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ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

日本の心141~国民を思った終戦の御聖断:昭和天皇4

2022-07-13 17:31:22 | 日本精神
 大東亜戦争は、昭和天皇の決断によって終結しました。時の首相は鈴木貫太郎海軍大将、内閣書記官長(現在の内閣官房長官)は、迫水久常(さこみず・ひさつね)でした。迫水は、戦後参議院議員となり、郵政大臣、経済企画庁長官などを歴任した人物です。
 迫水は、岡田啓介元首相の女婿でした。迫水は、岡田の指示を受けながら、東条政権打倒に尽力しました。鈴木内閣では、書記官長として、終戦のための手続きや段取りのすべてを取りしまっていました。
 迫水は、昭和天皇が終戦の決断をした昭和20年8月9日の御前会議のことを、次のように回想しています。
 「その日の真夜中、宮中の防空壕の中、天皇陛下の御前で戦争を終結させるか否かに関する、最後の御前会議が開かれました。…そのとき、私は一番末席を占めさせていただいておりました。
 会議の席上、戦争を終結させるか否かについて、いろいろな論議がございました。が、最後に鈴木総理大臣が立って、天皇陛下に『陛下の思召しをうかがわせて下さいませ』とお願い申し上げたのでございます。
 天皇陛下は『それでは自分の意見を述べるが、みなの者は自分の意見に賛成してほしい』と仰せられました。時に昭和20年8月10日午前2時ごろのことでした。
 陛下は、体を少し前にお乗り出しになられまして『自分の考えは、先ほどの東郷外務大臣の意見と同様に、この戦争を無条件に終結することに賛成である』と仰せられたのであります。
 その瞬間、私は胸が締めつけられるようになって、両方の目から涙がほとばしり出て、机の上に置いた書類が雨のような跡を残したことを今でも覚えております。部屋は、たちまちのうちに号泣する声に満ちました。私も声をあげて泣いたのでございます。
 しかし、私は会議の進行係でございましたので、もし天皇陛下のお言葉がそれで終わるならば、会議を次の段階に移さなければならないと考えまして、ひそかに涙に曇った目をもって天皇陛下の方を拝しますと、陛下はじっと斜め上の方を、お見つめになっていらっしゃいました。そして白い手袋をおはめになった御手の親指を、眼鏡の裏にお入れになって、何回となく眼鏡の曇りをおぬぐいあそばされておられました。やがて白い手袋をおはめになった御手で、両頬をおぬぐいになりました。
 陛下御自身お泣き遊ばされていることを拝しました参列者一同、身も世もあらぬ気持でその時ひれ伏し泣くほかなかったのでございます。
 陛下は思いがけなくも『念のために理由を言っておく』とお言葉を続けられました。 
 『自分の務めは、先祖から受けついで来た日本という国を、子孫に伝えることである。もし本土で戦争が始まって、本土決戦ということになったならば、日本国民はほとんど全部、死んでしまうだろう。そうすればこの日本の国を子孫に伝える方法はなくなってしまう。それゆえ、まことに耐えがたいことであり、忍びがたいことであるが、この戦争を止めようと思う。ここにいる皆のものは、その場合、自分がどうなるであろうと心配してくれるであろうが、自分はいかようになっても、ひとつもかまわない。この戦争を止めて、国民を一人でも多く救いたいという自分の意見に賛成してほしい』という主旨のことを、たどたどしく、途切れ途切れに、ほんとうに胸からしぼり出すようにして陛下は述べられたのであります。
 かくして、大東亜戦争は終わりました。…すなわち大東亜戦争が終わったのは、天皇陛下が御自身の身命をお犠牲になさいまして、日本の国民を救い、日本国をお救いになられたのであります」(註)
 終戦の御聖断は、憲法に定められた立憲君主の立場を超えたものでした。それは「民の父母」として、国民を救いたいという願いからの決断でした。もしこの時、天皇が終戦を決断しなければ、戦争はさらに悲惨な展開を遂げ、わが国は回復不可能な結果に陥ったでしょう。
 今日、私たち日本人があるのは、国民を思って終戦を決めた昭和天皇の御聖断によっていることを、忘れてはならないのです。


・迫水久常の講演記録(昭和44年1月7日、東京・日比谷公会堂、
 日本精神復興促進会発行『明けゆく世界 第6集』より

 次回に続く。

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 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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日本の心140~開戦を止め得なかったのは:昭和天皇3

2022-07-11 08:26:05 | 日本精神
 昭和天皇は、三国同盟に反対し、米英との戦争を憂慮するなど、的確な洞察を示していました。それにもかかわらず、どうして天皇は開戦を止められなかったのでしょうか。
 昭和16年9月6日の御前会議で、「戦争第一、交渉第ニ」の方針が決まりましたが、天皇は戦争に反対の意思を暗示しました。天皇は会議の結果を白紙に還元し、交渉を第一として極力努力することを期待したのです。ところが近衛は政権を投げ出し、後任の東条は開戦の道を進んだため、天皇の願いは実現されませんでした。
 「問題の重点は石油だった」と『昭和天皇独白録』で、天皇は語っています。独伊と同盟を結んだことにより、米国は日本への石油等の輸出を禁止しました。石油を止められては、「日本は戦わず亡びる」と天皇は認識していました。天皇は次のように語っています。
 「日米戦争は油で始まり油で終わったようなものであるが、開戦前の日米交渉にもし日独同盟がなかったら、米国は安心して日本に石油をくれたかも知れぬが、同盟のあるために日本に送った油が、ドイツに回送されはせぬかという懸念のために、交渉がまとまらなかったともいえるのではないかと思う」
 「実に石油輸出禁止は日本を窮地に追い込んだものである。かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、戦ったほうが良いという考えが決定的になったのは自然の勢いといわねばならぬ。もしあの時、私が主戦論を抑えたならば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ちながら、むざむざ米国に屈服するというので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタが起こったであろう」と。
 昭和16年11月31日、天皇は高松宮に、開戦すれば「敗けはせぬかと思う」と語りました。高松宮が「それなら今止めてはどうか」とたずねるので、天皇は次のように語ったと言います。「私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ。もし認めなければ、東条は辞職し、大きなクーデタが起こり、かえって滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであろうと思い、戦争を止める事については、返事をしなかった」と。
 同じ趣旨のことを、天皇は繰り返し語っています。「陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時においてすら、降伏に対しクーデタ様のものが起こった位だから、もし開戦の閣議決定に対し私がベトー(拒否)を行ったとしたならば、一体どうなったであろうか。(略)私が若(も)し開戦の決定に対してベトーをしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私は信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それは良いとしても結局、強暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来かねる結末となり、日本は亡びる事になったであろうと思う」と。
 昭和16年12月1日、御前会議で遂に対米英戦争の開戦が決定されました。天皇は「その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も言わなかった」と、『独白録』で語っています。
 なぜ天皇は開戦を止め得なかったか、その答えを天皇自身は上記のように語っているのです。5・15事件、2・26事件では、首相らの重臣が殺傷されました。終戦時にも、玉音放送を阻止しようと一部の兵士が反乱を起こしました。天皇の懸念は切実なものだったことが分かります。
 では、開戦後、早い時期に戦争を終結させることは出来なかったのでしょうか。ここで再び三国同盟が拘わってきます。日本は12月8日、米英と開戦するや3日後の11日に、三国単独不講和確約を結びました。同盟関係にある日独伊は、自国が戦争でどのような状況にあっても、単独では連合国と講和を結ばないという約束です。ここでわが国は、ドイツ、イタリアとまさに一蓮托生(いちれんたくしょう)の道を選んだことになります。昭和天皇は、このことに関し、『独白録』で次のように述べています。
 「三国同盟は15年9月に成立したが、その後16年12月、日米開戦後できた三国単独不講和確約は、結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ」
 「この確約なくば、日本が有利な地歩を占めた機会に、和平の機運を掴(つか)むことがきたかも知れぬ」と。
 なんとわが国は、戦局が有利なうちに外交で講和を図るという手段を、自ら禁じていたのです。ヒトラーの謀略にだまされ、利用されるばかりの愚かな選択でした。ここでも天皇に仕える政治家や軍人が、大きな失策を積み重ね、国の進路を誤ったことが、歴然と浮かび上がってくるのです。

参考資料
・『昭和天皇独白録』(文春文庫)
・山本七平著『昭和天皇の研究』(祥伝社)

 次回に続く。

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日本の心139~独伊との同盟に反対:昭和天皇2

2022-07-09 07:54:48 | 日本精神
 昭和天皇が自ら歩んだ時代を語った書が、『昭和天皇独白録』(文春文庫)です。
 これは戦後、昭和21年3~4月に、昭和天皇が側近に語った言葉の記録です。それを読むと、昭和天皇が歴史の節目の多くの場合に、的確な判断をしていたことに、驚かされます。
 最も重要な事実は、天皇は米英に対する戦争に反対だったことです。しかし、本心は反対であっても、立憲君主である以上、政府の決定を拒否することができません。拒否することは、憲法を無視することになり、専制君主と変わらなくなってしまうからです。そこで、天皇は昭和16年9月6日の御前会議において、自分の意見を述べるのではなく、明治天皇の御製を読み上げたのでした。

 よもの海 みなはらからと 思ふ世に
  など波風の たちさわぐらむ

 これは対米英戦争の開始には反対である、戦争を回避するように、という昭和天皇の間接的な意思表示です。しかし、時の指導層は、この天皇の意思を黙殺して、無謀な戦争に突入したのです。結果は、大敗でした。
 戦後、天皇は『昭和天皇独白録』でこの戦争について、次のように述べています。戦争の原因は「第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している」と。「日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦(また)然(しか)りである」と天皇は、長期的な背景があったことを指摘します。
 昭和天皇はまた、わが国が大東亜戦争に敗れた原因について、自身の見解を明らかにしています。

 「敗戦の原因は四つあると思う。
 第一、兵法の研究が不充分であったこと、即ち孫子の『敵を知り己を知れば、百戦危からず』という根本原理を体得していなかったこと。
 第ニ、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
 第三、陸海軍の不一致。
 第四、常識ある首脳者の存在しなかった事。往年の山県(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛という様な大人物に欠け、政戦両略の不充分の点が多く、且(かつ)軍の首脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、所謂(いわゆる)下克上の状態を招いたこと」

 このように、天皇は敗因を分析しています。的を射ていることばかりです。
 昭和天皇と大東亜戦争との関わりを振り返ってみると、まず日独伊三国軍事同盟をめぐる問題があります。昭和15年9月に、この同盟を締結したことは、わが国が決定的に進路を誤った出来事でした。当時、昭和天皇はヒトラーやムッソリーニと同盟を結ぶことを憂慮し、何度も同盟反対の意向を示していたのでした。
 しかし、三国同盟は強硬に推し進められました。推進の中心には、外務大臣の松岡洋右がいました。松岡は、独ソ不可侵条約と三国同盟を結合することで、日独伊ソの四国協商が可能となり、それによって中国を支援する米英と対決する日本の立場を飛躍的に強めることができるだろう、という構想を持っていました。しかし、松岡の狙いは見事に外れました。これに対し、天皇は『独白録』で当時を振り返り、次のように語っています。
 「同盟論者の趣旨は、ソ連を抱きこんで、日独伊ソの同盟を以て英米に対抗し以て日本の対米発言権を有力ならしめんとするにあるが、一方独乙の方から云はすれば、以て米国の対独参戦を牽制防止せんとするにあったのである」と。
 天皇の方が、外交の専門家である松岡よりも、相手国の意図をよほど深く洞察していたことがわかります。
 三国同盟が締結された当時、天皇は、時の首相近衛文麿に対して、次のように問い掛けていました。
 「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」
 天皇は、独伊のようなファシスト国家と結ぶことは、米英両国を敵に回すことになり、わが国にとって甚だ危険なものだと見抜いていたのです。また、近衛首相に対して、次のようにも言っていたのでした。
 「この条約のために、アメリカは日本に対して、すぐにも石油やくず鉄の輸出を停止してくるかもしれない。そうなったら日本はどうなるか。この後、長年月にわたって、大変な苦境と暗黒のうちに置かれるかもしれない」と。
 実際、日独伊三国同盟の締結で、アメリカの対日姿勢は強硬となり、石油等の輸出が止められ、窮地に立った日本は戦争へ追い込まれていきました。同盟が引き起こす結果について、昭和天皇は実に明晰(めいせき)に予測していたことがわかります。この天皇の予見は不幸にして的中してしまったのです。当時の指導層が、もっと天皇の意向に沿う努力をしていたなら、日本の進路は変わっていたでしょう。
 『昭和天皇独白録』は、その他の事柄に関しても、天皇自身による貴重な証言に満ちています。

参考資料
・『昭和天皇独白録』(文春文庫)

 次回に続く。

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日本の心138~「民の父母」たらんとして:昭和天皇1

2022-07-07 08:11:02 | 日本精神
 わが国には、天皇と国民が親子のような家族的な感情で結ばれてきたという伝統があります。国民は天皇を親のように慕い、天皇は国民を我が子のように慈しむ。天皇は、国民を「大御宝(おおみたから)」と呼んで大切にし、「民の父母」たらんとして国民に仁愛を注ぐ。こうした伝統を最も良く体現していたのが、昭和天皇でした。
 昭和は、日本が戦争と平和、困苦と繁栄を体験した、空前の一時代でした。天皇の在位も63年間という記録的な長さに及びました。その間、昭和天皇は、国民と苦しみと喜びを共にしました。国の中心・象徴として、いやそれ以上に「民の父母」たらんとして。
 昭和天皇は、祖父である明治天皇が発した「五箇条の御誓文」と帝国憲法を、自らの規範としました。そして、そこに示された、近代的な立憲君主としての役割を、頑ななほど誠実に果たそうとしました。しかし、その根底には、伝統的な「民の父母」としての役割を担おうとする強い意志がありました。一人の青年天皇が、1億の国民に対し、親のような心を持とうと努めたのです。
 昭和の初めの日本は、世界的な経済危機、国際関係の緊張、共産主義の脅威にさらされていました。常に平和を希求していた天皇は、軍部の独断専横を戒め、とりわけ日独伊三国同盟の締結には、反対でした。しかし、立憲君主として、憲法を超えて自己の意思を表すわけにはいきません。天皇は最後まで戦争を望みませんでしたが、わが国と米英との関係は悪化を続け、わが国は遂に未曾有の戦争に突入しました。それはわが国にとってかつてない苦難の体験でした。
 昭和20年8月、敗色が濃くなるなか、御前会議で、天皇は終戦を決断しました。その「御聖断」は、帝国憲法に定められた立憲君主としての役割を逸脱する行為でした。しかし、国家存亡の危機にあって、天皇は、国民の生命を救済しようとしたのでした。それは「民の父母」として責任を果たそうとする天皇の決断でした。
 8月10日、日本はポツダム宣言の受諾を連合国に通告しました。12日に米国から回答が届きました。そこには、「日本政府の形態は、日本国民の自由意思により決定されるべき」という一文がありました。軍部は天皇制を廃止し、共和制に誘導しようという狙いがあると強く反対しました。しかし天皇は次のように言いました。
 「それで少しも差し支えないではないか。たとい連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意思によって決めてもらって少しも差し支えないと思う」(「木戸幸一関係文書ーー日記に関する覚書」)
 連合国が日本を占領・統治すると、昭和天皇は、マッカーサーに自ら会見し、国民の救済を懇請しました。「自分はどうなってもかまわないから、国民を救ってもらいたい」と述べて、元帥を感動させました。また側近の反対を押して、全国を巡幸しました。天皇の訪問、その姿と言葉は、敗戦に打ちひしがれた国民に生きる希望をもたらしました。こうした天皇の行動は、「民の父母」としての自覚にもとづくものでした。  
 昭和天皇は、昭和21年1月、一般に「人間宣言」と称される「新日本建設に関する詔書」を発しました。昭和52年8月23日、天皇は、その詔書の真意について記者団に述べました。
 「民主主義を採用したのは、明治大帝が思召しである。しかも神に誓われた。そうして『五箇条御誓文』を発して、それがもとになって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないことを示す必要が大いにあったと思います」
 ここにいう「民主主義」とは、民を大切にする、民の幸福を政治の根本におくという意味でしょう。これは、神武天皇が国民を「大御宝」と呼び、その後の天皇が国民に「仁愛」を注いできた伝統に根ざすものです。明治天皇は、近代日本の創始にあたり、こうした伝統に基づいて、「民主主義」(デモクラシー)を採用したのです。そして、昭和天皇は、「御誓文」における明治天皇の考えを継承・実行しようとしたのでした。
 昭和天皇は、次のように語っています。
 「もっとも大切なことは、天皇と国民の結びつきであり、それは社会が変わっていってもいきいきと保っていかなければならない」
 「昔から国民の信頼によって万世一系を保ってきたのであり、皇室もまた国民を我が子と考えられてきました。それが皇室の伝統であります」(ニューヨーク・タイムス、ザルツバーガー記者との単独会見、昭和47年)
 ここに見られる天皇と国民の間の親子のような結びつきこそ、わが国の国柄の基礎にあるものであり、日本的デモクラシーはそうした国柄の上に花開いたものだったのです。
 昭和天皇は、国際的にも日本の象徴として敬われ、アメリカ・イギリスなど多くの国を歴訪し、歓迎を受けました。昭和64年1月7日、天皇が崩御すると、ご大葬には、世界約160国の代表が参列し、哀悼と敬意を捧げました。
 昭和天皇は、日本の心を伝える存在として、内外の多くの人々の敬愛を集めたのです。そして、それは、天皇の心底に、「民の父母」たらんとする意志があればこそのことだったでしょう。

 次回に続く。

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日本の心137~アメリカ人も太平洋戦争を反省する

2022-07-05 08:18:14 | 日本精神
 今日、大東亜戦争(太平洋戦争)は、日本の侵略戦争だったと考えている人が多くいます。しかし、歴史というものは、そう簡単には言い切れないところがあります。
 ノンフィクション作家ジョン・トーランドは、『大日本帝国の興亡』(毎日新聞社)の中で次のように書いています。同書は、ピューリッツアー賞に輝いた名著です。
 「日本の満州奪取と北支(註 中国北部)への侵攻に対して、アメリカがさらに激しい言葉を用いて日本を弾劾するようになると、両国の溝はいっそう深まった。……なぜアメリカはモンロー主義の存在が許されるのに、アジアに対して門戸開放の原則を強制しようとするのか? 日本が匪賊の跋扈(ばっこ)する満州に乗り出すことは、アメリカがカリブ海に武力介入するのと、なんら変わらないではないか。……イギリスやオランダが、インドや香港、シンガポールおよび東インド諸島を領有することは、これを完全に認めることができるが、日本が彼らのまねをしようとすれば、罪悪であると糾弾する根拠はどこにあるのか? なぜインディアンに対して術策を弄し、酒を使い、虐殺をして土地を奪ったアメリカ人が、日本人が中国で同じことをしたからといって、指をさすことができるであろうか」
 トーランドはここでアーノルド・トインビーの次の言葉を引用しています。
 「日本の満州に対する経済進出は、日本が国際社会で存立してゆくのに不可欠であったので、けっして貪欲な行為とはいえない。……国民党に率いられる中国と、ソ連と、太平洋にあった人種偏見の強い英語国民(アメリカ)が日本を圧迫すると、日本の国際的地位は再び危ういものとなった」
 戦前のアメリカで、日本について最もよく知っていたといわれる人物が、ヘレン・ミアーズです。ミアーズは日本に滞在したことがあり、実際の日本を知っていました。彼女は、戦後間もなく『アメリカの鏡・日本』(メディアファクトリー)という本を書きました。この本は、マッカーサーによって、発禁処分にされました。わが国の占領期間中は、禁書とされたのです。
 この本でミアーズは、戦前の日本がアジア地域で行ったことを、侵略であるとは決めつけていません。日本よりもむしろ欧米列強の方が、よほど大規模な植民地政策や拡張主義、奴隷搾取主義をとっていたと指摘しています。
 ミアーズは、「アメリカは日本を裁くほど公正でも潔白でもない」と書いています。そして、「日本の指導部が満州と中国における行動を説明するのに使っている言葉と、今日私たち(アメリカ人)の政策立案者、著名な評論家がアメリカの政策を説明するのに使っている言葉は、まったく同じなのだ」とも。『アメリカの鏡・日本』という題名の含意が伺われましょう。
 アメリカは日本を打ち負かしました。しかしその結果、中国は共産化し、ソ連は勢力を拡大してしまいました。戦後、アメリカはソ連を封じ込めようと強力な反共政策を推進しました。その中心となったジョージ・F・ケナンは、それまでのアメリカの対日政策を批判しました。アメリカは戦前、日本に対し、中国や満州における権益を放棄させようと、極めて厳しい要求をしました。ケナンはその点について『アメリカ外交50年』という講演録で、次のように述べています。
 「これを字義通りにまた型破りな仕方で適用しようとすれば、それは外人一般が中国における居住および活動を完全に破棄することを、意味するだけだっただろう」「長年にわたって、我々が要求していることが、日本の国内問題の見地からみていかに重要な意義をもっているかについて、我々は考慮を払う事を拒んできた。…我々の要求が特に敏感な部分に触れて、日本人の感情を傷付けたとしても、それは我々にはほとんど影響を持たなかった」「我々は十年一日のごとく、アジア大陸における他の列強なかんずく日本に向かって嫌がらせをした」
 彼はこうした米国外交が、日本を戦争に追いやり、共産主義を増強させるはめになったと、米国の政策を批判したのです。
 アメリカ人のなかにもこういう意見があることを知ると、大東亜戦争が単純に日本の侵略戦争だったとはいえない、複雑な性格をもっていることがわかるでしょう。

 次回に続く。

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日本の心136~天皇を補佐する者の役割と責任とは

2022-07-03 18:45:51 | 日本精神
 戦前、昭和天皇は、シナ問題の拡大を憂慮し、その早期解決を望みました。日独防共協定・三国同盟には内心賛成せず、対米英戦争の回避を最後まで強く願いました。そして、大東亜戦争の開戦後は、緒戦の勝利に惑うことなく早期講和の方策を考えました。国家指導層の多くは、こうした天皇の御心に反して、日本を誤った方向に導いてしまったのです。
 日本の指導層及び国民は、どのようにあるべきだったのでしょうか。元亜細亜大学教授で国民文化研究会理事長を務めた故小田村寅二郎氏(註 1)は、示唆に富んだ意見を述べています。「天皇に対する輔弼(ほひつ)とは」という氏の所論から紹介します。
 戦前の我が国では、大日本帝国憲法の下、天皇は軍を統帥する統帥大権(註 2)、さらに立法、司法、行政の三権分立制度を統括する政治大権の双方を持っていました。小田村氏は、この点について次のように述べています。
 「大日本帝国憲法のそれらの諸規定が有効、適切に機能を発揮するためには、何よりも大切な必須条件がありました。具体的に申しますと、統帥大権を補佐申し上げる軍令部総長、参謀総長の輔弼の責任をはじめ、内閣その他様々な角度から天皇政治を補佐申し上げる側の人々に、臣下として天皇に忠誠を尽し、真心をもって天皇様をお助け申し上げなければならない重大な輔弼の責任があったのであります。
 ここのところが、大日本帝国憲法における最も重要な骨組みでありました。ところが、事実を調べてみますと、この点において、十分に輔弼の責任を果たし得ていないことが数多くあったことに気付いてきます。これは重大な歴史的事実でありまして、それがいっこうに是正されぬままに、あるいは、さらに一層深刻にマイナス面が深まっていくままに、天皇様は御年を重ねて遂に敗戦時に至られたのであります」
 このように小田村氏は、帝国憲法の下において天皇を補佐すべき者に責任があったと指摘します。
 さて、明治時代、日清・日露戦争で活躍した帝国陸海軍は、大正、昭和を経て非常に問題のある軍部になってしまいました。作家の司馬遼太郎氏は、生涯この原因を問いつづけました。小田村氏は、軍部が変化した原因について次のように記しています。
 「満州事変、上海事変、2・26事件、支那事変と推移していく間に、軍ことに陸軍部内ではいつしか、下克上と申しますか、下の者が勢力を得て、上の者たちを自分たちの思うとおりに動かすという傾向が一層深まってきます。中堅幹部将校があらゆることに口を出し、陛下を輔弼申し上げる高位高官が中堅将校の傀儡(かいらい)的存在となっていったのであります。
 かかることが万一にも起きてはならないというのが明治天皇様の深いご配慮であられたために、明治15年、『軍人勅諭』が下付されております。この『軍人勅諭』を日夜奉読することによって、一兵卒から将軍に至るまでの全軍人が拳拳服膺(けんけんふくよう)しながら軍務に精励していた時の軍と、この『軍人勅諭』をうつろに読むだけで、心に味わうことを怠りだした時の軍部とは、自(おの)ずからそこに内的変質が発生していたと思います」と。
 小田村氏は続いて次のように述べます。
 「しかも昭和16年、時の陸軍大臣東條英機大将の名で、全陸軍に『戦陣訓』というものが出されました。(略)『戦陣訓』の下付によって『軍人勅諭』への関心が自然に低下していったことは申すまでもありません。敗戦の責任は軍部にあるという言い方はその通りだと思いますけれども、時の軍部が『軍人勅諭』に従うことを好い加減にしていたところに、軍部の腐敗、堕落があったということを併せて指摘しなければ、軍部に責任があるということを言っているだけでは意味をなさないと思います」
 このように小田村氏は、軍部の責任とその原因を指摘しています。
 小田村氏は、次に政治家・官僚・学者等の指導層全般について言及します。
 「大日本帝国憲法の規定する条章の精神の中には、内閣は毅然として政治に携わることを、定めております。即ち、天皇に対して、輔弼の責めを持つという表現用語によって、そのことが明示されているのであります。もしその通りに実行するとすれば、誤れる軍人に対して、これを正すのが政治家の責務だと思います。その任務を果たした人もいます。しかし、大勢はそれができなかった、あるいはする意志も持ち合わせていなかったのです」
 氏によると、「先の大戦の原因は、軍人、政治家、役人、そして、それらの誤りを正すべき最後の切り札である学者、総じて日本の指導者層の全てに、それぞれの分野における臣下としての責務に怠慢、さらに責任の回避、承詔必謹の精神の欠落等のあること」でした。「陛下の大御心を憶念し奉り、大御心を安んじ奉ることこそが、天皇を輔弼申し上げる臣下の重大な責務」でしたが「それを感じる者乏しく、またその志ある者も衆寡敵せず」という状態だったと、小田村氏は指摘します。
 「大日本帝国憲法下に運営されていた日本の素晴らしいシステムが機能するには、忠誠心という重大な精神的ファクターを要求していた。それが摩滅し希薄化していく時には、素晴らしいシステムも機能を発揮しなくなるのはもとよりであります」
 小田村氏の所論は、大略、以上の通りです。
 昭和天皇は、終戦の御聖断、戦後のマッカーサー会見、全国御巡幸等において、こうした国家指導層すべての責任を一身に担って、国家と国民を救おうとしました。しかし、戦後の我が国民は、そうした過去を忘れています。そして、戦前に比べるべくもないほど、日本人の道徳や責任感は低下してきています。小田村氏の言葉は、国民統合の中心を見失ったまま、国家溶解の危機にある今日の日本人に対しても、反省と覚醒を促す言葉として響くのではないでしょうか。


(1) 小田村氏の父方の曾祖父は、吉田松陰の親友で松下村塾で活躍した楫取素彦(かとり・もとひこ、小田村伊之助)である。その最初の妻・寿(久子)、即ち小田村氏の曾祖母は、吉田松陰の妹である。小田村氏の弟・四郎氏は、拓殖大学総長・日本李登輝友の会会長等を務めた。小田村兄弟には、血縁・親縁を通じて吉田松陰の精神が濃厚に受け継がれている。
(2) 統帥大権は、軍隊の最高指揮権。帝国憲法下では、天皇の大権の一つとされ、政府や議会等から独立して、発動には陸軍参謀本部・海軍軍令部が参与した。

参考資料
・小田村寅二郎著『天皇に対する輔弼とは』(『聖帝〔ひじりのみかど〕 昭和天皇をあおぐ』明成社 所収)

 次回に続く。

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 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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日本の心135~ナチス迎合を神道家が批判:葦津珍彦

2022-07-01 08:16:20 | 日本精神
 日本の固有の宗教は、神道です。それゆえ、神道には、日本人の心性がよく表れています。神道は「清き明き直き心」を理想としています。また闘争的・対立的でなく、共存調和をよしとします。戦後、神道は大きな誤解を受けていましたが、近年こうした神道の本質が正しく理解されるようになってきました。今では、海外でも神道が注目されつつあります。
 戦後、神道の評価回復に貢献した人物の一人に、葦津珍彦(あしづ・うずひこ)がいます。
 葦津は神道の理論家として知られています。彼は生涯、西郷隆盛と頭山満を尊敬しました。西郷隆盛のことは、日本人なら誰でも知っています。内村鑑三が英文の著書『代表的日本人』の第一に書いたのも、西郷でした。西郷は「敬天愛人」の精神を持って、私利私欲を超え、誠をもって公に奉じる生き方を貫きました。
 頭山満は、こうした西郷の精神を受け継いだ人物でした。彼は戦前の日本において、国家社会のために生きる在野の巨人として、広く敬愛を受け、「昭和の西郷さん」と呼ばれるほど、国民的な人気があったのです。
 葦津珍彦と頭山の縁は深く、葦津の父・耕次郎が大正時代、東京赤坂の霊南坂に住み、隣家の頭山と親交を結んでいたのが始まりです。その関係で、葦津は「少年時代から、頭山先生を絶世の英雄と信じ仰いできた者であって、ひそかに頭山門下をもって自任してきたものである」と書いています。そして、葦津は、頭山を通じて、西郷の「敬天愛人」の精神を、現代に受け継いだ人物でした。
 さて、戦前の日本は、ヒトラーのドイツ等と軍事同盟を結び、そのため国の進路を大きく誤りました。当時、葦津は、神道家の立場から、親独路線に強く反対しました。ゲルマン民族の優秀性を説き人種差別を行うナチスの思想は、我が国の精神とは相容れないと論じたのです。
 葦津は、戦前の我が国の歴史について、著書『明治維新と東洋の解放』にて次のように書いています。
 「大東亜戦争は、文字通りの総力戦であり、日本人のあらゆる力を総動員して戦われた。……日本国をして『東洋における欧州的一新帝国』たらしめたいとの明治以来の征服者的帝国主義の精神が、この大戦の中で猛威を逞しくしたのも事実である。それは同盟国ドイツのゲルマン的世界新秩序論に共感した。しかし日本人の中に、ゲルマン的権力主義に反発し、あくまでも、日本的道義の文化伝統を固執してやまない精神が、根づよく生きていたのも事実であった。
 日本人の中にあっても、概していえば政府や軍の意識を支配したものが主としてナチス型の精神であり、権力に遠い一般国民の意識の底にひそむものが、日本的道義思想であったということもできるであろう」
 葦津自身、戦前、政府や軍の親独路線を批判したため弾圧を受け、著書は細かく検閲を受け、発行できなくなりました。
 この点は重要です。戦前国策として行われていた神道は戦後、「国家神道」と呼ばれ、「国家神道」が戦争の重要な原因の一つであったと見なされてきました。これは、神道を危険視したアメリカの占領政策の影響です。しかし、事実は大きく異なるのです。葦津のような在野の神道家は、官製の「国家神道」に異を唱え、日本人でありながらナチス思想を模倣するような当時の風潮を断固批判したのです。
 葦津は、次のように書いています。「政治家や軍人の中に、いかにナチス流の征服主義の思想が強大であっても、かれらは、ヒトラーのごとくに強者の権利を主張し、征服者の栄光を説いて、それで日本国民の戦意を煽り立てることができなかった。かれらが日本人を戦線に動員するためには、古き由緒ある文明と最高の道義との象徴たる『天皇』の名においてのみ訴えることができた。……天皇の名において訴えるためには、かれらは『征服』の教義ではなくして『解放』の教義を説く以外になかった。しかも日本国民は、その解放の教義を信じ得る限りにおいてのみ、忠勇義烈の戦闘意識を発揮し得た。国民の意識は、天皇の精神的伝統的権威と結びついて、目に見えざる大きな圧力となって、戦時指導者に、間接的ではあるが大きな制約を加えていたことを見失ってはならない」
 事実、葦津の言うように、「大東亜戦争で、日本軍の影響の及んだところでは、インド、ビルマ、マライ、インドネシア、ベトナム、フィリピン、どこででも人種平等の『独立と解放』が大義名分とされた」のでした。ナチス流の反ユダヤ主義、人種主義は、日本では到底通用し得なかったのです。 
 神道家・葦津の大戦に対する反省は、真摯かつ率直です。
 「われわれは、日本軍が純粋に利他的に解放者としてのみ働いたなどというつもりは全くない。日本軍の意識の中には、征服者的なものも秘められてもいたであろうし、その行動には、専横で圧迫的な要素もあった。しかしそれと同時に、解放者としての使命感と解放者としての行動もあった。その二つの潮流が相合流していた。そこに歴史の真相がある。その征服者的な日本の側面については、東京裁判以来、あまりにも多くのことが誇張的にいわれており、しかも解放者的な側面については、ほとんど無視され否定されているのが現状である」と葦津は書いています。
 また、葦津は続けます。「日本帝国が掲げた『大東亜共栄圏』の精神は、いかなるものであったか。そこに日本人の侵略的植民地主義の影がなかったとはいいがたい。東洋における欧州的一新帝国を目標として成長して来た日本の政府や軍の体質の中には、それは当然に強力に存在するものであった。だがそれと同時に日本民族の中に営々として流れた日本的道義の意識、アジア解放の悲願の存在したことも無視してはならない。そこには清くして高きものと、濁りて低きものとが相錯綜し激突しながら流れて行った」と。
 戦前の我が国の指導層は、西洋思想の影響を受け、ナチス・ファッショを模倣して、日本人本来の在り方を見失いました。しかし、国民の多くは、善良な日本人の心を保っていたのです。そこには、「清き明き直き心」を理想とし、共存調和をよしとする神道的な精神が脈打っていたのです。
 私たちは、奢(おご)ることも、また卑下することもなく、自国の歴史・文化・伝統を、広い視野をもってとらえる必要があるでしょう。
 そして、さらに日本的な精神の真髄を学びたいと願う人々には、「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁の教えに触れることを、強くお勧めします。大塚総裁は戦前、戦争回避・不戦必勝を説く建白書を、昭和14年9月から昭和20年の終戦間際まで、時の指導層に対し、毎回千余通送られました。戦後、大塚総裁は、国民大衆に神の道を広め、真の世界平和の実現をめざす運動を、行ってきました。それが、「明けゆく世界運動」です。大塚総裁の教えを知ることによって、真の日本精神・神の道を学ぶことができます。

参考資料
・葦津珍彦著『明治維新と東洋の解放』(皇学館大学出版部)『神道的日本民族論』(絶版)『明治維新と東洋の解放』(皇学館大学出版部)

 次回に続く。

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日本の心134~忠義の心で終戦に導く:鈴木貫太郎

2022-06-28 07:59:38 | 日本精神
 戦前、わが国の進路を誤らせた重大な事件の一つが、昭和11年に勃発した2・26事件です。決起したのは、青年将校たちでした。彼らは、「君側の奸」つまり天皇の側近くにいる悪臣を除けば、国が正されると考え、さして計画性もなくクーデターを試みました。多くの国家指導者が襲撃され、首相岡田啓介は即死と報じられて、首相代理も居ない非常事態となりました。
 このとき、昭和天皇は、国家元首として、敢然と自らの意思を明らかにしました。「朕(ちん)が最も信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為である」「すみやかに鎮圧せよ」と天皇は憤りました。
 事件で襲われた重臣のなかに、侍従長の鈴木貫太郎海軍大将がいました。鈴木は昭和4年から8年間、侍従長として天皇に仕えていました。当時鈴木は69歳で、天皇にとって鈴木は親ほども年が離れていました。また鈴木の妻・たかは、天皇が幼少の時、養育係を約10年間、務めたことがありました。それゆえ、天皇は鈴木夫妻を親代わりのように、篤く信頼していたのです。反乱軍は、こうした鈴木を襲ったのでした。
 鈴木は頭部や胸部などに4発の銃弾を撃ち込まれました。しかし、九死に一生を得ました。襲撃部隊の安藤輝三大尉が、部下がとどめを刺そうとしたのを制したからです。安藤は一度鈴木に会ったことがあり、鈴木の話を聞いて「西郷隆盛のように腹の大きい人物だ」と敬意を抱いていました。このことにより、鈴木は一命を取り留めました。
 結局、このクーデターは失敗に終わりました。しかし、陸軍中枢部には、青年将校たちの国家改造の思想に共鳴する勢力があり、この事件をきっかけに国の実権を握るようになっていきます。そして、陸軍は中国共産党の挑発に乗り、大陸で戦争を始めました。政府はこれを追認するばかりで、政治によるコントロールが効かなくなり、戦線が拡大されていきました。そして、わが国は大陸問題を解決できないまま、昭和16年(1941)12月8日、遂に米英との戦いを始めてしまいます。戦争が長引くに従い、敗色は濃厚になる一方でした。
 この戦争を収めるために、鈴木貫太郎は重要な役割をすることになります。もともと鈴木は日独伊三国軍事同盟に反対し、対米英戦争にも反対でした。この点で、鈴木は、同じ海軍の岡田啓介・米内光政・山本五十六・井上成美らと意見をともにしていました。なかでも岡田啓介元首相は、鈴木と同じく、2・26事件において、不思議な形で助かった人物でした。そして、岡田と鈴木という、ともに2・26事件を生き延びた者が、この事件以後に国の実権を握った軍閥と、対決することになるのです。不思議な因縁といえましょう。
 開戦後、岡田・米内らは、密かに戦争終結の道を模索していました。しかし、あくまで戦争を継続しようとする強硬派に、動きを悟られてはなりません。弾圧か暗殺されることは必至です。表向きはあくまで戦争貫徹というふりをしていなければなりません。いかに彼らを欺きつつ、戦争終結への動きを進めるか。ここに命がけの苦心があります。失敗すれば、同じ日本人が戦争継続派と戦争終結派に分かれて戦う事態とになりかねません。イタリアのような、同民族が相撃つ悲劇の二の舞は避けねばなりません。岡田らは思案の末、戦争終結の大役を担えるのは、この男しかいないと、鈴木貫太郎に白羽の矢が立ちました。
 昭和20年4月5日、鈴木は重臣会議の決定に基づき、昭和天皇から組閣の大命を受けました。79歳でした。
 天皇は「どうだ、やってくれるな」と鈴木に言いました。天皇は戦争の早期終結を願っていました。そして、鈴木にこの難事を委ねようというお考えなのです。鈴木はそれまで、軍人は政治に関与するなという明治天皇の勅諭を頑なに守って来ました。「なにとぞ、この儀ばかりは……」と口ごもりながら固辞すると、天皇は微笑を漏らして、言葉をさえぎって申されました。「お前の気持ちは、よく分かっている。しかし、今この危急の時にあたって、もう他に人はいないのだ。頼むから、どうかまげて承知してもらいたい」と言いました。そこまでの言葉を受けた鈴木は、この大任を全うしようと自らに誓いました。
 鈴木の就任間もない4月12日、ルーズベルト米大統領が急死しました。鈴木は、感想を聞きに来た記者に、「偉大な指導者を失ったアメリカ国民に、深甚なる弔意を申し述べる」と語りました。この談話は、同盟通信の英語放送を通じて、海外に流されました。鈴木の言葉は、心あるアメリカ人の胸に響きました。しかし、ドイツ首脳は鈴木の談話に反感を持ちました。このことがわが国に伝わると、陸軍の若手幕僚たちが、血相を変えて総理官邸に押しかけてきました。しかし、鈴木は彼らに淡々と応じました。
 「死んだ敵将に敬意を捧げるのは、日本古来の武士道である。軍人たる諸君が、武士道を否定してどうするか」
 武士道には、「敵を愛す」という精神があります。日本人の心根の美しさを表わすものです。鈴木と対照的に、ヒトラーは「運命は歴史上最大の戦争犯罪人ルーズベルトをこの地上より遠ざけた」という声明を発表しました。日本とナチス・ドイツは軍事同盟を結んでいたとはいえ、その精神には対照的な違いがあったのです。
 当時アメリカに亡命していたドイツの作家・トーマス・マンは、「ドイツではみな万歳、万歳と叫んでいるのに、日本の首相は敵の大統領の死を悼む弔電を送ってきた。やはり日本はサムライの国だ」と賞賛の言葉を送っています。
 劣勢著しい中にあっても、堂々と日本精神を発揮し、敵国民に礼儀を尽くした鈴木貫太郎。この古武士のような人物によって、わが国は国土の破壊、民族の滅亡を免れることになるのです。
 昭和20年(1945)7月26日、連合国はわが国に降伏を求め、ポツダム宣言を発表しました。日本政府は、国体が護持されるか否かを懸念し、宣言を受諾すべきか決めかねていました。そこに、8月6日、広島に原爆が投下されました。さらに、9日未明には、ソ連が日ソ中立条約を無視して、突如宣戦布告をし、満州・樺太になだれ込んできました。後ろから袈裟懸(けさが)けに切りつけてくるような卑劣なやり方です。
 8月9日午後11時30分、御前会議が始まりました。会議の参加者は、鈴木貫太郎首相以下の最高戦争指導会議のメンバーと平沼枢密院議長らでした。終戦工作を進めてきた岡田啓介元首相と海軍大臣の米内光政は、会議を前に、鈴木に天皇の裁断を仰ぐよう進言していました。
 会議が始まると、東郷外相は「天皇の国法上の地位を変更しない」という了解のもとにポツダム宣言を受諾するという案を主張しました。米内海相は当然、これに賛成しました。阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長の3名は、徹底抗戦を主張しました。戦争終結論が2名、徹底抗戦論が3名です。平沼の態度はあいまいでした。議論は平行線のまま、結論が出ませんでした。議長である鈴木には、決定権はありません。きわどい多数決で受諾案を通してしまえば、陸軍は猛反発し、クーデターは必至となるでしょう。鈴木はここで、老熟の英知を働かせました。
 既に午前2時を回っていました。おもむろに鈴木が立ち上がり、語りだしました。「既に長時間にわたり、議論を重ねてまいりました。かくなる上は、まことにもって畏れ多い極みではありますが、陛下の思し召しをうかがい、聖慮をもって、本会議の決定と致したく思います」。そう述べると、鈴木は天皇の方に向きを変えました。徹底抗戦派の阿南が「総理……」と小さな声を発しました。しかし、高齢の鈴木は耳が遠くて聞こえないのか、それとも聞こえないふりをしているのか、そのまま、天皇の前に進み、最敬礼をしました。
 天皇は鈴木に自席に戻るように言い、鈴木が自席に戻ると、天皇は、語り出しました。「もう意見は出尽くしたか。それならば、私の意見を言おう。私は外務大臣の申しているところに同意である。……これ以上、戦争を続けても国民を苦しみに陥れるばかりである。……今日は忍び難いものを忍ばねばならない時と思う」と。国政上、天皇が自身の判断を示いたのは、異例のことでした。この時の模様は、岡田元首相の右腕であった内閣書記官長・迫水久常が詳細に伝えています。
 天皇の意向を受けた鈴木は、すぐに首相官邸に引き返しました。ここからの手続きが遅れれば、徹底抗戦派に妨害をされかねません。老練な鈴木に手ぬかりはありませんでした。鈴木は前もって待機させてあった閣僚たちを招集し、閣議を行いました。そして、10日の午前4時、ポツダム宣言の受諾が閣議で承認され、正式の国政方針となりました。
 長い一日が終わりました。家に戻った鈴木は、長男の一(はじめ)に次のように語ったといいます。
 「国が敗北することと、滅亡することとは違うのだ。その民族に活力さえあれば、荒廃した国土を再建して、立ち直ることもできる。……日本国民は戦争に負けた経験がないから、戦後は大変な混乱に陥るだろうが、わが民族は優秀な素質を持っておる。必ず日本を復興してくれるだろう」
 日本は連合国に宣言受諾の意思を伝えました。これに対する連合国の回答は、国体護持に明確な保証を与えるものではありませんでした。13日の閣議で阿南陸相は受諾絶対反対を唱えました。鈴木は、再度の御前会議招集を決定しました。「もう二日だけ待ってほしい」との阿南陸相の要望を、鈴木は毅然として断りました。鈴木は次のように語りました。「今を外したら、ソ連が満州、朝鮮、樺太ばかりでなく、北海道にも攻め込んでくるだろう。ドイツ同様に分割されれば、日本の土台が壊れてしまう。相手がアメリカであるうちに、始末をつけねばならんのです」
 8月14日午前10時50分、二度目の御前会議が開かれました。鈴木は宣言受諾反対の者だけに、天皇に意見を陳述する機会を与えました。その後、天皇が静かに口を開きました。「国体問題についていろいろ疑義もあるということであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。……自分は如何になろうとも、万民の生命を助けたい。…この際、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力、将来の回復に立ち直りたいと思う……」
 これが最終的な決定となりました。天皇の発言をもとに終戦の詔書が作られ、翌8月15日、天皇がラジオで国民に直接呼びかけるという玉音放送がなされました。強硬派の多い陸軍も、阿南陸相が「承詔必謹」の方針を打ち出し、静かに矛を納めました。
 かくして鈴木首相の、天皇の意向に忠実にそおうとする至誠の行動によって、わが国は破壊滅亡の淵から救われ、無事終戦を迎えることができたのです。
 戦後、わが国は敗戦の痛手から立ち上がり、復興の道を力強く歩みだしました。その3年後、昭和23年4月、鈴木貫太郎は、そんな日本を見守りながら、81年の生涯を閉じました。
 平和を願い国民を救おうとした天皇と、天皇の御心に応えようと献身した先人たち。そこに、日本人の精神の精華があり、テロや独断専横に走った軍部の行動は、天皇の御心に反し、日本の国柄に背いたものだったのです。私たちは、先人たちの努力に感謝するとともに、先人が子孫にたくした、この日本という国の重みと尊さを、かみしめたいと思うのです。

参考資料
・『鈴木貫太郎自伝』(日本図書センター)
・立石優著『鈴木貫太郎』(PHP文庫)

■追記
 日独伊三国同盟の締結、米英との開戦に反対し、厳正中立・不戦必勝の大策を時の指導層に建言した大塚寛一先生の建白書の歴史的な意義を正しく評価するには、宇垣一成、岡田啓介、迫水久常、米内光政らの動きをしっかりとらえる必要があると先日書きました。
 鈴木貫太郎が老齢で首相となり、最後の御前会議で叡智を働かせて、昭和天皇から終戦の御聖断を拝したことは、広く知られていますが、彼の救国の行動の背後には、岡田、迫水、米内らがいました。だが、そのことに焦点を合わせて昭和史の深層を本格的に研究している歴史家、昭和史研究者は、まだいないようです。そのため、大塚寛一先生の建白書の歴史的な意義が未だ正しく評価されていないのは、大変残念なことです。

 次回に続く。

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日本の心133~合理的判断で非戦を貫く:井上成美

2022-06-26 07:55:48 | 日本精神
 “最後の海軍大将”となった井上成美(しげよし)は、非戦派として有名です。井上は、昭和10年代、米内光政、山本五十六とともに「海軍の三羽烏」と呼ばれ、陸軍のもくろむ日独伊三国同盟に頑強に抵抗しました。井上は三人の中で最も強硬で、その後も対米開戦に突き進む動きを阻止しようとし、また開戦後は早期終結のために尽力しました。“非戦派”といわれるゆえんです。
 もちろん軍人である以上、ただの平和主義者ではありません。非凡な軍人だったがゆえに、“非戦派”だったのです。井上は早くから情報の重要性を理解し、作戦計画は正確な情報に裏づけられていなければならないと考えていました。昭和7年(1932)、当時海軍大学校の教官だった井上は、戦略講義の教材用に、「合理的敵情判断ノ方法」「敵情補充ノ原則」を執筆して、学生に配布しました。そこには、あらゆる予断と希望的観測を排して数理と情報を大切にせよ、旧套墨守はやめて新時代に即した独創をはかれ、ということが、図式入りの明快詳細な論法で説いてありました。この日本人には珍しい、抜群の情報分析力と戦略的思考力に基づいた合理的な判断が、井上の信念を不動のものにしていたのです。
 昭和14年1月、平沼騏一郎内閣に対し、ドイツは日独伊三国軍事同盟案を送付してきました。これはそれまでの防共協定がソ連一国を対象としていたのに対し、対象国をソ連以外に広げ、しかも同盟国の戦争に武力援助・参戦を義務付けるものでした。
 当時わが国では、ヒトラーの『わが闘争』が翻訳で読まれていました。語学力に優れた井上はこれを原著で読み、和訳されていない部分に、重大な問題があることを発見しました。井上は軍務局長名で海軍省内に注意を促しました。「ヒトラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら、小器用で小利口で役に立つ民族と見ている。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチスの日本接近の真の理由も其処にあるのだから、ドイツを頼むに足る対等の友邦と信じている向きは、三思三省の要あり、自戒を望む」と。実際、ヒトラーは、米国が英国を援助するために参戦することを恐れており、米国を牽制するために、日本の海軍力を利用しようと企んでいたのです。
 昭和14年9月、ドイツが電撃的にポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まりました。当初、ドイツは破竹の勢いで、向かうところ敵無しに見えました。それを見て、わが国には、ドイツが直に英国を破りヨーロッパを席巻する、独伊と同盟を結べば我が国はアジアを掌中に出来ると見て、その尻馬に乗ろうとする動きが、陸軍を中心に起こりました。しかし、米内海相・山本次官・井上軍務局長の海軍トリオは、「ドイツは必ず負ける」と見ていました。「イギリス海軍が壊滅したわけでもなく、また、今後もドイツ海軍がイギリス海軍を凌駕するわけもなく、劣悪なイタリア海軍では話にならない」。そして何より「ドイツと同盟を結べば、対米戦争は避けられなくなる」――それこそ彼らが三国同盟に反対する理由でした。中でも最も頑強に反対したのが、井上でした。
 終戦後、井上は三国同盟について、次のように語っています。
 「同盟反対の理由としては、独に対する国力判断なり。独は世界の強国にあらず。伊は三等国なり。しかも独・伊は、従来幾度か外交上不信行為を反復し来たれり」
 「米国人の一番嫌っている国民、しかも1年前以来非道の侵略戦遂行中で、米と関係緊密な英国と交戦中の独と、軍事同盟を結ぶ事は、対米戦に一歩を進める事になることに思い至らないとは、誠に不思議と申すの外なく、正常な理性の持ち主とは考えられない」と。
 当時の我が国には「正常な理性」を失って、ヒトラーの術中にはまり、熱病につかれたように戦争の道に突き進もうとする者が、指導層に多くいたのです。井上は、大勢に流されることなく、彼らに対抗しました。それはいつテロを受けるかわからない危険を伴っていました。しかし、井上は、一切臆することなく、身を張って三国同盟に反対し、無謀な戦争を阻止しようと懸命の努力を続けたのです。
 井上は、日本には希な戦略的思考をもつ軍人でした。彼の対米戦争の予測は、一切の希望的観測を排した、冷徹な研究・分析に基づくものでした。昭和16年(1941)1月、井上は『新軍備計画論』という計画書を出しました。その骨子は、将来の戦争では、航空機・潜水艦の発達により、主力艦隊同士の決戦は絶対生起しない。日米戦争の場合、太平洋上の島々の航空基地争奪が必ず主作戦となる。ゆえに、巨額の金を食う戦艦の建造など中止し、従来の大艦巨砲思想を捨て、新形態の軍備に邁進する必要がある。米国と量的に競争する愚を犯してはならない、というものでした。
 この計画書で井上が一番言いたかったことは、総論の第二項「日米戦争ノ形態」に書かれています。この項目において、井上はわが国が対米戦争に突入した場合の見通しを書いています。
 「日本ガ米国ヲ破リ、彼ヲ屈服スルコトハ不可能ナリ」。アメリカの国土の広さを考えれば、米全土の攻略は到底できない。米海軍を殲滅(せんめつ)することもまず困難である。それに反し、アメリカは「(一)日本国全土ノ占領モ可能、(二)首都ノ占領モ可能、(三)作戦軍ノ殲滅モ可能ナリ」。アメリカは海上交通路の破壊を狙い、物資封鎖の挙に出るだろう。「帝国ノ最弱点ヲ突カレテ屈スルコトトナル」危険性が強い。
 「米国ニ対シ、有ラユル弱点ヲ有スル」日本は「此ノ弱点ヲ守ルノ方策」を十二分に講じない限り、一時西太平洋上に王者の地位を保持し得たとしても、不本意の持久戦に持ち込まれる。やがて陸海両作戦軍全滅、米軍の東京占領、日本全土占領のかたちで戦いを終わる可能性が強い。これが、井上の基本的な主張でした。
 井上は職を賭し、生命の危険を承知の上で、この計画書を書きました。そして、時の海軍大臣及川古志郎に手渡しました。しかし、極秘扱いとされて実施に移されませんでした。
 計画書が書かれた10ヶ月後、日本は真珠湾攻撃で対米戦争に突入。わが国は一時優勢に戦いを進めたものの、物量に勝る米国の巻き返しに遭(あ)いました。井上の予測したとおりです。米国による物資封鎖、わが国の連合艦隊の全滅、陸海軍の無条件降伏、そして「日本国全土ノ占領」等が現実となってしまいました。
 終戦後、井上の計画書は米国海軍の手に渡りました。そして「もし日本がこの計画を基礎に動いていたら日米戦は起こらなかっただろう」と言わしめました。
 井上の良き理解者だった山本五十六は、連合艦隊司令長官となり、昭和15年9月、近衛文麿首相から日米戦争の見通しについて聞かれました。山本は「是非やれと言われれば、初めの半年や1年は暴れて御覧に入れます。しかし、2年3年となっては、全く確信がもてません」と答えました。
 井上はこのとき山本は次のように言うべきだったと言います。「総理、あなたは三国同盟なんか結んでどうする気か、あなたが心配している通りアメリカと戦争になりますよ、なれば負けですよ、やってくれと頼まれても、自分には戦う自信がありません。対米戦の戦えない者に連合艦隊司令長官の資格なしと言われるなら、自分は辞任するから、後任に誰か、自信のある長官をさがしてもらいたいと、強くそう言うべきでした」と。
 「かねがね私は、山本さんに全幅の信頼を寄せていたんだが、あの一点は黒星です。山本さんのために惜しみます」と井上は述べています。 
 昭和17年11月、井上は、海軍兵学校の校長となりました。井上の目にはわが国の敗戦は不可避でした。彼は、戦後日本の復興の土台となれる人材を育てようと考えました。そして、その時役立つように、軍事関係の授業時間を減らし、一般的な課目に力点を置きました。また、当時は敵国語として各方面で英語の使用が禁止されましたが、井上は兵学校の受験科目と授業から英語を廃止することに、断固反対しました。「自分の国の言葉しか話せない海軍士官が、世界中どこにあるか!」と、英語教育を続けました。
 戦争末期の昭和19年8月、海相米内光政は、井上を海軍次官に呼び寄せました。井上は戦況をつかむや、極秘裏に高木惣吉少将に終戦工作を命じ、終戦への努力を続けました。米内は自分が倒れた場合、海軍大臣となって終戦に導けるのは井上のみと信じ、井上を温存するため、井上を海軍大将に推しました。井上は大いに不満でしたが、従わざるをえませんでした。こうして“最後の海軍大将”となった井上は、20年5月、次官の職を去り、軍事参事官として終戦を迎えました。
 戦後、井上は三浦半島の長井に隠棲しました。一度も世に出ることなく、ひっそりと晩年を送りました。近くの子供たちに英語を教えて、わずかな収入を得るのみ。その生活は困窮を極めました。しかし、井上は、最後まで清廉潔癖の姿勢を崩しませんでした。合理的判断で非戦を貫いた井上は、自分の良心に照らして、生涯自ら信ずるところを貫いたのです。

参考資料
・阿川弘之著『井上成美』(新潮文庫)
・宮野澄著『最後の海軍大将・井上成美』(文春文庫)
・高木惣吉著『自伝的日本海軍始末記』(光人社NF文庫)

■追記
 昭和戦前史について、20年ほど前に書いた宇垣一成、吉田茂、中野正剛、岡田啓介、迫水久常、米内光政、井上成美らに関する拙稿をここ数回ネット上に再掲しました。この20年ほどの間、彼らの動きに焦点を合わせて昭和史を書いたものに出会うことがありませんでした。
 日独伊三国同盟の締結、米英との開戦に反対し、厳正中立・不戦必勝の大策を時の指導層に建言した大塚寛一先生の建白書の歴史的な意義を正しく評価するには、宇垣、岡田、迫水、米内らの動きをしっかりとらえる必要があります。だが、そのことに気づいて本格的に研究している歴史家、昭和史研究者は、まだいないようです。

 次回に続く。

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日本の心132~「ジリ貧はドカ貧に勝る」:米内光政

2022-06-24 08:09:15 | 日本精神
 昭和戦前期、少数ながら、政府・陸軍の暴走に反対した指導者がいました。海軍では、岡田啓介のほか、米内光政、山本五十六、井上成美、鈴木貫太郎らが挙げられます。
そのうち、海軍大将米内光政は、威風堂々とした端麗な容貌で有名でした。無口でしたが、内に秘めた意志は強固でした。彼は、テロの横行をものともせず、一貫して平和路線を通しました。
 昭和12年(1937)7月、廬溝橋事件が勃発しました。中国共産党の戦術にはまった日本は、シナ大陸で泥沼の戦争に引き込まれていきました。時の首相近衛文麿は和平の機を逃して退陣。その後、成立した平沼内閣で、米内は海軍大臣になりました。当時、陸軍はソ連を仮想敵国とし、日独伊三国軍事同盟の締結を推進していました。しかし、米内は、ヒトラーを信用していませんでした。次官の山本五十六、軍務局長の井上成美も同じです。彼らは「海軍の三羽烏」と呼ばれ、断然と三国同盟に反対しました。
 三国同盟を締結すべきか否か、主要閣僚による五相会議が70数回も繰り返され、なお結論は出ませんでした。そこに突然、驚くべきニュースが入ってきました。昭和14年8月23日、ヒトラーがスターリンと独ソ不可侵条約を締結したのです。わが国の方は、ソ連に対抗するためにドイツとの同盟を議論しているのに、そのドイツがわが国に断りもなく、こともあろうにソ連と手を結んだのです。衝撃が走りました。ヒトラーに振り回された平沼首相は、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」という言葉を残して辞任しました。このことにより、三国同盟論は、急速に退潮になりました。
 三国同盟論が後退した後、米内は内奏のため参内しました。その際、昭和天皇は「海軍のおかげで国が救われたと思う。また今度のことが契機で、陸軍が目覚めることとなれば、かえって仕合わせというべきだろう」と述べたと伝えられます。昭和天皇は、独伊との同盟に反対だったのです。
 昭和15年1月、米内は首相に指名されました。天皇は米内内閣の成立を喜びました。「近来、歴代内閣の総理が拝謁する場合には御不機嫌なことが多かったけれども、最近、米内総理が拝謁した時は非常な御機嫌で、総理も珍しいことだと不思議がっておった」といいます(『原田熊雄日記』)。戦後、天皇は、「米内はむしろ私の方から推薦した、…日独同盟論を抑える意味で米内を総理大臣に任命した」と語っています。
 ところが、三国同盟論は陸軍や外務省に根強く、再び強硬派が勢いを増してきました。米内は彼らのテロを恐れず、あくまで同盟に反対しました。三国同盟を結ぶと、英米との戦争を覚悟に入れなければならないからです。米内は閣議において明言しました。「対米英海戦には勝てる見込みはありません。大体、日本海軍は米英を敵に回して戦争するようには建造されておりません」と。
 米内の戦争回避論は、米英との戦力・生産力等の比較に基づいた合理的判断でした。これに対し、陸軍は同盟締結を図って畑陸相を辞任させ、後任者を出そうとしませんでした。陸軍が意志を通すために使っていた横暴な手段です。当時は後任者が出ないと内閣は総辞職しなければならないという仕組みになっていたのです。そのため、米内は昭和15年7月、総辞職に追いやられました。天皇が最も期待を寄せていた米内を、陸軍が引きずり下ろしたのです。
 その後、成立したのは、第2次近衛内閣でした。ここで外相となった松岡洋右は、強力に同盟を推進しました。そして、遂に日独伊三国軍事同盟は締結されてしまいました。
岡田啓介元首相は戦後、「三国同盟が日本の分かれ道だった」と語っています。事実、それによって日米関係は悪化し、アメリカは日本を締め上げてきました。じりじりと追い詰められ、こうなったら一か八か戦うしかないという意見が国内に強まりました。そういう空気のなかでも、米内は大局を見失わず、沈着冷静でした。米内は、天皇がご出席される御前会議で、「ジリ貧はドカ貧に勝る」と述べ、ジリ貧に堪える方が、アメリカと戦ってドカ貧に陥るよりましだと反対しました。
 しかし、近衛内閣の後、東条英機が首班となると、日本は決定的に誤った方向に踏み出しました。ハル・ノートを突きつけられた日本は、米ソの謀略にかかり、戦略も政略もないまま、無謀な戦争に突入してしまったのです。
 最初、わが国は華々しい戦果を挙げました。けれども、戦争が長期するに従い、米内らの予測の通り、わが国は苦境に陥りました。東条を倒さねば、この窮地を切り抜けることはできません。この時、打倒東条の中心となったのが、岡田啓介でした。米内は岡田に呼応し、他の首相経験者たちとともに東条打倒を図りました。粘り強い努力が続けられました。その結果、昭和19年7月、遂に東条を退陣に追い込むことができました。
 この時、岡田は、米内を後継首相にと考えていました。米内に戦争の早期終結を期待したのです。しかし、後を継いだのは、陸軍の小磯国昭大将でした。米内は小磯内閣で再び海相に就任し、腹心の井上成美を次官とし、彼に密命を与えました。極秘裏に、終戦工作を進めよというのです。
 岡田や米内は、懸命の努力を続けました。戦争終結という難事業を成し遂げられる人物は、もはや老将鈴木貫太郎しかいません。鈴木は、昭和天皇が、日本を終戦に導く切り札として期待を寄せた人物でもあります。昭和20年4月、岡田・米内らの思いが実って、鈴木が首相に指名されました。米内は鈴木内閣で海相として鈴木を支え、戦争終結への機会を待ちました。岡田は、右腕の迫水久常を内閣書記官長に送り込み、鈴木・米内を助けました。
 昭和20年8月9日、ポツダム宣言を受諾するか否かを決める御前会議が集められました。会議を前に、岡田と米内は、鈴木に天皇の裁断を仰ぐよう進言しました。御前会議で、米内は東郷外相の説く終戦論に賛成しました。賛否同数で結論は出ません。これを好機ととらえた鈴木は、おもむろに天皇に裁可を仰ぎました。ここに至って、天皇は自ら終戦の御聖断を下しました。迫水はこの時の会議の模様を詳しく伝えています。
 こうして、3年8ヶ月続いた無謀な戦争は、ようやく終結をみたのです。
 戦後、米内は、米国戦略爆撃調査団の質問に応じ、次のように証言しています。

質問: 最初の戦争計画は妥当なものであったかどうかということ、およびその計画に付随する要求に応ずるため、はたして日本国家の能力は十分なものであったかについて、あなたのご意見はどうですか。
米内: あの戦争計画は当時の情勢や、わが国の戦争能力の実際に鑑みるとき、決して適当な計画ではなかったと、今日に至るまで信じています。 
質問: つまり、あの計画ははじめから、あまりに手を広げすぎた、身のほど知らぬ計画だと考えたわけですか。
米内: 詳しいことは実はよく知りません。しかし、私は、そんな戦争計画は全然、試みてはいけなかったとすら考えたのです。私は堅く信じていますが、仮に当時、私が首相だったとしたら、われわれはこの戦争をはじめなかったでしょう。

 日本が、米英との戦争をあくまで回避する道を選んでいたら—--日本は米内の言うように「ジリ貧」を味わっても「ドカ貧」に陥ることなく、死中に活路を開くことができたでしょう。その活路を示すものがありました。それが、「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁の建白書でした。建白書は、昭和14年9月から、昭和20年の終戦間際まで、時の指導層に対し、毎回千余通送られました。そして、大塚総裁の意見に耳を傾け、戦争回避・戦争終結のために行動した良識ある指導者がいたのです。

参考資料
・『昭和天皇独白録』(文春文庫)
・阿川弘之著『米内光政』(新潮文庫)

 次回に続く。

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