ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

日本の心134~忠義の心で終戦に導く:鈴木貫太郎

2022-06-28 07:59:38 | 日本精神
 戦前、わが国の進路を誤らせた重大な事件の一つが、昭和11年に勃発した2・26事件です。決起したのは、青年将校たちでした。彼らは、「君側の奸」つまり天皇の側近くにいる悪臣を除けば、国が正されると考え、さして計画性もなくクーデターを試みました。多くの国家指導者が襲撃され、首相岡田啓介は即死と報じられて、首相代理も居ない非常事態となりました。
 このとき、昭和天皇は、国家元首として、敢然と自らの意思を明らかにしました。「朕(ちん)が最も信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為である」「すみやかに鎮圧せよ」と天皇は憤りました。
 事件で襲われた重臣のなかに、侍従長の鈴木貫太郎海軍大将がいました。鈴木は昭和4年から8年間、侍従長として天皇に仕えていました。当時鈴木は69歳で、天皇にとって鈴木は親ほども年が離れていました。また鈴木の妻・たかは、天皇が幼少の時、養育係を約10年間、務めたことがありました。それゆえ、天皇は鈴木夫妻を親代わりのように、篤く信頼していたのです。反乱軍は、こうした鈴木を襲ったのでした。
 鈴木は頭部や胸部などに4発の銃弾を撃ち込まれました。しかし、九死に一生を得ました。襲撃部隊の安藤輝三大尉が、部下がとどめを刺そうとしたのを制したからです。安藤は一度鈴木に会ったことがあり、鈴木の話を聞いて「西郷隆盛のように腹の大きい人物だ」と敬意を抱いていました。このことにより、鈴木は一命を取り留めました。
 結局、このクーデターは失敗に終わりました。しかし、陸軍中枢部には、青年将校たちの国家改造の思想に共鳴する勢力があり、この事件をきっかけに国の実権を握るようになっていきます。そして、陸軍は中国共産党の挑発に乗り、大陸で戦争を始めました。政府はこれを追認するばかりで、政治によるコントロールが効かなくなり、戦線が拡大されていきました。そして、わが国は大陸問題を解決できないまま、昭和16年(1941)12月8日、遂に米英との戦いを始めてしまいます。戦争が長引くに従い、敗色は濃厚になる一方でした。
 この戦争を収めるために、鈴木貫太郎は重要な役割をすることになります。もともと鈴木は日独伊三国軍事同盟に反対し、対米英戦争にも反対でした。この点で、鈴木は、同じ海軍の岡田啓介・米内光政・山本五十六・井上成美らと意見をともにしていました。なかでも岡田啓介元首相は、鈴木と同じく、2・26事件において、不思議な形で助かった人物でした。そして、岡田と鈴木という、ともに2・26事件を生き延びた者が、この事件以後に国の実権を握った軍閥と、対決することになるのです。不思議な因縁といえましょう。
 開戦後、岡田・米内らは、密かに戦争終結の道を模索していました。しかし、あくまで戦争を継続しようとする強硬派に、動きを悟られてはなりません。弾圧か暗殺されることは必至です。表向きはあくまで戦争貫徹というふりをしていなければなりません。いかに彼らを欺きつつ、戦争終結への動きを進めるか。ここに命がけの苦心があります。失敗すれば、同じ日本人が戦争継続派と戦争終結派に分かれて戦う事態とになりかねません。イタリアのような、同民族が相撃つ悲劇の二の舞は避けねばなりません。岡田らは思案の末、戦争終結の大役を担えるのは、この男しかいないと、鈴木貫太郎に白羽の矢が立ちました。
 昭和20年4月5日、鈴木は重臣会議の決定に基づき、昭和天皇から組閣の大命を受けました。79歳でした。
 天皇は「どうだ、やってくれるな」と鈴木に言いました。天皇は戦争の早期終結を願っていました。そして、鈴木にこの難事を委ねようというお考えなのです。鈴木はそれまで、軍人は政治に関与するなという明治天皇の勅諭を頑なに守って来ました。「なにとぞ、この儀ばかりは……」と口ごもりながら固辞すると、天皇は微笑を漏らして、言葉をさえぎって申されました。「お前の気持ちは、よく分かっている。しかし、今この危急の時にあたって、もう他に人はいないのだ。頼むから、どうかまげて承知してもらいたい」と言いました。そこまでの言葉を受けた鈴木は、この大任を全うしようと自らに誓いました。
 鈴木の就任間もない4月12日、ルーズベルト米大統領が急死しました。鈴木は、感想を聞きに来た記者に、「偉大な指導者を失ったアメリカ国民に、深甚なる弔意を申し述べる」と語りました。この談話は、同盟通信の英語放送を通じて、海外に流されました。鈴木の言葉は、心あるアメリカ人の胸に響きました。しかし、ドイツ首脳は鈴木の談話に反感を持ちました。このことがわが国に伝わると、陸軍の若手幕僚たちが、血相を変えて総理官邸に押しかけてきました。しかし、鈴木は彼らに淡々と応じました。
 「死んだ敵将に敬意を捧げるのは、日本古来の武士道である。軍人たる諸君が、武士道を否定してどうするか」
 武士道には、「敵を愛す」という精神があります。日本人の心根の美しさを表わすものです。鈴木と対照的に、ヒトラーは「運命は歴史上最大の戦争犯罪人ルーズベルトをこの地上より遠ざけた」という声明を発表しました。日本とナチス・ドイツは軍事同盟を結んでいたとはいえ、その精神には対照的な違いがあったのです。
 当時アメリカに亡命していたドイツの作家・トーマス・マンは、「ドイツではみな万歳、万歳と叫んでいるのに、日本の首相は敵の大統領の死を悼む弔電を送ってきた。やはり日本はサムライの国だ」と賞賛の言葉を送っています。
 劣勢著しい中にあっても、堂々と日本精神を発揮し、敵国民に礼儀を尽くした鈴木貫太郎。この古武士のような人物によって、わが国は国土の破壊、民族の滅亡を免れることになるのです。
 昭和20年(1945)7月26日、連合国はわが国に降伏を求め、ポツダム宣言を発表しました。日本政府は、国体が護持されるか否かを懸念し、宣言を受諾すべきか決めかねていました。そこに、8月6日、広島に原爆が投下されました。さらに、9日未明には、ソ連が日ソ中立条約を無視して、突如宣戦布告をし、満州・樺太になだれ込んできました。後ろから袈裟懸(けさが)けに切りつけてくるような卑劣なやり方です。
 8月9日午後11時30分、御前会議が始まりました。会議の参加者は、鈴木貫太郎首相以下の最高戦争指導会議のメンバーと平沼枢密院議長らでした。終戦工作を進めてきた岡田啓介元首相と海軍大臣の米内光政は、会議を前に、鈴木に天皇の裁断を仰ぐよう進言していました。
 会議が始まると、東郷外相は「天皇の国法上の地位を変更しない」という了解のもとにポツダム宣言を受諾するという案を主張しました。米内海相は当然、これに賛成しました。阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長の3名は、徹底抗戦を主張しました。戦争終結論が2名、徹底抗戦論が3名です。平沼の態度はあいまいでした。議論は平行線のまま、結論が出ませんでした。議長である鈴木には、決定権はありません。きわどい多数決で受諾案を通してしまえば、陸軍は猛反発し、クーデターは必至となるでしょう。鈴木はここで、老熟の英知を働かせました。
 既に午前2時を回っていました。おもむろに鈴木が立ち上がり、語りだしました。「既に長時間にわたり、議論を重ねてまいりました。かくなる上は、まことにもって畏れ多い極みではありますが、陛下の思し召しをうかがい、聖慮をもって、本会議の決定と致したく思います」。そう述べると、鈴木は天皇の方に向きを変えました。徹底抗戦派の阿南が「総理……」と小さな声を発しました。しかし、高齢の鈴木は耳が遠くて聞こえないのか、それとも聞こえないふりをしているのか、そのまま、天皇の前に進み、最敬礼をしました。
 天皇は鈴木に自席に戻るように言い、鈴木が自席に戻ると、天皇は、語り出しました。「もう意見は出尽くしたか。それならば、私の意見を言おう。私は外務大臣の申しているところに同意である。……これ以上、戦争を続けても国民を苦しみに陥れるばかりである。……今日は忍び難いものを忍ばねばならない時と思う」と。国政上、天皇が自身の判断を示いたのは、異例のことでした。この時の模様は、岡田元首相の右腕であった内閣書記官長・迫水久常が詳細に伝えています。
 天皇の意向を受けた鈴木は、すぐに首相官邸に引き返しました。ここからの手続きが遅れれば、徹底抗戦派に妨害をされかねません。老練な鈴木に手ぬかりはありませんでした。鈴木は前もって待機させてあった閣僚たちを招集し、閣議を行いました。そして、10日の午前4時、ポツダム宣言の受諾が閣議で承認され、正式の国政方針となりました。
 長い一日が終わりました。家に戻った鈴木は、長男の一(はじめ)に次のように語ったといいます。
 「国が敗北することと、滅亡することとは違うのだ。その民族に活力さえあれば、荒廃した国土を再建して、立ち直ることもできる。……日本国民は戦争に負けた経験がないから、戦後は大変な混乱に陥るだろうが、わが民族は優秀な素質を持っておる。必ず日本を復興してくれるだろう」
 日本は連合国に宣言受諾の意思を伝えました。これに対する連合国の回答は、国体護持に明確な保証を与えるものではありませんでした。13日の閣議で阿南陸相は受諾絶対反対を唱えました。鈴木は、再度の御前会議招集を決定しました。「もう二日だけ待ってほしい」との阿南陸相の要望を、鈴木は毅然として断りました。鈴木は次のように語りました。「今を外したら、ソ連が満州、朝鮮、樺太ばかりでなく、北海道にも攻め込んでくるだろう。ドイツ同様に分割されれば、日本の土台が壊れてしまう。相手がアメリカであるうちに、始末をつけねばならんのです」
 8月14日午前10時50分、二度目の御前会議が開かれました。鈴木は宣言受諾反対の者だけに、天皇に意見を陳述する機会を与えました。その後、天皇が静かに口を開きました。「国体問題についていろいろ疑義もあるということであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。……自分は如何になろうとも、万民の生命を助けたい。…この際、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力、将来の回復に立ち直りたいと思う……」
 これが最終的な決定となりました。天皇の発言をもとに終戦の詔書が作られ、翌8月15日、天皇がラジオで国民に直接呼びかけるという玉音放送がなされました。強硬派の多い陸軍も、阿南陸相が「承詔必謹」の方針を打ち出し、静かに矛を納めました。
 かくして鈴木首相の、天皇の意向に忠実にそおうとする至誠の行動によって、わが国は破壊滅亡の淵から救われ、無事終戦を迎えることができたのです。
 戦後、わが国は敗戦の痛手から立ち上がり、復興の道を力強く歩みだしました。その3年後、昭和23年4月、鈴木貫太郎は、そんな日本を見守りながら、81年の生涯を閉じました。
 平和を願い国民を救おうとした天皇と、天皇の御心に応えようと献身した先人たち。そこに、日本人の精神の精華があり、テロや独断専横に走った軍部の行動は、天皇の御心に反し、日本の国柄に背いたものだったのです。私たちは、先人たちの努力に感謝するとともに、先人が子孫にたくした、この日本という国の重みと尊さを、かみしめたいと思うのです。

参考資料
・『鈴木貫太郎自伝』(日本図書センター)
・立石優著『鈴木貫太郎』(PHP文庫)

■追記
 日独伊三国同盟の締結、米英との開戦に反対し、厳正中立・不戦必勝の大策を時の指導層に建言した大塚寛一先生の建白書の歴史的な意義を正しく評価するには、宇垣一成、岡田啓介、迫水久常、米内光政らの動きをしっかりとらえる必要があると先日書きました。
 鈴木貫太郎が老齢で首相となり、最後の御前会議で叡智を働かせて、昭和天皇から終戦の御聖断を拝したことは、広く知られていますが、彼の救国の行動の背後には、岡田、迫水、米内らがいました。だが、そのことに焦点を合わせて昭和史の深層を本格的に研究している歴史家、昭和史研究者は、まだいないようです。そのため、大塚寛一先生の建白書の歴史的な意義が未だ正しく評価されていないのは、大変残念なことです。

 次回に続く。

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