ほそかわ・かずひこの BLOG

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仏教60~隋・唐時代と仏教

2020-09-27 13:37:01 | 心と宗教
●隋・唐時代と仏教

 後漢の末期から魏晋南北朝時代の長い分裂の時代に終止符を打ったのは、隋である。北周の権力を奪った楊堅が、国名を隋と称し、高祖文帝となり、589年に陳を滅ぼして、シナを統一した。
 楊氏は、北魏で長城北辺の防衛に当たっていた漢人武将の家柄である。ただし、漢人とは言っても、通婚関係からみて、非漢民族、特に鮮卑の血を多く交えていると見られる。
 文帝は、律令制、均田制、租庸調制、府兵制等を敷き、中央集権化を目指した。官僚の採用では科挙を開始したが、宗教政策では5儒教に替えて仏教を中心にすえたので、仏教は鎮護国家の役割を拡大した。新都の大興に、全国の仏教の本拠として大興善寺が建てられ、各地に大興国寺等の名称の寺院が建造された。文帝は、道教も保護し、大興善寺に対応するものとして玄都観を設けた。晩年、仏教への信仰を強めた文帝は、諸州に舎利塔を建立し、その地方の信仰の中心とした。これが、日本の国分寺の起源となった。
 隋代には、浄影寺(じょうようじ)の慧遠、天台大師智顗、嘉祥大師吉蔵(きちぞう)が現れ、三大法師と呼ばれる。慧遠は、渡来人・菩提流支が開いた地論宗を発展させ、北周の武帝の廃仏に反対した。智顗は、天台宗の開祖で、教相判釈によって『法華経』を諸経典の最上位に置いた。吉蔵は、龍樹の系統を受けて三論宗を大成した。
 文帝の後を継いだ煬帝(ようだい)は、即位前から天台智顗を崇敬した。智顗から大乗戒を受け、仏教を実践した。その一方で、神仙説を信じ、道術に優れた道士を重んじもした。治政では、江南・華北を結ぶ大運河を建設した。だが、その政治は暴政として恐れられ、度重なる外征の失敗も多く、農民・豪族の反乱が起き、619年に隋は滅亡した。
 隋を滅ぼした李淵は、唐を建国して、高祖となった。都は長安に開いた。その子・李世民は2代太宗となり、628年にシナを統一した。
 李氏は、北魏で蒙古と接する北辺の防衛に当たっていた軍人の家柄である。隋の楊氏と姻戚関係にあり、鮮卑族と通婚していた。隋・唐とも純粋な漢民族の王朝ではなく、漢人・鮮卑混血の王朝である。
 唐代初期は、隋の煬帝の暴政をやめて、文帝の時代の治政に戻すことを方針とした。隋の均田制、租庸調制、府兵制に基礎を置いて、律令制度を完成させた。太宗の治政は、貞観の治と呼ばれ、民生に安定をもたらすとともに、西域に勢力を伸ばし、漢代以降で最大の版図を広げた。
 唐代は、宗教・文学・美術の各分野で古代シナの王朝文化の最盛期を現出した。道教で神格化された老子の姓(李)が唐の王室と同じであるところから、唐室の祖は老子であるとされ、道教が尊重された。しかし、仏教への禁圧はなく、仏教は唐代に大きく発展した。隋による統一以前から唐代にかけて、多くの宗派が生まれた。先に揚げた地論宗、天台宗、三論宗の他に、摂論宗、禅宗、華厳宗、浄土宗等が現れた。当時の諸宗派は、独自の制度を持つ教団というより、教学研究の学派に近いものだった。そのうちの天台宗と禅宗は、唐代に教団としての性格を持つようになった。
 仏教は、シナ文明において儒教と出会い、その教えを一部取り入れるようになった。隋代末期から唐代初期につくられた経典に、『父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)』がある。父母の恩が極めて重いことを説き、父母への報恩の実践を勧めるものである。これは、儒教の孝の徳目に基づくもので、シナで撰述された偽経である。こうした経典の登場は、仏教の儒教化を示す現象である。
 7世紀半ば、シナの仏教史において画期的なことが起こった。玄奘がインドから多くの聖典を持ち帰り、精力的に翻訳を進め、新しい仏教思想を伝えたことである。これによって、諸宗派における仏教の研究が進み、シナ仏教の最盛期が訪れた。玄奘の翻訳以後の時代を新訳時代という。
 当時、長安は、世界最大級の都市であり、東方を代表する国際都市だった。西方からゾロアスター教、マニ教、景教(キリスト教ネストリウス派)等が伝えられて、寺院が建設され、マニ教、景教の教典が漢訳された。これらの宗教より早くシナに伝来していた仏教は、既に土着した立場で、これらとあらためて出会った、
 3代高宗の死後、皇后の則天武后が実権を握った。690年に自ら皇帝に即位するし、国号を周に改めた。このシナ史に空前絶後の女帝は、多くの悪行で知られるが、熱心な仏教信者でもあった。唐王朝は老子を祖と仰ぐことから、宮中での席次は道先仏後すなわち道教を仏教より上位とすることを定めていた。だが、則天武后は、これを仏先道後に改めた。国分寺に類する大雲経寺を各地に建立し、自分の姿に似せた大仏を建造した。渡来僧らに『華厳経』を漢訳させ、禅僧の神秀を国師に迎えた。また、畜類の殺生や魚の捕獲を禁止するなどした。老齢に入った則天武后は、705年に中宗を復位させ、それにより、唐が復興した。
 その後、即位した6代玄宗は、在位の前半には開元の治と呼ばれる優れた治政を行い、後半も途中までは、唐の最盛期を生み出した。玄宗の時代に道教は勢力を伸張し、『大智度論』が編成された。玄宗は晩年、楊貴妃を溺愛し、宮廷は腐敗した。周辺諸民族の統治に失敗し、辺境防衛のために節度使を置いたが、755年に節度使の安禄山らが安史の乱を起こした。以後、各地で土地の私有が進み、均田制が行えなくなり、律令制度は崩壊していった。
 この間、7世紀後半から8世紀にかけて、インドから密教が伝来した。現世利益の求めに応じる密教は、王室や貴族の心をとらえただけでなく、民衆にも流行した。鎮護国家の役割も発揮し、8世紀後半から9世紀の初めにかけて、密教の恵果は三代にわたる皇帝の崇敬を受け、三朝の国師と仰がれた。
 仏教を信仰する皇帝が多く現れた背景には、仏教信者の多い宦官の影響が指摘される。ところが、9世紀後半に、仏教に法難が起こった。武宗が仏教への迫害を行ったのである。三武一宗の廃仏の第三回となるものである。
 武宗は、宮中で多数の道士に祭儀を行わせ、また宮中で道教の法を受けて道士皇帝となった。仏教を嫌い、約4600の寺院を破壊し、多くの聖典を焼却した。約26万5百人の僧尼を還俗させ、寺院に隷属していた約15万人を解放した。これを会昌の廃仏という。弾圧の背景には、道教の勢力回復を目指す道士が武宗に廃仏を教唆したこと、財政難の唐王朝が寺院の財産の没収や税収の増加を狙ったことなどが挙げられる。この大規模な廃仏によって、仏教は深刻な打撃を受けた。武宗は、仏教だけでなく、ゾロアスター教、景教、マニ教の三夷教にも弾圧を加えた。その結果、唐文化の国際性は失われた。
 武宗を継いだ宣宗の治政以降、仏教は徐々に復興した。廃仏以後、教学研究ではなく実践に専念する浄土宗と禅宗が主流になっていった。もっとも、既に唐は中央集権的な求心力を失っており、仏教が昔日の繁栄を再現することはなかった。
 衰退を続ける唐では、874年には黄巣の乱と呼ばれる農民反乱が起き、長安・洛陽が陥落した。唐はトルコ系の沙陀族の力を借りて乱を治めた。しかし、王朝の権威は失墜し、衰退の一途となった。そして遂に907年、唐は節度使の一人、朱全忠によって滅ぼされた。

 次回に続く。

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