●フリードマンの後、新古典派の中心はルーカスに
丹羽氏は平成22年(2010)6月号の月刊誌『正論』に書いた「ケインズ主義の復活なくして日本の復活なし-いまこそ新古典派経済学のニヒリズムを打ち砕け-」で、次のように言う。
「過去20年あまり、全世界の主要国の経済政策を導いてきたのは、米国の思想界から発信されて今や強固・激烈な戦闘的イデオロギーと化している新古典派経済学流の反ケインズ主義政策論であった。そして、とくに、ケインズ的有効需要拡大政策を無効であると理論的に決めつけたルーカス教授の教説の影響は衝撃的かつ甚大であった。現在では、この新古典派経済学流の反ケインズ主義、なかでもこのルーカス理論が、新自由主義の諸流派を支配し動かしている基本的情念となっているわけである」と。
フリードマンのマネタリズムの失敗が明らかになった後、新古典派による反ケインズ主義の思想攻勢は、マネタリズムを捨て、ロバート・ルーカスの理論による有効需要政策無効論に、主として依拠して行なわれるようになった。ルーカスはミクロの経済主体の最適化行動によってマクロ経済学を基礎づける方法論を示した。この方法論は大きな影響力を振るい、ケインズ主義者に対しても影響を与えた。丹羽氏は、ルーカスの理論のうち、主に合理的期待形成仮説と総供給方程式を批判する。
●合理的期待形成仮設への批判
丹羽氏のルーカス批判の第一は、合理的期待形成説に対してである。「合理的期待」は、rational expectationsの訳語であり、expectationsは予想と訳したほうがよいのだが、通例に従って期待と訳す。合理的期待形成説とは、経済主体が政府の政策を合理的に予測してしまえば、その政策は無効になるという理論である。それによって、政府による有効需要政策の効果を否定する。合理的期待形成説で想定されている経済主体は、完全な情報を持ち、合理的に将来を予測する個人である。これは、新古典派経済学が想定してきた個人と同じである。それゆえ、合理的期待という概念は、一般均衡理論の復活以外の何ものでもない。
ルーカスは、ケインズ経済学においては、期待の果たす役割が無視されていることを主張する。この主張は全く根拠がない。『一般理論』で、ケインズは随所で期待の果たす役割に触れ、雇用量や国民所得の水準が人々の期待によって左右されることを繰り返し述べている。
丹羽氏も、次のように言う。「経済学では、アダム・スミスの昔から、常に、社会の人々が合理的な予測・期待に基づいて行動するということを、基本的な大前提として、諸種の分析を行ない、理論を構築してきたからである。もちろん、ケインズ理論も、その例外ではなかった。要するに、『合理的期待(予測)形成仮説』なるものは、断じて、ルーカスたち新古典派の専売特許などではないのである」と。
ケインズの理論における期待は、完全な情報を持って合理的に将来を予測するというルーカス的な意味での期待ではない。ケインズの期待は、主にその社会における慣習に基くものである。一つの社会で歴史的に形成されてきた社会的経験知をもって、人々は将来を予測する。それは合理的な思考であるばかりでなく、不安や希望等の感情や直感によって揺れ動く。全員が同じ答えを出すのではない。楽観的予測も悲観的予測もある。実際の経済、特に金融市場を動かしているのは、そうした人々の集団心理である。それゆえ、こうした集団心理を無視したルーカスのケインズ批判は的外れである。
次回に続く。
丹羽氏は平成22年(2010)6月号の月刊誌『正論』に書いた「ケインズ主義の復活なくして日本の復活なし-いまこそ新古典派経済学のニヒリズムを打ち砕け-」で、次のように言う。
「過去20年あまり、全世界の主要国の経済政策を導いてきたのは、米国の思想界から発信されて今や強固・激烈な戦闘的イデオロギーと化している新古典派経済学流の反ケインズ主義政策論であった。そして、とくに、ケインズ的有効需要拡大政策を無効であると理論的に決めつけたルーカス教授の教説の影響は衝撃的かつ甚大であった。現在では、この新古典派経済学流の反ケインズ主義、なかでもこのルーカス理論が、新自由主義の諸流派を支配し動かしている基本的情念となっているわけである」と。
フリードマンのマネタリズムの失敗が明らかになった後、新古典派による反ケインズ主義の思想攻勢は、マネタリズムを捨て、ロバート・ルーカスの理論による有効需要政策無効論に、主として依拠して行なわれるようになった。ルーカスはミクロの経済主体の最適化行動によってマクロ経済学を基礎づける方法論を示した。この方法論は大きな影響力を振るい、ケインズ主義者に対しても影響を与えた。丹羽氏は、ルーカスの理論のうち、主に合理的期待形成仮説と総供給方程式を批判する。
●合理的期待形成仮設への批判
丹羽氏のルーカス批判の第一は、合理的期待形成説に対してである。「合理的期待」は、rational expectationsの訳語であり、expectationsは予想と訳したほうがよいのだが、通例に従って期待と訳す。合理的期待形成説とは、経済主体が政府の政策を合理的に予測してしまえば、その政策は無効になるという理論である。それによって、政府による有効需要政策の効果を否定する。合理的期待形成説で想定されている経済主体は、完全な情報を持ち、合理的に将来を予測する個人である。これは、新古典派経済学が想定してきた個人と同じである。それゆえ、合理的期待という概念は、一般均衡理論の復活以外の何ものでもない。
ルーカスは、ケインズ経済学においては、期待の果たす役割が無視されていることを主張する。この主張は全く根拠がない。『一般理論』で、ケインズは随所で期待の果たす役割に触れ、雇用量や国民所得の水準が人々の期待によって左右されることを繰り返し述べている。
丹羽氏も、次のように言う。「経済学では、アダム・スミスの昔から、常に、社会の人々が合理的な予測・期待に基づいて行動するということを、基本的な大前提として、諸種の分析を行ない、理論を構築してきたからである。もちろん、ケインズ理論も、その例外ではなかった。要するに、『合理的期待(予測)形成仮説』なるものは、断じて、ルーカスたち新古典派の専売特許などではないのである」と。
ケインズの理論における期待は、完全な情報を持って合理的に将来を予測するというルーカス的な意味での期待ではない。ケインズの期待は、主にその社会における慣習に基くものである。一つの社会で歴史的に形成されてきた社会的経験知をもって、人々は将来を予測する。それは合理的な思考であるばかりでなく、不安や希望等の感情や直感によって揺れ動く。全員が同じ答えを出すのではない。楽観的予測も悲観的予測もある。実際の経済、特に金融市場を動かしているのは、そうした人々の集団心理である。それゆえ、こうした集団心理を無視したルーカスのケインズ批判は的外れである。
次回に続く。
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