ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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日本の心77~幕末の国民統合は皇室の存在による

2022-03-09 09:45:58 | 日本精神
 徳川幕府は当初、朝廷に制約を課す政策を採っていましたが、その後、朝廷を重んじる方針に転換しています。
 家綱から5代綱吉の時期にかけて、勅使派遣を伴う石清水八幡宮の放生会など、一連の朝廷儀式が幕府の経済的援助によって復興されました。元禄7年(1694)には,応仁の乱以降中絶していた勅使が賀茂神社へ派遣される祭りが復興されました。それが京都の葵祭です。また、朝廷の強い要望を受けて、貞享4年(1687)東山天皇の即位時に大嘗祭も再興されました。大嘗祭は、皇室行事の中で最も重要な儀式です。徳川幕府は禁裏御料1万石を加増し、荒廃した山陵を修理するなどしました。6代将軍家宣の時代には、新宮家・閑院宮家が設立されました。この新宮家は新井白石の建議によって、宝永7年(1710)に創設が決定されました。朝幕の協調関係の中で生まれた出来事です。
 江戸時代の京都の皇室は、中級程度の大名の実力しかありませんでした。経済的にはすべてを合わせても12万5千石程度にすぎません。けれどもそれは百万石の大名よりも、八百石の幕府よりも強大な精神的権威を持っていたのです。この天皇の権威は徳川時代を通じて不可欠なものとして存続していました。
 江戸時代には、日本の歴史や政治について見識のある者であれば、日本国の君主が天皇であることを認めない者はありませんでした。幕府の御用学説でもその点は、明白に認めていました。学者だけではなく、歌舞伎の作者でも、俳句の作者でも、軍談講釈師でも、日本国は神の国であり、神孫である天皇が君たるべき国だと信じていて、いささかも疑いませんでした。それは一部勤皇的な思想家や学者の説を待つまでもなく、日本全国いかなる地方でも認められ、信じられていた通念でした。
 そして、幕府は、国民全体に浸透している天皇への崇敬心を利用し、天皇の精神的権威に依存して、自らの地位を強めようとしたのです。将軍は、天皇により信任され、将軍に任命(宣下)された者であることを誇示することによって、天下に権勢を張ることに努めたのです。将軍ばかりでなく、大名・旗本等は朝廷から官位を受けました。それは律令制度の位・役職です。大岡越前守等もそれです。こうした武家の官位の授与や、東照大権現といった幕府の祖神の形成にいたるまで、武家政治の正統性に関わる重要な箇所にすべて朝廷が関与していました。
 江戸時代の儒者や国学者などにとって、幕府と朝廷、将軍と天皇の関係をどのように規定するかは、重要な課題でした。新井白石や荻生徂徠らは、幕府・将軍の支配を正統化することに腐心し、本居宣長は、朝廷が幕府に政権を委任したとする大政委任論の立場に立ちました。この大政委任論は、幕府の老中・松平定信が11代将軍家斉のために書いた『御心得之箇条』の中でも表明されています。定信は天明7年(1787)に老中首座、翌年将軍補佐となって幕政改革を主導しました。その一方で、山崎闇斎と彼の学派、『大日本史』編纂の中で生まれた水戸学などのさまざまな尊王論が存在しました。
 幕府は、京都の公家たちの間に尊王論を講じた竹内式部や、江戸で塾を開いて尊王斥覇を説いた山県大弐を、それぞれ重追放、死罪に処しています。これらは、尊王論に朝廷や藩内部の対立などが絡むことによって浮上した事件でした。宝暦・明和のことです。
 こうした尊王論は、外圧の危機に直面する過程で,後期水戸学や国学を信奉する人びとを中心として、尊王攘夷論へと展開していきました。
 なかでも会沢安は、文政7年(1824)水戸藩内大津浜へイギリス人が上陸した事件に携わって危機意識を深め、翌8年民心統合を実現する方策として「尊王」と「攘夷」を論じる『新論』を脱稿しました。この書物は,写本の形で広く流布し,その後の尊王攘夷運動に思想的影響を与えていきます。
 明和7年(1770)から安永9年(1780)にかけて、日本に住み日本の事情を著述した、長崎のオランダ商館長ティッチングの著書では、日本の統治者君主が天皇であり、将軍は天皇に隷属する一役人にすぎないことを明記しています。それは当時の日本人の社会通念を反映したものです。このような社会通念を前提としなければ、黒船来航以後、明治維新へいたる政治思想、政局の推移は理解できないのです。
 日本に通商条約を迫ったアメリカのハリスの『日本滞在記』によると、幕府の外交政策を支持しているのは、18の雄藩のうち4藩のみでした。中小の藩でも、わずか3割のみです。こう説明する井上信濃守は、勅許がありさえすれば、不服を固執し得る藩は、ただの一藩もない、強大な反対派も直ちに沈黙する、と切言しています。 
 封建的各藩に分立している日本人の間に、共通して浸透している意識は、天皇を中心とした意識あるのみです。あらゆる封建的藩意識の鉄壁を越えて、日本人を一つに統合しうるものは、天皇への崇敬心あるのみでした。徳川幕府は、ここで根本的に体質を改善して、天皇の意思に基づく政府となることによってのみ、全国を団結せしめて、外力に対抗し得る統一国家の政府となり得るのです。こうした考え方が安政時代の尊皇攘夷の思想であり、維新の理念でした。

参考資料
・葦津珍彦著『明治維新と東洋の解放』(皇學館大学出版部)

 次回に続く。

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