ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権11~世界人権宣言の人間観

2012-09-15 09:24:49 | 人権
●世界人権宣言の人間観

 私は、人権を「発達する人間的な権利」と定義し、普遍的・生得的な権利とされてきたものは、そうありたい、そうあるべきという理想であり、目標であると位置づける。こうした整理に立って、人権を基礎づけ直すに当たり、まず今日世界で広く受け入れられている世界人権宣言の人間観を検討したい。以下の訳は日本国外務省の仮訳文による。
 世界人権宣言にいう人間とは、どのような人間か。言い換えると、どのような人間観に立った人間だろうか。「宣言」の前文には、次のようにある。
 「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利(the inherent dignity and of the equal and inalienable rights of all members of the human family)とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので ……」
 ここに「人類社会」と訳されているのは、the human family という英語である。family は、「社会」ではなく「家族」である。それゆえ、the human family は「人類家族」と訳すべきものである。また、「人類社会のすべての構成員」とは「人類家族のすべての構成員」を意味する。私は本稿の人間論で家族の重要性を述べており、その立場から「人類家族」という文言に注目する。アメリカ独立宣言やフランス人権宣言では、社会を抽象的な個人の集合ととらえているが、世界人権宣言は、社会を「家族」にたとえている。「宣言」には、人類は一つの家族であるという思想があるのである。そのことを私は強調したい。
 では、「人類家族」の構成員である人間とは、どのような人間であるか。前文に続き第1条に、次のようにある。
 「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心(reason and conscience)とを授けられており、互いに同胞の精神(a spirit of brotherhood)をもって行動しなければならない。」
 この条文の冒頭に、人間は「生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」という文言がある。これは、「宣言」の中の最も有名な一文である。人間は、生来自由であり、平等であるという人間観がここに打ち出されている。近代西洋文明が生み出した人間観である。17世紀のホッブス・ロックが主張し、アメリカ、フランス等の市民革命で発達した人間観が、約300年を経て、世界人権宣言において、非西欧社会に受け入れられるものとなったのである。ただし、少し考えてみれば、誰でも分かるように、実際は人間には生まれながらにさまざまな不自由があり、また決して平等ではない。「宣言」がいうのは、事実ではなく理想であり、そうありたいという目標である。理想・目標を述べる主張にすぎない。
 次に、第1条は、人間は「理性と良心」を授けられているという。理性とは reason、良心とは conscience の訳語である。これらもまた、近代西洋文明の人間観に基づく認識である。フランス人権宣言では、人間の理性が強調されたが、世界人権宣言では、理性という知的能力だけでなく、良心という道徳的能力が併記されている。これは後に述べる人格の概念につながっていく。
 次に、注目したいのは、「同胞の精神(a spirit of brotherhood)」という言葉である。先に前文に「人類家族」と訳すべき言葉があることを指摘した。「同胞」は人類を家族に例える考え方によるものである。同胞とは本来、共通の親を持つ兄弟姉妹のことをいう。「宣言」は、人類は家族であり、同胞愛をもって行動すべきだというのである。
 次に、注目すべきこととして、「宣言」は人類家族の構成員について、「個人」の意味で individual (原義は不可分なもの)という言葉を使っていない。「宣言」において、個人にあたるのは、a person である。そして、人間は、人間としての尊厳を持ち、各個人が「人格」(personality)を持つ存在だとしている。ここにいう人格とは、理性と良心を持つものと考えられる。この点に関して、第22条に次のように記されている。
 「すべて人は、……自己の尊厳と自己の人格の自由な発展(the free development of his personality)とに欠くことのできない経済的、社会的及び文化的権利を実現する権利を有する」
 また第26条2項に、次のように記されている。
 「教育は、人格の完全な発展(the full development of the human personality)並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。……」
 ここには、人格は発展するものであり、自由かつ完全に発展すべきであるという思想が表れている。また、人格の発展のために必要なものが教育であり、教育は人格の完全な発展を目的の一つとすべきだという認識が示されている。
 以上見てきた条文に、世界人権宣言の人間観が概ね表現されている、と私は思う。「宣言」の人間観の主要な要素は、人類家族、自由、平等、理性、良心、同胞精神、人格とその発展可能性である。そして、「宣言」は、人間は経済的、社会的及び文化的な権利を実現する権利を持ち、それらを条件として、自己の尊厳を保ち、人格的発展を追求する権利を持つとしている。これは、人格の存在とその成長可能性を認める近代西洋の思想を背景にした考え方である。
 「宣言」はこのように、個人の人格の発展を重要視する。だが、その個人が「人類家族の構成員」であり、その家族の一員として人格的に成長し、発展することを強調していない。また、「宣言」は、親子・夫婦・祖孫等による実際の家族の重要性には、あまり具体的に触れていない。私の見方では、家族は、生命を共有し、精神的なつながりを持つ集団である。個々の人間を「人類家族」の構成員とするならば、個人個人の生命と人格は、人類が家族的に共有する生命・精神の一部と位置づけることができる。そして、個々の人格的発展は、「人類家族」の幸福や繁栄に貢献するものであることが期待される。しかし、「宣言」は、この方向に考察を進めていない。「宣言」は、生命に基づく具体的な家族的人間関係に、立ち入ろうとしていない。同時にそうした家族の巨大な集合体である人類家族についても、具体的に生命的・歴史的に考察していない。一定の人間観を表しながら、その依って立つ根拠を示さず、またそこから展開し得るものを秘めた状態に止まっているのである。
 それゆえ、私は、世界人権宣言における人間観は、人間に関する考察が不十分であると考える。人権を基礎づけ直すには、この点の検討が必要である。

 次回に続く。

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