ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

「三種の神器」と知仁勇

2019-05-02 08:17:57 | 日本精神
 新帝陛下が即位されるにあたり、剣璽等承継の儀が行われ、先帝陛下から「三種の神器」の承継がされました。
 「三種の神器」とは、古代から天皇の位を象徴するものとして、歴代天皇に継承されてきたものです。

●「三種の神器」の由来

 記紀によると、皇室の祖先神とされる天照大神は、天孫ニニギノミコトを、葦原中国(あしはらのなかつくに)すなわちこの日本国に遣わす際、「三種の神器」を授けたとされます。つまり八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)の三種です。
 天照大神は、天孫降臨に当たってニニギノミコトに対し、八咫鏡について神勅を下されました。『古事記』には「此れの鏡はもはら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くがごとく、斎(いつ)き奉れ」とまた『日本書紀』には「吾が児(みこ)、此の宝鏡を視(み)まさむこと、まさに吾を視るがごとくすべし」と記されています。
 三種の神器のうち、鏡は伊勢神宮に、剣は熱田神宮に、それぞれ祀られています。八坂瓊曲玉だけは神璽(しんじ)として宮中に安置されてきました。
 また、分霊された鏡が宮中の天照大神を祀る賢所(かしこどころ)に奉安されています。剣の分身と曲玉は、天皇のお側近くに常に安置されていると伝えられます。
 これら三種の神器は、代々の天皇により皇位の証として継承されます。その際は、剣璽等承継の儀が行われ、剣と璽(曲玉)とともに国璽(国家の表象としてして用いる印章)・御璽(天皇の印章)が先帝陛下から新帝陛下に受け渡されます。天皇が一日以上の行事に出かけられる時は、剣璽御動座(けんじごどうざ)といって剣と曲玉が陛下と共に渡御(とぎょ)されます。お付きの者が剣と曲玉をそれぞれ奉持します。

●「知仁勇」の象徴

 我が国は、シナの孔子・孟子らの思想を消化吸収し、発展深化させてきました。その過程で「三種の神器」を「知仁勇」の象徴と解釈する試みが現れました。これを天皇の帝王学に生かしたのが、杉浦重剛(しげたけ)でした。
 杉浦は、「真の人格者」と尊敬された偉大な教育者でした。杉浦は、昭和天皇が皇太子の時代、数え16歳から21歳まで、天皇の倫理を説く重任にあたりました。その際、ご講義のために書いたのが、『倫理御進講草案』(三樹書房)です。(大正3年、1914)
 杉浦は『草案』の序文において、御進講の基本方針を掲げます。
 「今進講に就きて大体の方針を定め、左にこれを陳述せんとす。

 一、三種の神器に則り皇道を体し給ふべきこと。
 一、五條の御誓文を以て将来の標準と為し給ふべきこと。
 一、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給ふべきこと」
 杉浦は、この方針の第一について、次のように述べます。
 「三種の神器及び之と共に賜はりたる天壌無窮の神勅は我国家成立の根底にして国体の淵源また実に此に存す。是れ最も先づ覚知せられざるべからざる所なり。
 殊に神器に託して与えられたる知仁勇の教訓は、国を統べ民を治むるに一日も忘るべからざる所にして、真に万世不易の大道たり。故に我国歴代の天皇は、皆此の御遺訓を体して能く其の本に報い、始に反り、常に皇祖の威徳を顕彰せんことを勉めさせ給へり。是れ我が皇室の連綿として無窮に栄え給ふ所以、また皇恩の四海に洽(あま)ねき所以なり。左れば将来我国を統御し給ふべき皇儲殿下は先づ能く皇祖の御遺訓に従ひ皇道を体し給ふべきものと信ず」
 ここには「神器」を「知仁勇」の三徳をもって解釈する通説が述べられています。

●将来の天皇へのご講義

 昭和天皇が受けた最初の講義は、「三種の神器」についてでした。
 御進講の最初の項目、「三種の神器」は、次のように始まります。
 「…三種の神器即ち鏡、玉、剣は唯皇位の御証(みしるし)として授け給いたるのみにあらず、此を以て至大の聖訓を垂れ給ひたることは、遠くは北畠親房、やや降りては中江藤樹、山鹿素行、頼山陽などの皆一様に説きたる所にして、要するに知仁勇の三徳を示されたるものなり。
 例へば鏡は明らかにして曇り無く、万物を照して其の正邪曲直を分ち、之を人心に比すれば則ち知なり。知は鏡の物を照すが如く、善悪黒白を判断するものなり。玉は円満にして温潤、恰も慈悲深き温乎たる人物に比すべし。是れ仁の体にして、仁とは博愛の謂なり。又剣は勇気決断を示すものなることは殆ど説明するまでも無く、若し之を文武の道に比すれば、鏡は文、剣は武なり。
 詮じ来れば三種の神器は知仁勇の三徳を宝物に託して垂示せられたるものなること益々明瞭なりとすべし」と。
 「鏡・玉・剣」はそれぞれ、「知・仁・勇」の徳を示すという儒教的な解釈が述べられています。もっともただ「知仁勇」を説くのであれば、シナ思想の崇拝・模倣にとどまります。私は、「三種の神器」に込められた神意を体現するための道具として、儒教の概念が借用されたに過ぎないと考えます。

●東西に共通する根本道徳

 話を戻すと、続いて杉浦は、「知仁勇」の来歴をシナにさかのぼります。
 「之を支那に見るに、知仁勇三つの者は天下の達徳なりと、『中庸』に記されたるあり。世に人倫五常の道ありとも、三徳なくんば、之を完全に実行すること能はず。言を換ふれば君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の道も、知仁勇の徳によりて、始めて実行せらるべきものなりとす。支那の学者既にこれを解して、知は其の道を知り、仁は其の道を体し、勇は其の道を行ふものなりと云へり」
 杉浦は、「知仁勇」は四書の一つ『中庸』から来ていることを述べ、「人倫五常の道」は、「知仁勇」の「三徳」があって、初めて実行できる徳目であるとします。そして、人倫の「道」を「知る」のが「知」、「体する」のが「仁」、「行う」のが「勇」と説明しています。いわば、認識、体得、実行です。
 シナに続いて、杉浦は西洋について述べます。杉浦は、西洋における「知情意」は、シナの「知仁勇」と同じであるという解釈を示します。そして、「完全なる知情意」という「三種の神器」を「有する」のが「優秀なる人格」であると定義しています。
 このように杉浦は、「三種の神器」は「知仁勇」の徳を象徴するものと解釈するだけでなく、「知仁勇」は、シナにも西洋にも通じる普遍的な根本道徳であると説いています。説くところが世界大であるところに、浩然の気が感じられましょう。

●「実践躬行」

 『草案』の「三種の神器」と題された項目を結ぶにあたり、杉浦は、以下のように記しています。
 「支那にても西洋にても三徳を尊ぶこと一様なり。能くこれを修得せられたらんには、身を修め、人を治め、天下国家を平らかならしむるを得べきなり。皇祖天照大神が三種の神器に託して遺訓を垂れ給ひたるは、深遠宏大なる意義を有せらるるものなれば、宜しく此の義を覚らせ給ふべきなり。…
 凡そ倫理なるものは、唯口に之を談ずるのみにては何の功もなきものにて、貴ぶ所は実践躬行の四字にあり」と。
 このように、杉浦は、将来の天皇に対して、第一に「三種の神器」を説き、神器が象徴するものを「知仁勇」の三徳と解して、この徳を身につけられるように、申し上げたのです。そこで、最も強調されたのは、「実践躬行」でありました。「実践躬行」とは、口で言うだけでなく、自分で実際に行動することです。
 杉浦は、「帝王学とは」と聞かれ、「至誠の学問じゃ」と答えたと伝えられます。「至誠」については、『草案』では吉田松陰の一節に「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」という孟子の言葉が掲げられています。「至誠」とは、ただ「実践躬行」によってのみ、体得・感化できるものと申せましょう。杉浦が、「至誠」の人、吉田松陰を深く尊敬していたことは、言うまでもありません。

●忘れられた理想の想起

 倫理御進講とは、将来の天皇への御教育でした。天皇が自ら学び、実践すべき君主の倫理を明らかにしようとしたものでした。一方、国民には、明治天皇による「教育勅語」が、国民の倫理を示していました。
 この「勅語」は、天皇が国民に道徳的実践を命じたものではなく、天皇自らが実践するから、共に実践しようと、国民に親しく呼びかけるものでした。「教育勅語」の末尾の部分には、次のようにあります。
 「朕爾臣民と倶に挙挙服膺して咸(みな)其の徳を一にせんことを庶(こ)い幾(ねが)う」(私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを常に胸に抱いて、その徳を一つにすることを、心から念願します)と。
 天皇は、神意を体するために、神器が象徴すると解される「知仁勇」を「実践躬行」する。その天皇の呼びかけに応えて、国民は徳を養おうと努める。こうして君民が徳を一つにする道義国家を目指すところに、明治日本の理想があったと言えましょう。
 その忘れられた理想を想起すること。それによってわが国は、活力を取り戻し、より豊かな精神文化を生み出してゆくことができるだろうと、私は思うのです。
 以上、「三種の神器」について伝統的な解釈を紹介しましたが、「三種の神器」には、「知仁勇」というような道徳的な観念では、到底とらえられない、もっと深遠なものが象徴されています。その点を初めて解明されたのが、大塚寛一先生です。時が来れば、「三種の神器」に込められた真に深遠な意味が一般の多くの人に知られるようになることでしょう。

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