●自由・平等は目的実現のための手段・条件
佐伯は「近代社会を構成している重要な価値」として、「生命尊重主義あるいは自己保存の原則」「抑圧からの解放」「合理的な実証主義」の三つを挙げる。これらの「三つの価値はそれ自体としては決して人間の活動の目的ではなくてあくまで手段」である、と佐伯は指摘する。生命尊重主義や自己保存の原則は、人が何らかの活動をするための基本条件である。抑圧からの解放も、人が何らかの活動をする条件を与えるものである。合理的な実証主義も、真理なり真実なりに到達する方策である。言い換えると、目的ではなく手段なのである。
自由や平等は、これらの三つの価値から出てくる観念である。そして、自由や平等の観念もまた人間が何かを実現するための手段であり、条件である。近代社会では、「活動の目的は主観的であり相対的であるために、それについては論じることができない」。そこで客観的条件としての自由や平等に焦点が合わされた、と佐伯は言う。それだけではなく、やがて自由や平等こそが最高価値とみなされることとなった。「これは価値の転倒というほかない」「なぜなら本来、価値あるものは、人間の活動の目的であって、その条件や手段そのものではないからだ」と佐伯は言う。私は、この意見に同意する。補足するならば、ここにおける人間の活動は、個人の活動ではなく、個人を含む集団が行う活動である。
佐伯は次のように説く。「自由も平等も生命尊重も重要な価値には違いない。だが、それらが重要なのは、自由や平等を通して何か生活や活動が実現されるからであろう。この『意義ある活動』や『意義ある生活』といったとき、そこに『何か善いもの』という価値が本来は想定されていた」「この種の『何か善いもの』という観念と切り離して、自由や平等、生命尊重などを無条件で最高価値とみなすわけにはいかない」「自由にしろ、平等にしろ、生命尊重にしろ、人間がそれによって何かを実現していくための条件であって、その実現すべき『何か』こそが本当は価値あるものである。それに価値ありとすればこそ、その条件である自由や平等などにも重要な価値が与えられる」と。ここで、「意義ある活動」「意義ある生活」「何か善いもの」とは、善のことである。善の概念を用いて整理すると、佐伯は、自由・平等・生命尊重等は、善を実現するための手段であり、条件である。自由・平等・生命尊重等も価値だが、それ以上の価値が善である。善という価値を実現する手段・条件であることによって、自由・平等・生命尊重等にも価値が与えられる、と説いているわけである。
善という価値には、私的な善と公的な善がある。私的な善は個人的な次元のものであり、公的な善は公共的な次元のものである。公的な価値は、集団が構成員の合意によって選択するものである。それが公共善である。正義は、その社会の公共善と切り離すことが出来ない。善と正義は不可分である。この考え方は、サンデルの理論と近いところにある。佐伯は、サンデルと異なり、アリストテレス的な目的論の再評価を積極的に説いてはいない。だが、佐伯とサンデルの両者がそれぞれ目指しているのは、目的基底的な理論と言えよう。
私は、ここで佐伯とサンデルは、人間とは何かという人間の本質に関する問いを発しなければならないと思う。私は、第1部で人間は集団生活を行う動物であり、家族を単位とする社会を構成するところに特徴があると述べた。この家族的生命に基づく人間観に立つと、近代西欧の自由主義より、現代欧米のコミュニタリアニズムが妥当であり、さらにアリストテレス的な目的論の再評価がされるべきこととなる。正義論について言えば、権利基底的な理論や義務基底的な理論より、目的基底的な理論が家族的生命に基づく人間観に適っている。また、人間は単に生物的存在ではなく、文化的存在である。人間は言語を用いて、文化を創造する。言語の習得・使用は、家族において親子間から始まり、世代間でその能力が継承されていく。子孫を産み育てるのは、集団の維持・繁栄を目的とする。生命の再生産、次世代の養育・教育は、世代交代を介した生命と文化の維持・発展を目的とするものである。この点からも、アリストテレス的な目的論の再評価と目的基底的な理論の構築が求められるのである。
次回に続く。
佐伯は「近代社会を構成している重要な価値」として、「生命尊重主義あるいは自己保存の原則」「抑圧からの解放」「合理的な実証主義」の三つを挙げる。これらの「三つの価値はそれ自体としては決して人間の活動の目的ではなくてあくまで手段」である、と佐伯は指摘する。生命尊重主義や自己保存の原則は、人が何らかの活動をするための基本条件である。抑圧からの解放も、人が何らかの活動をする条件を与えるものである。合理的な実証主義も、真理なり真実なりに到達する方策である。言い換えると、目的ではなく手段なのである。
自由や平等は、これらの三つの価値から出てくる観念である。そして、自由や平等の観念もまた人間が何かを実現するための手段であり、条件である。近代社会では、「活動の目的は主観的であり相対的であるために、それについては論じることができない」。そこで客観的条件としての自由や平等に焦点が合わされた、と佐伯は言う。それだけではなく、やがて自由や平等こそが最高価値とみなされることとなった。「これは価値の転倒というほかない」「なぜなら本来、価値あるものは、人間の活動の目的であって、その条件や手段そのものではないからだ」と佐伯は言う。私は、この意見に同意する。補足するならば、ここにおける人間の活動は、個人の活動ではなく、個人を含む集団が行う活動である。
佐伯は次のように説く。「自由も平等も生命尊重も重要な価値には違いない。だが、それらが重要なのは、自由や平等を通して何か生活や活動が実現されるからであろう。この『意義ある活動』や『意義ある生活』といったとき、そこに『何か善いもの』という価値が本来は想定されていた」「この種の『何か善いもの』という観念と切り離して、自由や平等、生命尊重などを無条件で最高価値とみなすわけにはいかない」「自由にしろ、平等にしろ、生命尊重にしろ、人間がそれによって何かを実現していくための条件であって、その実現すべき『何か』こそが本当は価値あるものである。それに価値ありとすればこそ、その条件である自由や平等などにも重要な価値が与えられる」と。ここで、「意義ある活動」「意義ある生活」「何か善いもの」とは、善のことである。善の概念を用いて整理すると、佐伯は、自由・平等・生命尊重等は、善を実現するための手段であり、条件である。自由・平等・生命尊重等も価値だが、それ以上の価値が善である。善という価値を実現する手段・条件であることによって、自由・平等・生命尊重等にも価値が与えられる、と説いているわけである。
善という価値には、私的な善と公的な善がある。私的な善は個人的な次元のものであり、公的な善は公共的な次元のものである。公的な価値は、集団が構成員の合意によって選択するものである。それが公共善である。正義は、その社会の公共善と切り離すことが出来ない。善と正義は不可分である。この考え方は、サンデルの理論と近いところにある。佐伯は、サンデルと異なり、アリストテレス的な目的論の再評価を積極的に説いてはいない。だが、佐伯とサンデルの両者がそれぞれ目指しているのは、目的基底的な理論と言えよう。
私は、ここで佐伯とサンデルは、人間とは何かという人間の本質に関する問いを発しなければならないと思う。私は、第1部で人間は集団生活を行う動物であり、家族を単位とする社会を構成するところに特徴があると述べた。この家族的生命に基づく人間観に立つと、近代西欧の自由主義より、現代欧米のコミュニタリアニズムが妥当であり、さらにアリストテレス的な目的論の再評価がされるべきこととなる。正義論について言えば、権利基底的な理論や義務基底的な理論より、目的基底的な理論が家族的生命に基づく人間観に適っている。また、人間は単に生物的存在ではなく、文化的存在である。人間は言語を用いて、文化を創造する。言語の習得・使用は、家族において親子間から始まり、世代間でその能力が継承されていく。子孫を産み育てるのは、集団の維持・繁栄を目的とする。生命の再生産、次世代の養育・教育は、世代交代を介した生命と文化の維持・発展を目的とするものである。この点からも、アリストテレス的な目的論の再評価と目的基底的な理論の構築が求められるのである。
次回に続く。
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