●イヴァンの劇詩「大審問官」
『カラマーゾフの兄弟』で最も有名な部分は第5編第五の「大審問官」である。
イヴァンは、自分が創作した「大審問官」と題した劇詩をアレクセイに読んで聞かせる。
イヴァンは、「神がいなければ、すべてが許される」と考える無神論者である。一方、アレクセイは、神を信じて修行に勤しむ修道僧である。だが、イヴァンは、純真なアレクセイの心の中にも悪魔が宿っていると確信している。そこには、ドストエフスキーの人間への深い洞察がうかがわれる。自己のうちに神性と魔性の両面を抱えているのが、人間である。神聖的な部分は、愛と慈悲を以て人に尽くし、人を助けようとする無私の行為に現れる。悪魔的な部分は、殺人、虐待、破壊、暴政等の行為に現れる。自らの妄見邪念を払拭して初めて、内なる魔性に打ち克ち、聖人聖者の境地に到達し得る。その境地に至らぬ者は、修行者であっても、神性と魔性の間で苦悩しているということだろう。修道僧のアレクセイは後に還俗し、続篇ではテロ事件に関わる活動家として描かれる予定だった。同じカラマーゾフ家の血をともにするイヴァンの洞察は、彼の後半生を予見しているようである。
さて、イヴァンがアレクセイに聞かせる「大審問官」は、長大で複雑な内容だが、概略次のような筋立てである。
――――舞台は16世紀スペインのセヴィリア。カトリック教会が異端尋問により、異端者や異教徒の処刑を行っている。そこに突然キリストが再臨する。キリストは幾世紀も再臨を祈り続ける人類を、ただほんの一瞬だけ訪れてみようと思ったのである。民衆はすぐに彼がキリストであることに気づき、彼の回りに集まる。キリストは奇蹟を起こし、盲人の目が見えるようになり、棺桶に入っていた少女が生き返る。群集の間に動揺と叫喚と嗚咽が起こる。
そこに、大審問官である僧正が通りかかる。90歳に近い老人である。彼は、キリストを召し取れと警護の者に命じる。そして、牢にいるキリストを一人で訪れ、「お前はキリストか」と尋ねる。しかし、キリストは答えない。大審問官は「なぜお前はわしらの邪魔をしに来たのか」と問い質す。だが、やはり返事はない。「明日はおまえを裁判して、邪教徒の極悪人として火あぶりにする」と告げる。
沈黙のキリストに、大審問官は、長年腹の中にしまっていたことを吐き出す。「おまえは一切を教皇に任せたではないか。今は一切が教皇の手に握られている。今ごろになって出て来るのは、よしてもらいたい」。
そして、大審問官は、自由の問題を持ち出す。「人民の自由は、おまえにとっては何より大切なものだった。われわれは自由のために苦しんできたが、やっとわれわれはおまえの名によって、事業を完成した。人民は、自由をみずから進んでわれわれに捧げてくれた」と。
続いて、大審問官は、イエスに対する悪魔の誘惑について述べる。イエスは荒れ野で40日間断食した後、空腹を覚えた。そこに悪魔が来て、三つの誘惑をする。悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言う。イエスは、聖書を引いて、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えた。次に、悪魔はイエスを神殿の屋根の端に立たせて言う。「神の子なら、飛び降りたらどうだ」。神が天使に命じてイエスを守るかどうかを試そうとするものである。イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」と答える。さらに悪魔はイエスに世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言う。イエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と答えた。そこで、悪魔は離れ去ったーーこういう話である。マタイ福音書、ルカ福音書の各4章にある。
大審問官は、この話を語って、「人はパンだけで生きるものではない」などと言って悪魔の誘惑を拒否し、キリストが人民に自由を与えたことを非難する。「自由ほど耐えがたいものは他にはない」「自由になった人間にとって、最も苦しい、絶え間なき問題は、一刻も早く自分の崇めるべき者を捜し出すことである」と述べ、人民は選択の自由という重荷に耐えられず、教会の権威に従った。教会はパンを与えて人民を自由から解放したと語る。「われわれの仕事仲間は、おまえでなくてやつなのだ。これがわれわれの秘密だ!」と、大審問官は教会が8世紀前から悪魔と手を結んでいることを明らかにする。そして、明日、従順な民衆は、彼の合図に従って、キリストを焼く火に炭を掻き込むだろう、と述べる。
アレクセイは、イヴァンの劇詩を聴きながら、反論する。「誰が兄さんの自由観を信じるものですか」「そんな風に自由を解釈していいものでしょうか」と。アレクセイが「兄さんの老審問官は、神を信じてはいません」と言うと、イヴァンは「そのとおりだ。彼の秘密は唯その中にのみ含まれているのだ」と答える。アレクセイは「兄さんは神を信じていないのです」と漏らす。
イヴァンは、劇詩の結末部分を続ける。キリストは大審問官に何も答えない。そして、無言のまま接吻をする。大審問官はぎくりとして、牢の扉を開け、キリストに「出て行け、二度と来るな」と言って放免する。キリストは、黙って牢を去る。
イヴァンは、自分の書いた劇詩について、「こんなものはでたらめだ」「とりとめのないものだ」と言う。アレクセイは、イヴァンに「神がいなければ、すべてが許される」と考えるのかどうかを問い質す。イヴァンは、「ことによったら、すべてが許されるかも知れない」と答える。そう述べるイヴァンに、アレクセイは劇詩の中のキリストが大審問官に行ったように接吻するーーーー
大体、こういう展開である。
私見を述べると、まずイヴァンの劇詩はドストエフスキー自身の思想を描いたものではなく、作中人物の創作とされていることに注意しなければならない。イヴァンは、カトリック教会の堕落を書きながら、教会を批判したプロテスタントを支持せず、イエスの教えの正統と自負するロシア正教会も支持しない。あくまで無神論者である。自由に関するイヴァンの考察には、救いにおける自由意志を否定するか肯定するかという、パウロ以来のキリスト教の論争が反映されていない。イヴァンは、魂の救いではなく、地上における自由に関心を集中している。この点で自由を中心価値とする西欧の近代思想の影響を受けている。だが、実際に自由と権利を社会的に拡大した西欧諸国の実態を把握してはいない。イヴァンは、キリストから後のことを任されたカトリック教会が信徒を自由の恐怖から解放して、服従による幸福を与えたと洞察する。もし彼のような無神論の立場で、自由と引換えに民衆にパンを与える社会を実現するならば、共産主義の国家となるだろう。アレクセイがナロードニキに似ているとすれば、イヴァンはボルシェヴィキを先取りしている。
父親殺しの項目に書いたように、「神がいなかったら、すべてが許される」というイヴァンの思想は、スメルジャコフに影響を与え、父親殺しを引き起こしてしまう。また無実の長男がシベリア送りになる。神を否定する無神論は、人間の内なる魔性を呼び起こすことになったと言えよう。
次回に続く。
『カラマーゾフの兄弟』で最も有名な部分は第5編第五の「大審問官」である。
イヴァンは、自分が創作した「大審問官」と題した劇詩をアレクセイに読んで聞かせる。
イヴァンは、「神がいなければ、すべてが許される」と考える無神論者である。一方、アレクセイは、神を信じて修行に勤しむ修道僧である。だが、イヴァンは、純真なアレクセイの心の中にも悪魔が宿っていると確信している。そこには、ドストエフスキーの人間への深い洞察がうかがわれる。自己のうちに神性と魔性の両面を抱えているのが、人間である。神聖的な部分は、愛と慈悲を以て人に尽くし、人を助けようとする無私の行為に現れる。悪魔的な部分は、殺人、虐待、破壊、暴政等の行為に現れる。自らの妄見邪念を払拭して初めて、内なる魔性に打ち克ち、聖人聖者の境地に到達し得る。その境地に至らぬ者は、修行者であっても、神性と魔性の間で苦悩しているということだろう。修道僧のアレクセイは後に還俗し、続篇ではテロ事件に関わる活動家として描かれる予定だった。同じカラマーゾフ家の血をともにするイヴァンの洞察は、彼の後半生を予見しているようである。
さて、イヴァンがアレクセイに聞かせる「大審問官」は、長大で複雑な内容だが、概略次のような筋立てである。
――――舞台は16世紀スペインのセヴィリア。カトリック教会が異端尋問により、異端者や異教徒の処刑を行っている。そこに突然キリストが再臨する。キリストは幾世紀も再臨を祈り続ける人類を、ただほんの一瞬だけ訪れてみようと思ったのである。民衆はすぐに彼がキリストであることに気づき、彼の回りに集まる。キリストは奇蹟を起こし、盲人の目が見えるようになり、棺桶に入っていた少女が生き返る。群集の間に動揺と叫喚と嗚咽が起こる。
そこに、大審問官である僧正が通りかかる。90歳に近い老人である。彼は、キリストを召し取れと警護の者に命じる。そして、牢にいるキリストを一人で訪れ、「お前はキリストか」と尋ねる。しかし、キリストは答えない。大審問官は「なぜお前はわしらの邪魔をしに来たのか」と問い質す。だが、やはり返事はない。「明日はおまえを裁判して、邪教徒の極悪人として火あぶりにする」と告げる。
沈黙のキリストに、大審問官は、長年腹の中にしまっていたことを吐き出す。「おまえは一切を教皇に任せたではないか。今は一切が教皇の手に握られている。今ごろになって出て来るのは、よしてもらいたい」。
そして、大審問官は、自由の問題を持ち出す。「人民の自由は、おまえにとっては何より大切なものだった。われわれは自由のために苦しんできたが、やっとわれわれはおまえの名によって、事業を完成した。人民は、自由をみずから進んでわれわれに捧げてくれた」と。
続いて、大審問官は、イエスに対する悪魔の誘惑について述べる。イエスは荒れ野で40日間断食した後、空腹を覚えた。そこに悪魔が来て、三つの誘惑をする。悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言う。イエスは、聖書を引いて、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えた。次に、悪魔はイエスを神殿の屋根の端に立たせて言う。「神の子なら、飛び降りたらどうだ」。神が天使に命じてイエスを守るかどうかを試そうとするものである。イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」と答える。さらに悪魔はイエスに世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言う。イエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と答えた。そこで、悪魔は離れ去ったーーこういう話である。マタイ福音書、ルカ福音書の各4章にある。
大審問官は、この話を語って、「人はパンだけで生きるものではない」などと言って悪魔の誘惑を拒否し、キリストが人民に自由を与えたことを非難する。「自由ほど耐えがたいものは他にはない」「自由になった人間にとって、最も苦しい、絶え間なき問題は、一刻も早く自分の崇めるべき者を捜し出すことである」と述べ、人民は選択の自由という重荷に耐えられず、教会の権威に従った。教会はパンを与えて人民を自由から解放したと語る。「われわれの仕事仲間は、おまえでなくてやつなのだ。これがわれわれの秘密だ!」と、大審問官は教会が8世紀前から悪魔と手を結んでいることを明らかにする。そして、明日、従順な民衆は、彼の合図に従って、キリストを焼く火に炭を掻き込むだろう、と述べる。
アレクセイは、イヴァンの劇詩を聴きながら、反論する。「誰が兄さんの自由観を信じるものですか」「そんな風に自由を解釈していいものでしょうか」と。アレクセイが「兄さんの老審問官は、神を信じてはいません」と言うと、イヴァンは「そのとおりだ。彼の秘密は唯その中にのみ含まれているのだ」と答える。アレクセイは「兄さんは神を信じていないのです」と漏らす。
イヴァンは、劇詩の結末部分を続ける。キリストは大審問官に何も答えない。そして、無言のまま接吻をする。大審問官はぎくりとして、牢の扉を開け、キリストに「出て行け、二度と来るな」と言って放免する。キリストは、黙って牢を去る。
イヴァンは、自分の書いた劇詩について、「こんなものはでたらめだ」「とりとめのないものだ」と言う。アレクセイは、イヴァンに「神がいなければ、すべてが許される」と考えるのかどうかを問い質す。イヴァンは、「ことによったら、すべてが許されるかも知れない」と答える。そう述べるイヴァンに、アレクセイは劇詩の中のキリストが大審問官に行ったように接吻するーーーー
大体、こういう展開である。
私見を述べると、まずイヴァンの劇詩はドストエフスキー自身の思想を描いたものではなく、作中人物の創作とされていることに注意しなければならない。イヴァンは、カトリック教会の堕落を書きながら、教会を批判したプロテスタントを支持せず、イエスの教えの正統と自負するロシア正教会も支持しない。あくまで無神論者である。自由に関するイヴァンの考察には、救いにおける自由意志を否定するか肯定するかという、パウロ以来のキリスト教の論争が反映されていない。イヴァンは、魂の救いではなく、地上における自由に関心を集中している。この点で自由を中心価値とする西欧の近代思想の影響を受けている。だが、実際に自由と権利を社会的に拡大した西欧諸国の実態を把握してはいない。イヴァンは、キリストから後のことを任されたカトリック教会が信徒を自由の恐怖から解放して、服従による幸福を与えたと洞察する。もし彼のような無神論の立場で、自由と引換えに民衆にパンを与える社会を実現するならば、共産主義の国家となるだろう。アレクセイがナロードニキに似ているとすれば、イヴァンはボルシェヴィキを先取りしている。
父親殺しの項目に書いたように、「神がいなかったら、すべてが許される」というイヴァンの思想は、スメルジャコフに影響を与え、父親殺しを引き起こしてしまう。また無実の長男がシベリア送りになる。神を否定する無神論は、人間の内なる魔性を呼び起こすことになったと言えよう。
次回に続く。
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