ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権262~人権についての文明間の違い

2016-02-04 08:56:16 | 人権
●人権についての文明間の違い

 ここで人権の発達史について、文明学的な観点から補足したい。
 人権といわれるものは、主に「国民の権利」であり、人々の権利を保障する主体は、国家である。国家は、多くの場合、単独で存在するのでなく、より大きな文明という広域社会の中に存在する。ひとつの文明には大概、複数の国家が並存している。同じ文明の中にある国家間では、共通の文化要素が多く、相互理解・相互協力がしやすい。しかし、異なる文明の間では、相互理解・相互協力が難しい。『文明の衝突』の著者サミュエル・ハンチントンによると、冷戦終焉後の世界には、系統の違う主要文明が7つ存在する。キリスト教的カソリシズムとプロテスタンティズムを基礎とする西洋文明(西欧・北米)、東方正教文明(ロシア・東欧)、イスラーム文明、ヒンズー文明、儒教を要素とするシナ文明、日本文明、カトリックと土着文化を基礎とするラテン・アメリカ文明である。これに今後の可能性のあるものとして、アフリカ文明(サハラ南部)を加えると、8となる。
 これらの文明は基本的な世界観を異にしている。国連には、これらすべての文明の大多数の国家が参加してはいるが、文明の違いにより、加盟国の間で人権のとらえ方に相違がある。人権は「憲章」や「宣言」に定められ、その思想は世界規模で普及しつつある。しかし、未だ真の共通理解に至っているとはいえない。
 人権の思想は、近代西洋文明において形成されたものである。そこには、西洋文明の烙印が押されている。西洋文明の文化的伝統に立てば、他の文明の国々が、人権を制約しているように見えたとしても、これを解決する手段は人権の概念の中には存在しない。西洋文明と他の文明は、基本的な人間観が違うからである。この相違の根底にあるのは、宗教観の違いである。現代世界の主要文明は、それぞれ精神的中核として、異なる宗教または宗教的伝統文化を持っている。そして、この宗教または宗教的伝統文化の違いが、それぞれの価値観、人間観の違いに現れる。西洋文明は、この違いを近代西洋思想的な論理によって排除し、自らの文明の規範を押し付けようとしている。そこに軋轢が生じる。

●キリスト教文明群と非キリスト教文明群の違い

 ハンチントンは、8つの主要文明を単に並列的に見たが、私はそれらをキリスト教文明群と非キリスト教文明群、セム系一神教文明群と非セム系一神教文明群と分ける。前者の分け方はキリスト教文明か否かという区分だが、後者の分け方の場合、ユダヤ教、イスラーム教はセム系一神教文明群に入る。ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の文明を一つの文明群とみるものである。
 近代西欧から世界に広がった人権の概念の基礎にあるのは、キリスト教である。キリスト教における神は、もともとユダヤ民族の神(ヤーウェ)である。この神は、ユダヤ民族の始祖アブラハムと契約を結び、ユダヤ民族を選民とした。こうした民族性の強い神に、人権の根拠が求められている。近代西欧においては、この神が人格神から非人格神、さらに法則・理法へと解釈が拡大されてきた。「憲章」と「宣言」には、こうしたキリスト教とそれに基づく啓蒙思想が色濃く反映している。
 キリスト教を抜きにしては、現代の人権の思想は成り立たない。キリスト教では、人間は神(ゴッド)が神に似せて創造したものであり、人間は神の下では平等と考えた。それゆえ、人権は、神から平等に与えられた「人間の権利」であるという考えが出てくる。人間の尊厳は、神の被造物であることに淵源する。神が偉大であるゆえに、神が創造した人間も尊厳を持つ。だが、キリスト教の神という後ろ盾を排除すれば、人間の尊厳の根拠はなくなってしまう。また人権の思想は、キリスト教以外の宗教や哲学・世界観を持つ国民・民族にとって、理解し難い要素がある。もともとキリスト教を信じない者にとっては、人間は神(ヤーウェ)の被造物だとする考えは受け入れられない。アダムもアブラハムも、自分たちの先祖ではない。それゆえ、人権の普遍性とは、未だ見せかけの普遍性に過ぎない。人権と呼ばれる権利の根拠として、キリスト教文明群以外の文明にも普遍的に認められる世界観や人間観は、いまだ確立されてはいないのである。

 次回に続く。

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