ほそかわ・かずひこの BLOG

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日本の心133~合理的判断で非戦を貫く:井上成美

2022-06-26 07:55:48 | 日本精神
 “最後の海軍大将”となった井上成美(しげよし)は、非戦派として有名です。井上は、昭和10年代、米内光政、山本五十六とともに「海軍の三羽烏」と呼ばれ、陸軍のもくろむ日独伊三国同盟に頑強に抵抗しました。井上は三人の中で最も強硬で、その後も対米開戦に突き進む動きを阻止しようとし、また開戦後は早期終結のために尽力しました。“非戦派”といわれるゆえんです。
 もちろん軍人である以上、ただの平和主義者ではありません。非凡な軍人だったがゆえに、“非戦派”だったのです。井上は早くから情報の重要性を理解し、作戦計画は正確な情報に裏づけられていなければならないと考えていました。昭和7年(1932)、当時海軍大学校の教官だった井上は、戦略講義の教材用に、「合理的敵情判断ノ方法」「敵情補充ノ原則」を執筆して、学生に配布しました。そこには、あらゆる予断と希望的観測を排して数理と情報を大切にせよ、旧套墨守はやめて新時代に即した独創をはかれ、ということが、図式入りの明快詳細な論法で説いてありました。この日本人には珍しい、抜群の情報分析力と戦略的思考力に基づいた合理的な判断が、井上の信念を不動のものにしていたのです。
 昭和14年1月、平沼騏一郎内閣に対し、ドイツは日独伊三国軍事同盟案を送付してきました。これはそれまでの防共協定がソ連一国を対象としていたのに対し、対象国をソ連以外に広げ、しかも同盟国の戦争に武力援助・参戦を義務付けるものでした。
 当時わが国では、ヒトラーの『わが闘争』が翻訳で読まれていました。語学力に優れた井上はこれを原著で読み、和訳されていない部分に、重大な問題があることを発見しました。井上は軍務局長名で海軍省内に注意を促しました。「ヒトラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら、小器用で小利口で役に立つ民族と見ている。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチスの日本接近の真の理由も其処にあるのだから、ドイツを頼むに足る対等の友邦と信じている向きは、三思三省の要あり、自戒を望む」と。実際、ヒトラーは、米国が英国を援助するために参戦することを恐れており、米国を牽制するために、日本の海軍力を利用しようと企んでいたのです。
 昭和14年9月、ドイツが電撃的にポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まりました。当初、ドイツは破竹の勢いで、向かうところ敵無しに見えました。それを見て、わが国には、ドイツが直に英国を破りヨーロッパを席巻する、独伊と同盟を結べば我が国はアジアを掌中に出来ると見て、その尻馬に乗ろうとする動きが、陸軍を中心に起こりました。しかし、米内海相・山本次官・井上軍務局長の海軍トリオは、「ドイツは必ず負ける」と見ていました。「イギリス海軍が壊滅したわけでもなく、また、今後もドイツ海軍がイギリス海軍を凌駕するわけもなく、劣悪なイタリア海軍では話にならない」。そして何より「ドイツと同盟を結べば、対米戦争は避けられなくなる」――それこそ彼らが三国同盟に反対する理由でした。中でも最も頑強に反対したのが、井上でした。
 終戦後、井上は三国同盟について、次のように語っています。
 「同盟反対の理由としては、独に対する国力判断なり。独は世界の強国にあらず。伊は三等国なり。しかも独・伊は、従来幾度か外交上不信行為を反復し来たれり」
 「米国人の一番嫌っている国民、しかも1年前以来非道の侵略戦遂行中で、米と関係緊密な英国と交戦中の独と、軍事同盟を結ぶ事は、対米戦に一歩を進める事になることに思い至らないとは、誠に不思議と申すの外なく、正常な理性の持ち主とは考えられない」と。
 当時の我が国には「正常な理性」を失って、ヒトラーの術中にはまり、熱病につかれたように戦争の道に突き進もうとする者が、指導層に多くいたのです。井上は、大勢に流されることなく、彼らに対抗しました。それはいつテロを受けるかわからない危険を伴っていました。しかし、井上は、一切臆することなく、身を張って三国同盟に反対し、無謀な戦争を阻止しようと懸命の努力を続けたのです。
 井上は、日本には希な戦略的思考をもつ軍人でした。彼の対米戦争の予測は、一切の希望的観測を排した、冷徹な研究・分析に基づくものでした。昭和16年(1941)1月、井上は『新軍備計画論』という計画書を出しました。その骨子は、将来の戦争では、航空機・潜水艦の発達により、主力艦隊同士の決戦は絶対生起しない。日米戦争の場合、太平洋上の島々の航空基地争奪が必ず主作戦となる。ゆえに、巨額の金を食う戦艦の建造など中止し、従来の大艦巨砲思想を捨て、新形態の軍備に邁進する必要がある。米国と量的に競争する愚を犯してはならない、というものでした。
 この計画書で井上が一番言いたかったことは、総論の第二項「日米戦争ノ形態」に書かれています。この項目において、井上はわが国が対米戦争に突入した場合の見通しを書いています。
 「日本ガ米国ヲ破リ、彼ヲ屈服スルコトハ不可能ナリ」。アメリカの国土の広さを考えれば、米全土の攻略は到底できない。米海軍を殲滅(せんめつ)することもまず困難である。それに反し、アメリカは「(一)日本国全土ノ占領モ可能、(二)首都ノ占領モ可能、(三)作戦軍ノ殲滅モ可能ナリ」。アメリカは海上交通路の破壊を狙い、物資封鎖の挙に出るだろう。「帝国ノ最弱点ヲ突カレテ屈スルコトトナル」危険性が強い。
 「米国ニ対シ、有ラユル弱点ヲ有スル」日本は「此ノ弱点ヲ守ルノ方策」を十二分に講じない限り、一時西太平洋上に王者の地位を保持し得たとしても、不本意の持久戦に持ち込まれる。やがて陸海両作戦軍全滅、米軍の東京占領、日本全土占領のかたちで戦いを終わる可能性が強い。これが、井上の基本的な主張でした。
 井上は職を賭し、生命の危険を承知の上で、この計画書を書きました。そして、時の海軍大臣及川古志郎に手渡しました。しかし、極秘扱いとされて実施に移されませんでした。
 計画書が書かれた10ヶ月後、日本は真珠湾攻撃で対米戦争に突入。わが国は一時優勢に戦いを進めたものの、物量に勝る米国の巻き返しに遭(あ)いました。井上の予測したとおりです。米国による物資封鎖、わが国の連合艦隊の全滅、陸海軍の無条件降伏、そして「日本国全土ノ占領」等が現実となってしまいました。
 終戦後、井上の計画書は米国海軍の手に渡りました。そして「もし日本がこの計画を基礎に動いていたら日米戦は起こらなかっただろう」と言わしめました。
 井上の良き理解者だった山本五十六は、連合艦隊司令長官となり、昭和15年9月、近衛文麿首相から日米戦争の見通しについて聞かれました。山本は「是非やれと言われれば、初めの半年や1年は暴れて御覧に入れます。しかし、2年3年となっては、全く確信がもてません」と答えました。
 井上はこのとき山本は次のように言うべきだったと言います。「総理、あなたは三国同盟なんか結んでどうする気か、あなたが心配している通りアメリカと戦争になりますよ、なれば負けですよ、やってくれと頼まれても、自分には戦う自信がありません。対米戦の戦えない者に連合艦隊司令長官の資格なしと言われるなら、自分は辞任するから、後任に誰か、自信のある長官をさがしてもらいたいと、強くそう言うべきでした」と。
 「かねがね私は、山本さんに全幅の信頼を寄せていたんだが、あの一点は黒星です。山本さんのために惜しみます」と井上は述べています。 
 昭和17年11月、井上は、海軍兵学校の校長となりました。井上の目にはわが国の敗戦は不可避でした。彼は、戦後日本の復興の土台となれる人材を育てようと考えました。そして、その時役立つように、軍事関係の授業時間を減らし、一般的な課目に力点を置きました。また、当時は敵国語として各方面で英語の使用が禁止されましたが、井上は兵学校の受験科目と授業から英語を廃止することに、断固反対しました。「自分の国の言葉しか話せない海軍士官が、世界中どこにあるか!」と、英語教育を続けました。
 戦争末期の昭和19年8月、海相米内光政は、井上を海軍次官に呼び寄せました。井上は戦況をつかむや、極秘裏に高木惣吉少将に終戦工作を命じ、終戦への努力を続けました。米内は自分が倒れた場合、海軍大臣となって終戦に導けるのは井上のみと信じ、井上を温存するため、井上を海軍大将に推しました。井上は大いに不満でしたが、従わざるをえませんでした。こうして“最後の海軍大将”となった井上は、20年5月、次官の職を去り、軍事参事官として終戦を迎えました。
 戦後、井上は三浦半島の長井に隠棲しました。一度も世に出ることなく、ひっそりと晩年を送りました。近くの子供たちに英語を教えて、わずかな収入を得るのみ。その生活は困窮を極めました。しかし、井上は、最後まで清廉潔癖の姿勢を崩しませんでした。合理的判断で非戦を貫いた井上は、自分の良心に照らして、生涯自ら信ずるところを貫いたのです。

参考資料
・阿川弘之著『井上成美』(新潮文庫)
・宮野澄著『最後の海軍大将・井上成美』(文春文庫)
・高木惣吉著『自伝的日本海軍始末記』(光人社NF文庫)

■追記
 昭和戦前史について、20年ほど前に書いた宇垣一成、吉田茂、中野正剛、岡田啓介、迫水久常、米内光政、井上成美らに関する拙稿をここ数回ネット上に再掲しました。この20年ほどの間、彼らの動きに焦点を合わせて昭和史を書いたものに出会うことがありませんでした。
 日独伊三国同盟の締結、米英との開戦に反対し、厳正中立・不戦必勝の大策を時の指導層に建言した大塚寛一先生の建白書の歴史的な意義を正しく評価するには、宇垣、岡田、迫水、米内らの動きをしっかりとらえる必要があります。だが、そのことに気づいて本格的に研究している歴史家、昭和史研究者は、まだいないようです。

 次回に続く。

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