪嶺・杉浦重剛・陸羯南らと政教社を結成し、雑誌『日本人』を創刊しました。そして、「国粋保存主義」の唱導者として知られていました。
「国粋」と聞くと、多くの人は右翼をイメージするでしょう。しかし、もともと「国粋」という言葉は 英語の nationality の訳語です。日本独自の風土や歴史や文化をとおして長年の間に形作られてきた国民性・民族性を意味します。志賀は、『日本人』第2号(1888)に次のように書きました。「国粋」とは「大和民族の間に千古万古より遺伝し来りし化醇し来り、終に当代に到るまで保存」されたものだ、と。そして、国粋保存主義とは、その「国粋」の「発育成長」を促し、大和民族を進化改良することを目的とする、と志賀は書いています。(『「日本人」が懐抱する処の旨義を告白す分』)
そして国粋保存主義とは、「国粋」こそ、今後、日本民族の進歩と改良とをめざすにあたって、もっとも考慮されるべき「標準」であり「基本」でなければならないとする主義である、と志賀は定義しています。
ただし、これは外国文化を排斥するような排外的で閉鎖的な思想ではありませんでした。志賀は「日本の宗教、徳教、美術、政治、生産の制度を選択せんにも、亦『国粋保存』の大義を以て之を演繹せんとするものなり。然れども予輩は徹頭徹尾日本固有の旧分子を保存し旧原素を維持せんと欲する者に非ず。只泰西の開化を輸入し来るも、日本国粋なる胃官を以て之を咀嚼し之を消化し、日本なる身体に同化せしめん」とも書いています。(上掲論文)
つまり、西洋の「開化」を採り入れても、それを日本的に「同化」することが大事だ、日本のめざすべきものは「西洋の開化」ではなく、あくまでも「日本の開化」でなければならないと、志賀は説いているのです。それゆえ、志賀の国粋保存主義とは、日本人としての主体的な姿勢を訴えるものだったわけです。
本来、国粋保存主義とは、各民族の「国粋」、つまり国民性・民族性の多様性を前提とするものでした。それは、各国民・各民族の個性を尊重する姿勢ともいえます。志賀は、次のように書いています。「人々個々の間に各自が最特の長処あるを以て、所謂分業なる者起るとなれば、邦国個々も亦長処を以て分業せざる可からざるや知るべし」と。これは、各国がそれぞれ長所を発揮して国際分業を行い、共存共栄することを説くものでしょう。国粋保存主義は、国際的な広がりをもった思想だったのです。
志賀は「日本の国粋を精神となしこれを骨髄となし、而して後能く機に臨みて進退去就する」ところの「国粋保存旨義」とも書いています。日本の国粋を「精神」「骨髄」とする主義であれば、これを日本主義ということもできます。またこの「精神」を日本精神と呼ぶこともできます。
実際、志賀は国粋保存主義を一歩進めて、『日本人』第6号(明治21年)では、「日本旨義」すなわち日本主義という用語を使用します。それは、「欧化旨義」つまり欧化主義と対比して打ち出したものでした。そして、志賀が提唱した日本主義は、その後、大きな発展を見せることになります。
明治に出現した日本主義は、もともと排外的・偏狭的ではなく、主体的であるとともに国際性をもったものだったのです。
参考資料
・志賀重昂著『日本風景論』(岩波文庫)
次回に続く。
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『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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