ほそかわ・かずひこの BLOG

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キリスト教159~ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』における父親殺し

2019-02-12 06:48:47 | 心と宗教
●『カラマーゾフの兄弟』における父親殺し

 ドストエフキーは、死の前年である1880年に、最後の長編となった『カラマーゾフの兄弟』を刊行した。この作品はキリスト教文学の最高峰であり、世界文学史上、屈指の名作である。この作品には、神と人間、救いと懐疑、国家と教会、欧化と土着、愛と憎しみ、純愛と淫欲、貧困、児童虐待等、様々な主題が濃厚に盛り込まれている。ロシア正教の教義や伝統がよく表現されているとして、正教会側から高く評価されている。また、実存主義の哲学者や神学者が、しばしば実存主義の立場からこの作品を論じてきた。
 物語の本筋は、カラマーゾフ家の親子・兄弟の家族関係であり、父親殺しの事件がその中心となっている。
 父親のフョードルは、強欲かつ好色な、成り上がり地主である。ロシア人の一つの典型ともいえる人物である。長男のドミートリイは、直情的かつ暴力的で、放埒で堕落した生活を送っている。父と長男は、財産と女をめぐって争っている。
 次男のイヴァンは、理工系大学を出た知識人で、西欧的な合理主義・無神論を信条とする。作中で語られる劇詩「大審問官」の作者である。「神がいるのであれば、どうして虐待に苦しむ子供たちを神は救わないのか」と問い、「神がいなければ、すべてが許される」と説く。
 三男のアレクセイは、修道僧であり、純情で真面目で優しい青年である。神の愛によって親子・兄弟を和解させようとする。修道院の指導者ゾシマ長老の命で、彼の死後は還俗する。続編では主人公に予定されていた。
 これらの三兄弟の他に、フョードルの私生児スメルジャコフがいる。彼はカラマーゾフ家の使用人として冷遇されていた。「神がいなければ、すべてが許される」というイヴァンの無神論思想に傾倒している。
 これらの父子の間で、父親殺しが起こる。イヴァンの中にある父への殺意を察したスメルジャコフが殺害に及ぶ。スメルジャコフはイヴァンに犯行を告げるが、それを許可したのはイヴァンだと言う。怒ったイヴァンは、裁判で真実を言えと迫るが、スメルジャコフは自殺してしまう。スメルジャコフの自殺後、イヴァンは悪魔を見る。
 裁判では、イヴァンが、事件当日盗まれた金を示して、犯人はスメルジャコフであり、殺害を唆したのは自分だと明らかにする。しかし、ドミートリイとイヴァンの間を揺れ動くカチェリーナが、父を殺すと書いたドミートリイの手紙を示して、彼が犯人だと指弾する。結局、ドミートリイは有罪となり、シベリアへの流刑、懲役20年を言い渡される。
 父親殺しは、極めて重い犯罪である。聖書には、アダムとエヴァの息子である農耕者の兄カインが遊牧者の弟アベルを殺す話はあるが、父親殺しの話はない。ギリシャ神話には、王を実の父親と知らずに殺してしまい、そして、王となり、母を実の母と知らず結婚したというエディプスの話がある。精神分析学者のジクムント・フロイトは、この話をもとにエディプス・コンプレックスを説いた。エディプス・コンプレックスは、父親、母親、子供の間において、子供が異性の親に対して持つ愛着、同性の親への敵意、罰せられる不安の三点を中心として発展する観念複合体をいう。カラマーゾフ家の父親殺しは、母親への愛着は関係しておらず、典型的なエディプス・コンプレックスによるものではない。
 フロイトは「ドストエフスキーと父親殺し」という論文を書いている。ドストエフスキーが18歳だった1839年6月、父ミハイルが持村で農奴に惨殺された。その事件による激しい興奮から、てんかんが起こった。ドストエフスキーは、父親の殺害にはまったく関与していない。だが、この事件は、彼にとって忘れ難い出来事となった。フロイトの理論によれば、彼は無意識のうちに父の死を願っており、それが現実のものとなった。その恐怖がてんかんの症状になって現れたと解釈される。だが、私は、この解釈は、こじつけに過ぎないと思う。
 フロイトと異なる説を唱えている心理学者に、ソンディ・レハールがいる。フロイトは、晩年、精神分析による臨床経験から「精神分析が見事な治療実績をあげることができるのは、主に精神的外傷が原因である場合だけ」と言い、「素因的なもの」は「分析が終結不可能」つまり治療が困難だと認めた。「素因的なもの」とは、先天的な要因である。先天的な要因とは、遺伝的なものであり、心理学的には個人を超えた無意識に根源を持つものである。
 ソンディは、先祖から遺伝する無意識の統計研究と分析治療を行い、フロイトの個人的無意識と、ユングの民族的・人類的な集合的無意識の間に重要なものがあることを発見した。家族的無意識である。家族的無意識とは、個人的な抑圧の過程にも、また集合的な無意識の過程にも帰せしめることのできない「潜在的な家族的素質」すなわち、個人のいわゆる遺伝素質である。そして、ソンディは、個人の中に抑圧されている祖先の欲求が、個人の運命を決定するというという理論を打ち立てた。それによって、運命心理学者といわれる。
 ソンディは、ドストエフスキーの『罪と罰』及び『カラマーゾフの兄弟』を読んで、「ドストエフスキーは、なぜ彼の小説の主人公に特に殺人者を選んだのであろうか」と自らに問うた。そして、ドストエフスキー家の伝記を調べてみると、祖先の系譜の中に、実際に殺人者が現れていた。Aは、使用人に命じて、彼女の夫を家の中で殺させた。Bとその息子は、ある軍人貴族の殺害に参加した等々。ドストエフスキーは自らの家族的な遺伝素質によって殺人者の役割を潜在的に担っていたゆえに、殺人者の精神生活を表現することができたし、また表現せずにはいられなかった。こういうことが遺伝学的な資料によって裏づけられた。
 私は、ドストエフキーの場合、18歳の時に父親が殺害されたという個人的な体験と、先祖に複数の殺人者がいたという遺伝素質が結びついて、息子たちによる父親殺しという出来事の創作に至ったと考える。
 家族的無意識とは、祖先からの運命情報を伝え、私たちの運命を左右し、さらに子孫にまで影響を与え続ける祖先から遺伝する無意識であり、フロイトが手を焼いた素因的なるもののありかと考えられる。この祖先から遺伝する無意識は、日本の仏教で因縁といわれているものと共通性がある。因縁とは、もともと因・縁・果の法則を指す言葉だが、先祖から受継いだ悪い原因の意味でよく使われる。そして、悪因縁の浄化・消滅が日本の仏教や神道では修行や供養の一つの重要な目的となっている。キリスト教は、この世代間に受け継がれる要因の重要性をよく認識していない。最初の人類であるアダムとエヴァの原罪だけでなく、その後の世代が積み重ねてきた悪因縁の影響を把握できていない。ドストエフスキーは、そのことに思い至らぬまま文学的な創作を行ったものである。

 次回に続く。

■追記
 本稿を含む「キリスト教の運命~終末的完成か発展的解消か」第2部は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion12-5b.htm

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