評論家の西尾幹二氏は、改正入管法は「移民国家宣言」だとして、強く警告している。
西尾氏は言う「多民族共生社会や多文化社会は世界でも実現したためしのない空論で、元からあった各国の民族文化を壊し、新たな階層分化を引き起こす。日本は少数外国人の固有文化を尊重せよ、と早くも言われ出しているが、彼らが日本文化を拒否していることにはどう手を打ったらよいというのか。イスラム教徒のモスクは既に数多く建てられ、中国人街区が出現し、朝鮮学校では天皇陛下侮辱の教育が行われている。われわれはそれに今耐えている。寛容は限界に達している。34万人の受け入れ案はあっという間に340万人になるのが欧州各国の先例である」と。
西尾氏は、ドイツを中心に、ヨーロッパの移民問題を日本に伝え、日本における移民の拡大を警告してきた。早くも1989年には『労働鎖国のすすめ』を刊行し、外国人単純労働力の導入に慎重論を唱えた。また2008年に自民党が「人材開国!日本型移民政策の提言」を出した時には、これに反対する論陣を張った。
私は、拙稿「トッドの移民論と日本の移民問題」で、移民受け入れ1000万人計画を批判した。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09i.htm
(第6章へ)
西尾氏は、2010年には、「WiLL」2010年4月号)で、当時のドイツ事情を伝えた。
「トルコ人問題で苦しんだドイツは、トルコへの帰国者を募り、相当額のお金をつけて故国へ返す政策を計画し、大規模に実行したことがある。しかし、間もなくムダと分かった。帰国させたほぼ同じ人数だけ、たちどころにドイツに新たに入国してくる。同じトルコ人が戻ってくるのではない。ドイツ社会に、トルコ人就労者を必要とする一定数の強い需要が生じてしまったのである」。
外国人労働者を受け入れると、「先進国の社会は、送られてくる労働力のパワーに慣れ、それを頼りにし、次第にそれがなければ成り立たない社会に変わってしまう。先進国の側が外国人をつねに必要とする社会体質になり、その力を勘定に入れなければ国や、都市や、各種の組織が機能しなくなってしまうのである」と。
西尾氏は、このことを次のように表現する。「ドイツは、トルコ人労働者という麻薬に手を出して抜け出せなくなったといっていい。じつはフランスも、オランダも、イギリスも、各国それぞれ様相は違うが、麻薬に手を出したという点では同じだといっていい」と。
人間を麻薬に例えるのは不穏当だが、ここでは西尾氏の表現として引用しておく。
西尾氏によると、ドイツでは国家中枢部分である「教会」と「国防軍」の二つともが、外国人への依存によって左右されるようになっている。「教会」は移民受け入れを推進することで増収を図ることに賛成し、国防軍は外国人なくして成り立たなくなってしまった。
西尾氏は「ドイツの現状は以上のような次第だから、国内で『移民反対』と今さらもうまったく言えなくなり、道を引き返すすべはもはやなくなったといっていい」。「メディアも政府も『沈黙』する。知識人も言論人も『ものが言えなくなる』。これが外国人流入問題の最も深刻な最終シーンである。外国人を労働力として迎えるという麻薬に手を出した国の道の先にあるのは、民族の死である」と西尾氏は述べている。
わが国は、今回の入管法改正で、来年4月から外国人労働者の受け入れを拡大することが決まったところだが、マスメディアの多くは、この政策が日本を実質的な移民国家に替える危険性があることを、ほとんど述べようとしない。西尾氏は、言う。「一般に移民問題はタブーに覆われ、ものが言えなくなるのが一番厄介な点で、すでにして日本のマスメディアの独特な『沈黙』は始まっている」と。
この沈黙の広がりを破るには、われわれ国民が発言していくしかない。
以下は西尾氏の記事の全文。
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●産経新聞 平成30年12月13日
https://special.sankei.com/f/seiron/article/20181213/0001.html
「移民国家宣言」に呆然とする 評論家・西尾幹二
2018.12.13
人口減少という国民的不安を口実にして、世界各国の移民導入のおぞましい失敗例を見て見ぬふりをし、12月8日未明にあっという間に国会で可決成立された出入国管理法の改正(事実上の移民国家宣言)を私は横目に見て、あまりに急だったな、とため息をもらした。言論人としては手の打ちようがない素早さだった。
≪新たな民族対立に耐えられるか≫
私が外国人単純労働力の導入に慎重論を唱え出したのは1987年からだった。拙著『労働鎖国のすすめ』(89年)は版元を替えて4度改版された。初版本の当時は発展途上国の雇用を助けるのは先進国の責務だ、というような甘い暢気(のんき)な感傷語を堂々たる一流の知識人が口にしていた。この流れに反対して、ある県庁の役人が地方議会で私の本を盾にして闘った、と私に言ったことがある。
「先生のこの本をこうして持ってね、表紙を見せながら、牛馬ではなく人間を入れるんですよ。入ったが最後、その人の一生の面倒を日本国家がみるんですよ。外国人を今雇った企業が利益を得ても、健康保険、年金、住宅費、子供の教育費、ときに増加する犯罪への対応はみんな自治体に降りかかってくる。私は絶対反対だ」
この人の証言は、単純労働力の開放をしないとしたわが国の基本政策の堅持に、私の本がそれなりに役割を果たしていたことを物語っていて、私に勇気を与えた。私は発言以来、不当な誹謗(ひぼう)や中傷にさらされていたからである。
外国人は自分の欲望に忠実で、先進国に入ってくるや否や徹底的にそれを利用し、そこで出世し、成功を収めようとする。何代かけてもである。当然、日本人社会とぶつかるが、そのために徒党を組むので、外国人同士-例えば中国人とベトナム人との間-の争いが、日本社会に別の新たな民族問題を引き起こす。その争いに日本の警察は恐らく無力である。
日本国民は被害者でありながら、国際的には一貫して加害者に位置づけられ、自由に自己弁明できない。一般に移民問題はタブーに覆われ、ものが言えなくなるのが一番厄介な点で、すでにして日本のマスメディアの独特な「沈黙」は始まっている。
≪大ざっぱな文化楽天論が支配≫
今回の改正法は国会提出に際し、上限の人数を決めていないとか、すべて官僚による丸投げ風の準備不足が目立ったが、2008年に自民党が移民1千万人受け入れ案というものすごく楽天的なプログラムを提出して、世間をあっと驚かせたことがある(「人材開国!日本型移民政策の提言」同年6月12日付)。中心は中川秀直氏で、主なメンバーは杉浦正健、中村博彦、森喜朗、町村信孝などの諸氏であった。外国人を労働力として何が何でも迎え入れたいという目的がまずあった。
これが昔から変わらない根本動機だが、ものの言い方が変わってきた。昔のように先進国の責務というようなヒューマニズム論ではなく、人口減少の不安を前面に打ち出し、全ての異質の宗教を包容できる日本の伝統文化の強さ、懐の広さを強調するようになった。
日本は「和」を尊ぶ国柄で、宗教的寛容を古代から受け継いでいるから多民族との「共生社会」を形成することは容易である、というようなことを言い出した。今回の改正案に党内が賛同している背景とは、こうした大ざっぱな文化楽天論が共有されているせいではないかと私は考える。
≪歴史の興亡を忘れてはならない≫
しかし歴史の現実からは、こういうことは言えない。日本文化は確かに寛容だが、何でも受け入れるふりをして、結果的に入れないものはまったく入れないという外光遮断型でもある。対決型の異文明に出合うと凹型に反応し、一見受け入れたかにみえるが、相手を括弧にくくって、国内に囲い込んで置き去りにしていくだけである。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、それに韓国儒教などの原理主義は日本に絶対に入らない。中国の儒教も実は入っていない。
「多民族共生社会」や「多文化社会」は世界でも実現したためしのない空論で、元からあった各国の民族文化を壊し、新たな階層分化を引き起こす。日本は少数外国人の固有文化を尊重せよ、と早くも言われ出しているが、彼らが日本文化を拒否していることにはどう手を打ったらよいというのか。
イスラム教徒のモスクは既に数多く建てられ、中国人街区が出現し、朝鮮学校では天皇陛下侮辱の教育が行われている。われわれはそれに今耐えている。寛容は限界に達している。34万人の受け入れ案はあっという間に340万人になるのが欧州各国の先例である。
四季めぐる美しい日本列島に「住民」がいなくなることはない。むしろ人口は増加の一途をたどるだろう。けれども日本人が減ってくる。日本語と日本文化が消えていく。寛容と和の民族性は内ぶところに硬い異物が入れられると弱いのである。世界には繁栄した民族が政策の間違いで消滅した例は無数にある。それが歴史の興亡である。(にしお かんじ)
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西尾氏は言う「多民族共生社会や多文化社会は世界でも実現したためしのない空論で、元からあった各国の民族文化を壊し、新たな階層分化を引き起こす。日本は少数外国人の固有文化を尊重せよ、と早くも言われ出しているが、彼らが日本文化を拒否していることにはどう手を打ったらよいというのか。イスラム教徒のモスクは既に数多く建てられ、中国人街区が出現し、朝鮮学校では天皇陛下侮辱の教育が行われている。われわれはそれに今耐えている。寛容は限界に達している。34万人の受け入れ案はあっという間に340万人になるのが欧州各国の先例である」と。
西尾氏は、ドイツを中心に、ヨーロッパの移民問題を日本に伝え、日本における移民の拡大を警告してきた。早くも1989年には『労働鎖国のすすめ』を刊行し、外国人単純労働力の導入に慎重論を唱えた。また2008年に自民党が「人材開国!日本型移民政策の提言」を出した時には、これに反対する論陣を張った。
私は、拙稿「トッドの移民論と日本の移民問題」で、移民受け入れ1000万人計画を批判した。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09i.htm
(第6章へ)
西尾氏は、2010年には、「WiLL」2010年4月号)で、当時のドイツ事情を伝えた。
「トルコ人問題で苦しんだドイツは、トルコへの帰国者を募り、相当額のお金をつけて故国へ返す政策を計画し、大規模に実行したことがある。しかし、間もなくムダと分かった。帰国させたほぼ同じ人数だけ、たちどころにドイツに新たに入国してくる。同じトルコ人が戻ってくるのではない。ドイツ社会に、トルコ人就労者を必要とする一定数の強い需要が生じてしまったのである」。
外国人労働者を受け入れると、「先進国の社会は、送られてくる労働力のパワーに慣れ、それを頼りにし、次第にそれがなければ成り立たない社会に変わってしまう。先進国の側が外国人をつねに必要とする社会体質になり、その力を勘定に入れなければ国や、都市や、各種の組織が機能しなくなってしまうのである」と。
西尾氏は、このことを次のように表現する。「ドイツは、トルコ人労働者という麻薬に手を出して抜け出せなくなったといっていい。じつはフランスも、オランダも、イギリスも、各国それぞれ様相は違うが、麻薬に手を出したという点では同じだといっていい」と。
人間を麻薬に例えるのは不穏当だが、ここでは西尾氏の表現として引用しておく。
西尾氏によると、ドイツでは国家中枢部分である「教会」と「国防軍」の二つともが、外国人への依存によって左右されるようになっている。「教会」は移民受け入れを推進することで増収を図ることに賛成し、国防軍は外国人なくして成り立たなくなってしまった。
西尾氏は「ドイツの現状は以上のような次第だから、国内で『移民反対』と今さらもうまったく言えなくなり、道を引き返すすべはもはやなくなったといっていい」。「メディアも政府も『沈黙』する。知識人も言論人も『ものが言えなくなる』。これが外国人流入問題の最も深刻な最終シーンである。外国人を労働力として迎えるという麻薬に手を出した国の道の先にあるのは、民族の死である」と西尾氏は述べている。
わが国は、今回の入管法改正で、来年4月から外国人労働者の受け入れを拡大することが決まったところだが、マスメディアの多くは、この政策が日本を実質的な移民国家に替える危険性があることを、ほとんど述べようとしない。西尾氏は、言う。「一般に移民問題はタブーに覆われ、ものが言えなくなるのが一番厄介な点で、すでにして日本のマスメディアの独特な『沈黙』は始まっている」と。
この沈黙の広がりを破るには、われわれ国民が発言していくしかない。
以下は西尾氏の記事の全文。
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●産経新聞 平成30年12月13日
https://special.sankei.com/f/seiron/article/20181213/0001.html
「移民国家宣言」に呆然とする 評論家・西尾幹二
2018.12.13
人口減少という国民的不安を口実にして、世界各国の移民導入のおぞましい失敗例を見て見ぬふりをし、12月8日未明にあっという間に国会で可決成立された出入国管理法の改正(事実上の移民国家宣言)を私は横目に見て、あまりに急だったな、とため息をもらした。言論人としては手の打ちようがない素早さだった。
≪新たな民族対立に耐えられるか≫
私が外国人単純労働力の導入に慎重論を唱え出したのは1987年からだった。拙著『労働鎖国のすすめ』(89年)は版元を替えて4度改版された。初版本の当時は発展途上国の雇用を助けるのは先進国の責務だ、というような甘い暢気(のんき)な感傷語を堂々たる一流の知識人が口にしていた。この流れに反対して、ある県庁の役人が地方議会で私の本を盾にして闘った、と私に言ったことがある。
「先生のこの本をこうして持ってね、表紙を見せながら、牛馬ではなく人間を入れるんですよ。入ったが最後、その人の一生の面倒を日本国家がみるんですよ。外国人を今雇った企業が利益を得ても、健康保険、年金、住宅費、子供の教育費、ときに増加する犯罪への対応はみんな自治体に降りかかってくる。私は絶対反対だ」
この人の証言は、単純労働力の開放をしないとしたわが国の基本政策の堅持に、私の本がそれなりに役割を果たしていたことを物語っていて、私に勇気を与えた。私は発言以来、不当な誹謗(ひぼう)や中傷にさらされていたからである。
外国人は自分の欲望に忠実で、先進国に入ってくるや否や徹底的にそれを利用し、そこで出世し、成功を収めようとする。何代かけてもである。当然、日本人社会とぶつかるが、そのために徒党を組むので、外国人同士-例えば中国人とベトナム人との間-の争いが、日本社会に別の新たな民族問題を引き起こす。その争いに日本の警察は恐らく無力である。
日本国民は被害者でありながら、国際的には一貫して加害者に位置づけられ、自由に自己弁明できない。一般に移民問題はタブーに覆われ、ものが言えなくなるのが一番厄介な点で、すでにして日本のマスメディアの独特な「沈黙」は始まっている。
≪大ざっぱな文化楽天論が支配≫
今回の改正法は国会提出に際し、上限の人数を決めていないとか、すべて官僚による丸投げ風の準備不足が目立ったが、2008年に自民党が移民1千万人受け入れ案というものすごく楽天的なプログラムを提出して、世間をあっと驚かせたことがある(「人材開国!日本型移民政策の提言」同年6月12日付)。中心は中川秀直氏で、主なメンバーは杉浦正健、中村博彦、森喜朗、町村信孝などの諸氏であった。外国人を労働力として何が何でも迎え入れたいという目的がまずあった。
これが昔から変わらない根本動機だが、ものの言い方が変わってきた。昔のように先進国の責務というようなヒューマニズム論ではなく、人口減少の不安を前面に打ち出し、全ての異質の宗教を包容できる日本の伝統文化の強さ、懐の広さを強調するようになった。
日本は「和」を尊ぶ国柄で、宗教的寛容を古代から受け継いでいるから多民族との「共生社会」を形成することは容易である、というようなことを言い出した。今回の改正案に党内が賛同している背景とは、こうした大ざっぱな文化楽天論が共有されているせいではないかと私は考える。
≪歴史の興亡を忘れてはならない≫
しかし歴史の現実からは、こういうことは言えない。日本文化は確かに寛容だが、何でも受け入れるふりをして、結果的に入れないものはまったく入れないという外光遮断型でもある。対決型の異文明に出合うと凹型に反応し、一見受け入れたかにみえるが、相手を括弧にくくって、国内に囲い込んで置き去りにしていくだけである。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、それに韓国儒教などの原理主義は日本に絶対に入らない。中国の儒教も実は入っていない。
「多民族共生社会」や「多文化社会」は世界でも実現したためしのない空論で、元からあった各国の民族文化を壊し、新たな階層分化を引き起こす。日本は少数外国人の固有文化を尊重せよ、と早くも言われ出しているが、彼らが日本文化を拒否していることにはどう手を打ったらよいというのか。
イスラム教徒のモスクは既に数多く建てられ、中国人街区が出現し、朝鮮学校では天皇陛下侮辱の教育が行われている。われわれはそれに今耐えている。寛容は限界に達している。34万人の受け入れ案はあっという間に340万人になるのが欧州各国の先例である。
四季めぐる美しい日本列島に「住民」がいなくなることはない。むしろ人口は増加の一途をたどるだろう。けれども日本人が減ってくる。日本語と日本文化が消えていく。寛容と和の民族性は内ぶところに硬い異物が入れられると弱いのである。世界には繁栄した民族が政策の間違いで消滅した例は無数にある。それが歴史の興亡である。(にしお かんじ)
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やがて文化の対立が始まってしまう。
群馬などベトナム人の犯罪が毎日のように起きている! 地元の人はたまったものではないだろう。
単純労働を入れるとこうなることは予測出来ただろうに。
最近の政府の政策については、下記に書きました。
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/edfaef2bfbdd5c6c314cd509a33c2899
残念ながら、西尾氏が警告したように進みつつあります。