ほそかわ・かずひこの BLOG

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仏教59~シナ仏教の旧訳時代、弾圧と復興

2020-09-25 10:16:40 | 心と宗教
●仏教の旧訳時代

 格義仏教によって、外来の仏教受容の土壌が作られた後、4世紀から仏典の新たな翻訳が行われた。それとともに、仏教の研究や布教が本格化した。この時代を旧訳(くやく)時代という。4世紀初め頃から7世紀半ばまでである旧訳時代は、シナ仏教が独自性を持って開花した時代である。当時の代表的な渡来人の仏教家が、仏図澄と鳩摩羅什である。また、シナ人にも優れた仏教家が現れた。

◆仏図澄
 旧訳時代は、シナ文明の歴史では、南北朝時代に当たる。シナ北部では、五胡十六国が興亡した時代である。この時期に活躍したのが、仏図澄である。彼は、310年に、中央アジアの亀茲国(クチャ、東トルキスタン)から、戦乱の続く洛陽へ来た。当時の年齢は78歳だったという。霊能者として神通力を発揮し、北方民族を統一した後趙の王・石勒、石虎を教化して、国師と尊敬された。その布教活動は約30年に渡り、各地に建立した寺院は893、弟子は1万人に上ったという。それまで許されなかったシナの出家が許されるように努力し、多くの有能な僧侶を育成した。彼は翻訳をせず、著作も残さなかったが、外来の宗教である仏教がシナ北部に定着する端緒を開き、シナ仏教の発展の基礎を作った。

◆道安・慧遠・法顕
 仏図澄の弟子の道安は、4世紀の後半にシナ人として初めて仏教教団を組織した。仏教伝来当初のシナでは、出家した者は受戒者の姓を受け継ぐのが慣例だった。 しかし、道安は仏弟子としての自覚により、釈迦の釈の字を姓とし、釈道安と名乗った。以後、出家者が釈の一字を姓とすることが一般化した。道安は、経典の目録を作り、経典の解釈を正して、格義仏教からの脱却を図った。
 4世紀から5世紀初め、道安の弟子である廬山(ろざん)の慧遠(えおん)は、阿弥陀信仰を行い、観想念仏を修し、白蓮社という念仏結社をつくった。また、僧侶は王権の下に隷属し、王者に従うべきとの主張に反論を著し、信仰の自立性を説いた。
 5世紀初めには、インドに留学するシナ人僧侶が現れた。法顕は長年月をかけてインドから、律蔵、阿含経典、『涅槃経』等を持ち帰った。旅行記の『仏国記』で知られる。

◆鳩摩羅什
 仏図澄に遅れること約90年、401年に、五胡十六国時代のシナ北部の長安に来たのが、鳩摩羅什(クマーラジーバ)である。仏図澄と同じ亀茲国(クチャ)の出身で、父はインド人の僧侶、母は亀茲国王の妹だった。インドに留学し、初めは小乗仏教、後に大乗仏教を学び、特に龍樹の中観派を修めた。シナへの渡来は、その評判を聴いた後秦の姚興(ようこう)が国師として招聘したことによる。
 鳩摩羅什は、実践中心だった仏図澄と異なり、仏典の翻訳と講義に力を傾けた。彼がシナで12年の間に訳出した経典は、35部294巻とも74部384巻ともいわれる。その業績は、唐代の玄奘の訳業と比較されるほど大きい。
 とりわけ翻訳で最も力を注いだのは、般若系の大乗経典と中観派の論書だった。それによって、シナに空の思想を初めて正確に伝え、シナ仏教の水準を理論的に引き上げた。
彼が翻訳した聖典のうち、龍樹の『中論』『百論』と提婆の『十二門論』は三論宗、同じく『法華経』は天台宗、インド僧・訶梨跋摩(かりばつま)の成実論は成実宗、『阿弥陀経』と龍樹の『十住毘婆沙論』は浄土宗、『坐禅三昧経』は大乗的な菩薩禅、というようにそれぞれの形成と発達をもたらした。
 鳩摩羅什の門弟は3000人といわれ、僧肇(そうじょう)、僧叡、道生、道融は、その四哲といわれた。彼らによって、シナ仏教の諸宗派が開かれる基礎が準備された。
 シナ仏教は、鳩摩羅什とその一門を通じて、受容・基礎作りの段階から、本格的な成長・発展の段階に進んだ。

◆真諦・菩提達磨
 6世紀には、仏教を奨励した南朝の梁の武帝によって、インドから真諦(しんだい、パラマールタ)や菩提達磨(ボーディダルマ)が招かれた。
 真諦は、2万巻の聖典をもってシナに渡来し、主に唯識説の論書を翻訳した。訳書に、馬鳴の『大乗起信論』、無著の『摂大乗論』、世親の『阿毘達磨倶舎論』等がある。摂論宗(しょうろんしゅう)の開祖とされる。鳩摩羅什・玄奘とともにシナ仏教史の三大翻訳家に数えられる。
 菩提達磨は、単に達磨ともいう。彼は、インドから直接、禅の行法を伝えた。当時シナでは複雑高度・煩瑣難解な教学研究に傾いていたが、達磨は、禅の実践を重んじ、壁が何ものも寄せ付けぬように、本来清浄な自性に目覚めて成仏せよ、と説いた。そこから、シナ独自の宗派・禅宗が生まれた。日本にも来て、聖徳太子と問答したとされる。ダルマさんとして知られる。

●仏教への弾圧と復興
 
 仏教は、シナに伝来してから、何度か国家権力による弾圧を受けた。特に4人の皇帝によって受けた迫害が激しかった。5世紀半ばの北魏の太武帝、6世紀後半の北周の武帝、9世紀後半の唐の武宗、10世紀半ばの後周の世宗によるものである。各皇帝の名前を取って、三武一宗の廃仏という。
 南北朝時代に、三武一宗の廃仏の第一の出来事が起こった。北魏の太武帝が仏教の経典・仏像を破壊焼却して僧侶を生埋めにしたのである。当時、道教は、仏教に対抗するため、シナ古来の様々な思想を取り入れて教義を整備し、支配層にも信仰されるようになっていた。また、儒教・仏教に対する「道教」という名称が成立した。北魏では、寇謙之が五斗米道を新天師道に発展させ、教団を組織した。太武帝は、道教を信奉する宰相・崔浩(さいこう)の勧めで、新天師道を国教とし、仏教弾圧を行なった。
 しかし、こうした迫害があっても仏教は復活し、平城郊外に雲岡の石窟寺院が開削された。後年、新たな都となった洛陽では、龍門に石窟が開かれ、城内に堂塔伽藍が建ち並んだ。
 南朝では仏教が盛んで、梁の武帝の時代に最盛期を迎え、都の建康に多数の寺院が建造された。その後、北朝では6世紀に東西分裂が起こり、南朝では同世紀半ばに梁が滅亡した。それによって仏教側は混乱に陥った。
 その時期に、三武一宗の廃仏の第二の出来事が起こった。儒教を採用した北周の武帝が仏教・道教の二教を廃止したのである。武帝は、儒教・仏教・道教それぞれの論客を集めて議論させたうえで、三教の順位を儒・道・仏とした。その後、道教の道士が仏教の僧侶が論破されると、武帝は仏教・道教をともに廃し、僧侶・道士を還俗 (げんぞく)させた。これによって、仏教は深刻な危機に直面した。だが、それでもなお仏教は復活した。叩かれても立ち上がることができるほど、仏教は既にシナの社会にしっかり根を張っていたわけである。
 そのことを示す現象の一つが、盂蘭盆会(うらぼんえ)の流行である。盂蘭盆会は、サンスクリット語ウランバナの音訳とされる。いわゆるお盆の法要・儀式である。インドにも死者の救済を願う儀礼があったようだが、シナでは盂蘭盆会がもともとの祖先崇拝の習俗に融合して、民衆に広がった。5世紀前後にシナか西域でつくられた偽経と見られる『盂蘭盆経』がもとになっている。梁の武帝の時代に法事が行われてから流行し、7月15日の盆供養は七世の父母を救い得ると信じられた。以後、シナの年中行事の一つとなった。こうした現象は、仏教には、道教では満たされない人々の欲求に応えるものがあったということだろう。
 道教は、こうした仏教への対抗を続けた。シナ土着のエスニックな宗教が、外来の異文明の宗教に反発したものである。その抗争は、以後の時代でも繰り返された。

 次回に続く。

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