●シナとキリスト教
東アジアに位置するシナ文明は、古代の長江文明、黄河文明の時代から続く一個の文明である。儒教、道教を生み出し、インド伝来の仏教を独自に発達させ、これらの宗教を東南アジアや東アジアに伝えた。
キリスト教のシナへの伝播は、7世紀の唐の太宗の時代にネストリウス派が到達したのが最初とされる。同派はシナでは、景教と呼ばれた。大秦景教流行中国碑が残り、長安などに景教寺院があったことが文献に記されているが、その後、衰退・消滅した。
次に伝播があったのは13世紀で、ローマ教皇ニコラウス4世に派遣されたフランシスコ会のジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノが、元の大都で宣教活動を行った。多くの信徒を獲得したが、同会の宣教師の到来が途絶えると、14世紀中に消滅した。
その後、16世紀に、大航海時代に入ったヨーロッパから宣教師たちが、東アジアへ到来した。フランシスコ・ザビエルは、日本に約2年3か月滞在し、日本文化にシナが大きな影響を与えていると見抜き、日本人をキリスト教徒にするにはシナ人をキリスト教徒にするほかないと考えた。自らシナ宣教を志して、広東の上川島に上陸したが、シナ本土を目前にして病没した。
イエズス会本部からの巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、ザビエルの遺志を継いでシナ宣教を企図し、シナ語とシナ文化を習得した者を派遣するという方針を立てた。その方針のもと、1582年にイタリア出身のイエズス会士マテオ・リッチがシナに到来した。彼は、自らシナ名(利瑪竇)を名乗り、儒者の服装をして、シナ文化を受け入れつつ、現地に適応する布教に努めた。リッチはマカオを経て1601年に北京に入った。明の万暦帝に拝謁し、居住を許された。シナの知識人たちと交わり、世界地図や天文学、幾何学等の西洋の科学知識を伝えた。また多くの教義書、科学書を漢訳した。
19世紀前半、わが国の平田篤胤は、古学神道とキリスト教を習合した平田神道を創始し、主宰神の観念と来世の思想を強調した。彼の著書『本教外篇』の一部は、リッチ等の漢訳キリスト教文献を翻案したものである。
リッチは1610年にシナで没し、万暦帝から墓所を与えられた。リッチの死後、イエズス会の宣教師たちは、リッチの現地適応主義を踏襲し、シナの習慣と文化を尊重し、キリスト教に取り込むことで、信徒数を拡大した。彼らは西洋の最先端の科学知識を教えることによって、シナの王朝の指導層の支持を得た。代表的な宣教師として、明末・清初の改暦事業に参加したアダム・シャール(湯若望)、清朝の宮廷画家として三代の皇帝に仕えたジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)などがいる。
しかし、フランシスコ会やドミニコ会などがイエズス会の適応主義政策を批判したことにより、典礼問題が起こった。この問題は、シナ人信徒が孔子崇拝や祖先崇拝の儀礼に参加することの可否を巡る論争である。教皇クレメンス11世はイエズス会を断罪したため、康熙帝はイエズス会士以外の入国を拒否した。それが高じて教皇と清朝皇帝の対立に発展し、雍正帝はキリスト教を禁教した。1773年にシナのイエズス会は解散に追い込まれ、宣教活動も終息した。先にラテン・アメリカの例を書いたが、カトリックはシナでは異なる態度を取った。
その後、清朝の変化を見て、プロテスタントが進出した。1807年に、イギリス東インド会社の後ろ盾をうけた長老派の宣教師ロバート・モリソンがシナでの伝道を開始した。聖書をシナ語に翻訳し、最初のシナ語・英語辞典を出版した。清朝末期に太平天国の乱を起こした洪秀全は、モリソンの漢訳聖書の影響を受けたといわれている。
イギリスは、自国の工業製品をインドへ、インドのアヘンをシナへ、シナの茶をイギリスへという三角貿易を行った。シナではアヘンを売って銀を得て、その銀で茶を購入した。キリスト教徒が異教徒にアヘンを売って巨富を得たのである。1840年清国がアヘン輸入禁止令を出したのがきっかけで、アヘン戦争が起った。イギリスは圧倒的な軍事力で清を屈服させ、南京条約を結んで、清の貿易制限を撤廃させた。イギリスはさらにフランスと組んで、アロー戦争を起こした。その事後処理のため、1858年に天津条約、60年に北京条約を結び、清国に開港場の追加やキリスト教布教の自由を認めさせた。この結果、列強による清の半植民地化が決定的なものとなった。また、各国のプロテスタント宣教師によるシナ布教が本格化した。
シナには地続きであるロシアから、正教も入った。18世紀初め、ロシア正教会の宣教師が北京に到着した。ロシアからシナへの移住者が増えるに従い、正教徒の人口が増加し、シナ人の入信者も現れた。また、ロシア革命が起こると、共産政権から逃れた正教徒がシナで教会を建設した。
しかし、20世紀初めまで、シナでは、伝統的な儒教・道教・仏教の信者が多く、キリスト教の信者はごく少数で、社会的影響力も小さかった。そうした中で重要なのは、政治・経済等で活躍するシナ人のキリスト教徒が現れたことである。とりわけ宋曜如とその一族、及び孫文の活躍が特筆される。
次回に続く。
東アジアに位置するシナ文明は、古代の長江文明、黄河文明の時代から続く一個の文明である。儒教、道教を生み出し、インド伝来の仏教を独自に発達させ、これらの宗教を東南アジアや東アジアに伝えた。
キリスト教のシナへの伝播は、7世紀の唐の太宗の時代にネストリウス派が到達したのが最初とされる。同派はシナでは、景教と呼ばれた。大秦景教流行中国碑が残り、長安などに景教寺院があったことが文献に記されているが、その後、衰退・消滅した。
次に伝播があったのは13世紀で、ローマ教皇ニコラウス4世に派遣されたフランシスコ会のジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノが、元の大都で宣教活動を行った。多くの信徒を獲得したが、同会の宣教師の到来が途絶えると、14世紀中に消滅した。
その後、16世紀に、大航海時代に入ったヨーロッパから宣教師たちが、東アジアへ到来した。フランシスコ・ザビエルは、日本に約2年3か月滞在し、日本文化にシナが大きな影響を与えていると見抜き、日本人をキリスト教徒にするにはシナ人をキリスト教徒にするほかないと考えた。自らシナ宣教を志して、広東の上川島に上陸したが、シナ本土を目前にして病没した。
イエズス会本部からの巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、ザビエルの遺志を継いでシナ宣教を企図し、シナ語とシナ文化を習得した者を派遣するという方針を立てた。その方針のもと、1582年にイタリア出身のイエズス会士マテオ・リッチがシナに到来した。彼は、自らシナ名(利瑪竇)を名乗り、儒者の服装をして、シナ文化を受け入れつつ、現地に適応する布教に努めた。リッチはマカオを経て1601年に北京に入った。明の万暦帝に拝謁し、居住を許された。シナの知識人たちと交わり、世界地図や天文学、幾何学等の西洋の科学知識を伝えた。また多くの教義書、科学書を漢訳した。
19世紀前半、わが国の平田篤胤は、古学神道とキリスト教を習合した平田神道を創始し、主宰神の観念と来世の思想を強調した。彼の著書『本教外篇』の一部は、リッチ等の漢訳キリスト教文献を翻案したものである。
リッチは1610年にシナで没し、万暦帝から墓所を与えられた。リッチの死後、イエズス会の宣教師たちは、リッチの現地適応主義を踏襲し、シナの習慣と文化を尊重し、キリスト教に取り込むことで、信徒数を拡大した。彼らは西洋の最先端の科学知識を教えることによって、シナの王朝の指導層の支持を得た。代表的な宣教師として、明末・清初の改暦事業に参加したアダム・シャール(湯若望)、清朝の宮廷画家として三代の皇帝に仕えたジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)などがいる。
しかし、フランシスコ会やドミニコ会などがイエズス会の適応主義政策を批判したことにより、典礼問題が起こった。この問題は、シナ人信徒が孔子崇拝や祖先崇拝の儀礼に参加することの可否を巡る論争である。教皇クレメンス11世はイエズス会を断罪したため、康熙帝はイエズス会士以外の入国を拒否した。それが高じて教皇と清朝皇帝の対立に発展し、雍正帝はキリスト教を禁教した。1773年にシナのイエズス会は解散に追い込まれ、宣教活動も終息した。先にラテン・アメリカの例を書いたが、カトリックはシナでは異なる態度を取った。
その後、清朝の変化を見て、プロテスタントが進出した。1807年に、イギリス東インド会社の後ろ盾をうけた長老派の宣教師ロバート・モリソンがシナでの伝道を開始した。聖書をシナ語に翻訳し、最初のシナ語・英語辞典を出版した。清朝末期に太平天国の乱を起こした洪秀全は、モリソンの漢訳聖書の影響を受けたといわれている。
イギリスは、自国の工業製品をインドへ、インドのアヘンをシナへ、シナの茶をイギリスへという三角貿易を行った。シナではアヘンを売って銀を得て、その銀で茶を購入した。キリスト教徒が異教徒にアヘンを売って巨富を得たのである。1840年清国がアヘン輸入禁止令を出したのがきっかけで、アヘン戦争が起った。イギリスは圧倒的な軍事力で清を屈服させ、南京条約を結んで、清の貿易制限を撤廃させた。イギリスはさらにフランスと組んで、アロー戦争を起こした。その事後処理のため、1858年に天津条約、60年に北京条約を結び、清国に開港場の追加やキリスト教布教の自由を認めさせた。この結果、列強による清の半植民地化が決定的なものとなった。また、各国のプロテスタント宣教師によるシナ布教が本格化した。
シナには地続きであるロシアから、正教も入った。18世紀初め、ロシア正教会の宣教師が北京に到着した。ロシアからシナへの移住者が増えるに従い、正教徒の人口が増加し、シナ人の入信者も現れた。また、ロシア革命が起こると、共産政権から逃れた正教徒がシナで教会を建設した。
しかし、20世紀初めまで、シナでは、伝統的な儒教・道教・仏教の信者が多く、キリスト教の信者はごく少数で、社会的影響力も小さかった。そうした中で重要なのは、政治・経済等で活躍するシナ人のキリスト教徒が現れたことである。とりわけ宋曜如とその一族、及び孫文の活躍が特筆される。
次回に続く。
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