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ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

日本の心151~東京裁判で正義を貫いた米国人弁護士

2022-08-02 12:31:51 | 日本精神
 東京裁判は、正確には極東国際軍事裁判といいます。大東亜戦争の終戦後、昭和21年5月3日に開廷され、2年半を経て、23年11月4日から12日に判決が下されました。その判決によって、A級戦犯とされた7人の日本人が絞首刑とされ、BC級戦犯とされた人々、1061名が処刑されました。
 一体、東京裁判は、公平で公正なものだったのでしょうか。そして、その判決は、日本人が唯々諾々と従うべき、正当な内容だったのでしょうか。
 東京裁判で日本の弁護を命じられたアメリカ人弁護人たちは、当初、なぜ自分たちが、敵国の日本の戦争指導者たちの弁護をしなければならないのか、と考えました。しかし、彼らは、裁判の準備のために、大東亜戦争(米国の言う太平洋戦争)について調べるにつれ、それまで持っていた戦争観が変わっていきました。彼らは、戦争の原因が単純なものではなく、日本には日本の立場があり、連合国の戦争責任を免罪することはできないことを理解するようになっていきました。そして、法の精神に基づいて、裁判の不公平を追及しました。
 ブレイクニー、ローガン、スミス、ファーネス、ラザラス等、彼らは、対日戦争では自国のために戦った愛国的な米国軍人でした。
 ブレイクニー弁護人が米国の原爆投下を批判する弁論を行なったときには、途中から日本語への同時通訳はストップされ日本語の裁判記録にも残されませんでした。
彼は次のように語りました。「キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪になるならば、我々は広島に原爆を投下したものの名を挙げる事ができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も我々は承知している。………原爆を投下した者がいる! この投下を計画し、その実行を命じこれを黙認した者がいる! その者達が裁いているのだ!」
 この件りは日本語の速記録には「(以下通訳なし)」となって長らく日本人の目から隠されていました。 もし日本語に通訳されていれば、法廷の日本人傍聴者の耳に入り、そのうわさはたちまち広がっていったでしょう。そして、原爆投下による非戦闘員の無差別大量殺戮という非人道的行為を行ったアメリカの戦争責任と、当裁判所の非合法性に対して、批判が沸き上がったでしょう。
 ローガン弁護人は、最終弁論において、アメリカの対日経済制裁と戦争挑発政策を批判し、 大東亜戦争は「不当の挑発に起因した、国家存立のための自衛戦争」であったと論じ、真珠湾攻撃については「この日本の攻撃が自衛手段でないと記録することは実に歴史に一汚点を残すものであります」と述べ、アメリカの戦争責任を徹底的に追及しました。
 スミス弁護人は、判決後「東京法廷は、真の国際法廷ではない。 あれはマッカーサー元帥個人の裁判所である」と、アメリカ連邦最高裁で激しく批判しました。
その他のこうしたアメリカ人弁護人たちも、 みな自国と自国民を裏切って日本を弁護したのではありません。 彼らに一貫しているのは、 法の精神に基づいて、自国のことも他国のことも、是は是、 非は非とするフェアーな態度です。
 実は東京裁判には、当初から根本的な批判があがっていました。イギリスから厳しい批判がぶつけられるとともに、米国政府や連邦議会からも、マッカーサーの側近や部下などGHQの中からも、批判があがっていたのです。政治的な策略に与せず、堂々と法と正義を説いたアメリカ人弁護人たちは、真の自由と民主主義の精神を貫いたといえましょう。
戦後日本人が学ぶべき民主主義とは、彼ら東京裁判米国人弁護人たちが示した、真の自由と民主主義の精神だったのではないでしょうか。

 次回に続く。

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日本の心150~インドの独立にも日本人が貢献

2022-07-31 09:13:41 | 日本精神
 大東亜戦争は戦う必要のない、無謀な戦いでした。しかし、そのなかで、アジアの解放を目指し、アジア民族のために尽くした日本人がいたことを、私たちは記憶にとどめるべきでしょう。
 今や世界最大の民主主義国といわれるインド。その国が、長い英国の支配から独立できた陰には、日本人の協力があったと今もインドの人々から感謝されています。
 藤原岩市少佐は、昭和16年9月、日米交渉が難航し、米英との戦争が避けがたい状況に陥った時、特務命令を受けました。命令は、マレー半島の英国軍の中核をなすインド兵に対して、投降工作を行い、インド独立の基盤をつくることでした。彼が率いる特務機関は、「F機関(藤原機関)」と呼ばれました。
 12月8日、大東亜戦争が開戦されるや、日本軍は破竹の勢いでマレー半島を南下しました。そこに英国軍の一大隊が、退路を断たれ、孤立しているとの情報が入りました。英国人は大隊長だけで、中隊長以下は、すべてインド人でした。
 この時、藤原少佐は一切武器を持たずに、この大隊を訪れました。そして、大隊長と会って全隊を投降させることに成功しました。少佐は、約200名のインド人投降兵の身柄を預かりました。この中に、後にインド国民軍を創設したモハン・シン大尉がいたのでした。
 英国人はインド人を奴隷視・家畜視し、彼らと食事を共にすることなどありませんでした。しかし、藤原少佐は、インド兵たちとともに、インド料理を手づかみで食べました。これには、インド人もビックリ。日本人は、彼らを同じ人間として扱ったのです。彼らの心をつかんだ藤原少佐は、モハン・シン大尉を説得しました。この戦争こそ欧米の支配からアジアが独立する絶好の機会だ、インド人自身によるインド国民軍を創設すべきだ、と。
 昭和16年12月末に発足したインド国民軍は、各地で英国軍内のインド兵を説得して、増員していきました。シンガポール陥落時には、数万人規模にもなりました。
 インド独立の志士スバス・チャンドラ・ボースは、当時、弾圧を逃れてドイツにいました。機を見たボースは18年5月、日本政府からインド独立への支援の約束をとりつけ、シンガポールに入りました。そして、インド国民軍総帥の地位につき、自由インド仮政府を樹立して、英米に宣戦布告を発しました。
 激戦で名高いインパール作戦は、ボースにとって、すべてをかけた戦いでした。「チャロー・デリー!」(征け、デリーへ)が合い言葉でした。北ビルマからインド東部に進攻し、国内の独立活動を活発化させて、英国の支配者を駆逐しようとしました。しかし、結果は大惨敗。死者は3万人にものぼり、インド国民軍も8千人の犠牲者を出しました。彼我数倍の兵力差と雨期にたたられ、物資補給が途絶えたことが、主な敗因でした。しかし、インパール作戦は、これをきっかけに、インド独立の気運が高まった歴史的な戦いでした。
 昭和20年8月の日本敗戦の後、英国はインド国民軍の約2万名を、反逆罪で軍事裁判にかけようとしました。しかし、ガンディー、ネルーらの国民会議派は、「インド国民軍将兵は、インド独立のために戦った愛国者である」と反発し、反英運動を繰り広げました。そして2年間にわたる弾圧をはね返し、インド人は自らの手で独立を勝ち取ったのです。
 戦後インドは、日本に対して大変友好的な態度を取っています。インド政府は戦争賠償の請求を放棄し、また東京裁判ではインド代表パール判事が「日本無罪論」を唱えました。パール判事を日本に送ったネルー首相は、日本が独立を回復すると、日本の国連加入を支援してくれました。
 インド独立の道を切り開いた藤原少佐らは、「インドの独立は、日本のお陰で30年早まった」と、インドの人々から感謝されています。その感謝は、現在も絶えることがありません。平成10年(1998)、インド国民軍(INA)全国委員会は、靖国神社に感謝状を奉納しました。そこには「インド国民は日本帝国陸軍がインドの大義のために払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。インドの独立は日本帝国陸軍によってもたらされました。ここに日印両国の絆がいっそう強められることを祈念します」と書かれてあります。
私たちは、誤った戦争であったとはいえ、大東亜戦争において、被抑圧民族のために尽くした日本人がいたことを心に留め、英霊の安らかならんことを祈りたいと思います。
 インドは、世界で最も親日的な国の一つです。それはインド独立のために尽くした日本人がいたからです。インドは、IT革命の先端を行き、21世紀中半には経済力で中国を抜くかもしれないというほどの潜在力を持っています。反日的な政策をとる国のことばかり意識するのでなく、日本を愛し、日本に感謝している国々を大切にし、関係を深めていくという外交も必要でしょう。

参考資料
・西岡香織著『アジアの独立と大東亜戦争』(芙蓉書房出版)
・加瀬英明著『日本は国の柱を取り戻せ』(『漁火』平成12年10月1日号 経営者漁火会)

 次回に続く。

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日本の心149~日本人はインドネシア独立に協力した

2022-07-29 13:11:18 | 日本精神
 大東亜戦争は無謀な戦いであり、敗れるべくして敗れました。しかし、その中において、アジアの解放を目指して、アジア民族のために尽くした日本人がいたことを、忘れてはならないでしょう。
 インドネシアは、現在、ASEANのメンバーとしてめざましい発展を遂げています。しかし、この国は、17世紀以来、3世紀半にわたって、オランダの過酷な植民地支配を受けていました。独立を願う民衆の間には、いつしか、「いつか北から同じ人種がやってきて、とうもろこしが芽を出して実をつけるまでにインドネシア人を救ってくれる」という予言が生まれました。
 その予言は、昭和17年3月1日に実現しました。日本軍が総兵力5万5千をもって、ジャワ上陸を行ったからです。わずか10日後には、オランダ軍司令官は全面降伏しました。予言を信じた人々が、積極的に日本軍に協力したからです。
 オランダ支配下では、強制労働が行われ、オランダ語が強制され、政治的には分割統治が行われ、愚民扱いの政策が行われ、人々には政治参加の機会が与えられませんでした。独立運動は弾圧され、独立旗(メラプティ)・ 独立歌(インドネシア・ラヤ)は禁止され、インドネシア人には軍事能力を絶対に与えない政策がされていました。 
 後に大統領になるスカルノやハッタは、独立運動の指導者として活動していました。彼らの情熱は、第16軍の今村均中将を感動させました。今村は、彼らの運動を支援しました。「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」というのが、今村の信念でした。
 また、日本は、ペタと呼ばれる祖国防衛義勇軍を組織して訓練し、3万5千の将校・兵士を育成しました。このペタが独立戦争で活躍するようになったのです。
 ペタ出身の元大将スミトロ氏は、日本軍政の三年半は「インドネシア独立のアクセルとなった」と語っています。また、チョクロプラノロ氏(元ジャカルタ州知事)は、日本がインドネシア人にインドネシア語を使うように教育したことにより、「感情の統一、行動の統一、民族の統一がなされ、独立にとっての力を発揮することができた」と語っています。ケマル・イドリス氏(ペタ出身)も「独立戦争の基本となった軍事能力を与えてくれた」とも語っているのです。
 日本は、オランダとは異なり、インドネシアを一つの地域として認め、中央参議院・州参議会を設置して、インドネシア人に政治参加の機会を与えました。約300もの多数の言語に分かれているインドネシア人のために国語(インドネシア語)を整備して教育し、教員学校・職業学校も設立しました。インドネシア・ラヤのラジオ放送を行い、将来の独立を承認して、最終的には独立旗・独立歌を承認しました。こうした政策は、白人が有色人種を支配した政策とは、全く違う日本独自の政策だったのです。
 日本が敗戦を迎えた昭和20年8月15日の2日後、スカルノとハッタは独立宣言を発し、翌日、インドネシア共和国憲法を採択しました。しかし、イギリスとオランダは植民地の復活を狙い、独立運動を阻止しようとしました。インドネシア側には、戦いのために武器が必要でした。群衆が武器を要求して、日本軍の施設を襲う事件が起きた時、日本軍は「撃つな、指導者と話し合え」と厳命を下しました。そのため、暴徒に殺された日本人もいました。「インドネシアの独立に栄光あれ」と自らの血糊で壁に書き残した人もおり、その血文字は、今も人々に多大の感銘を与えています。
 日本軍には、オランダ軍の目を盗んで、インドネシア側に協力する動きが現れました。そして、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自動車など200台、中小口径砲など多数と、ジャワの日本陸軍の装備の半分以上が手渡されました。自らインドネシア軍に身を投じた日本人も多くいました。たとえば、その一人青木政四郎曹長は、オランダ軍が千ギルダーもの懸賞金をかけるほどの勇士で、戦闘に慣れないインドネシア人を率いて指揮をしました。青木は「民家のものは決して奪うな。日本人でも女を襲ったり物品を略奪したら撃ち殺す」という厳しい規律を貫き、厚い信頼を受けました。
 オランダとの独立戦争は昭和24年12月まで、4年5ヶ月も続きました。インドネシア側の死者は80万人にも及んだといわれますが、民衆は粘り強く抵抗を続けました。インドを始めとするアジア諸国はオランダを非難し、国連安保理事会や米国議会も撤兵勧告を行いました。国際世論に押されたオランダは、遂に植民地の回復を諦めざるをえなくなり、インドネシアは白人の支配から独立を勝ち取ったのです。
 日本の敗戦後、現地に残留し、インドネシア独立義勇軍に身を投じた人々は約2千人、そのうち約千人が戦死等で亡くなったと推定されています。首都ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地には、独立戦争で特別な功労を立てて戦死した人々が祀られています。この中には11名の日本人が英雄として手厚く葬られています。
 独立戦争の生き証人である宮本静雄氏(元16軍陸軍参謀)は、「敗戦後、インドネシア人に密かに武器を渡す方法を考えた。軍隊を街に残すと、インドネシア人との衝突が起こるので、軍隊を武装解除して山に入れて軍属や邦人を街に残し、インドネシア人との衝突を避けて密かに武器を渡すことに成功した」と語っています。また、小野盛氏(元16軍陸軍指令部参謀部勤務)は、「約2千人の日本人が独立戦争に参加したが、その内約千人が戦死した。何故これだけの戦死者がいるかと言うと、日本人は指揮官として第一線で戦ったからである」と語っています。
 平成3年、海部俊樹首相がASEAN諸国を謝罪して回りました。この時、インドネシアの元復員軍人省長官で東欧大使を歴任したサンバス将軍は、語りました。「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った海部演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。海部さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、アジア・アフリカの悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」と。
 誤った戦争であったとはいえ、大東亜戦争において、アジア解放の理想のために尽くした立派な日本人がいたことを、私たちは忘れてはなりません。そして、アジアの立場に立った歴史の視点をしっかり持っていきたいものです。

参考資料:
・田中正明著『アジア独立への道』(展転社)
・名越ニ荒之助著『日韓2000年の真実』(ジュピター出版)
・『祖国と青年』平成6年2月号(日本青年協議会)

 次回に続く。

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日本の心148~日本の戦争をマレーシアから見る

2022-07-27 09:11:03 | 日本精神
 日本にとって、第2次世界大戦は、戦う必要のない戦争であり、戦えば負けることは最初から明らかでした。しかし、大東亜戦争と呼ばれたこの戦争が、結果として、アジア諸民族の独立に寄与したことも、歴史的な事実です。私たちは、この戦争を様々な角度から総合的に見る必要があります。そのための一つの視点として、東南アジアの人々の見方をご紹介します。
 マレーシアは、かつてイギリスの植民地でした。イギリスは、マレーシアを支配するために、インド人、中国人を移民させて複合民族化し、分割統治を行って、非人間的な収奪をしていました。マレーシアではゴム園や錫鉱山で使役したマレー人に、イギリスはマラリアの特効薬だとして阿片を売りつづけました。阿片販売はジュネーブ協定違反ですが、イギリスはこの協定はアジアに適用されないとして、日本軍に追い払われるまでやめませんでした。植民地体制を打ち破る切っ掛けを作ったのは、日本でした。それまで、マレーシアの人々にとって、白人は絶対に逆らうことのできない支配者でした。しかし、同じ有色人種の日本軍は、英国軍と戦って破り、マレーシアの人々に独立をめざす勇気を与えたのでした。そして、マレーシアは、1957年に独立を勝ち得たのです。
 このことに対し、マレーシアの人々はどのように考えているのでしょうか。例えば、ピン・モハマッド・ナクラ氏(近代史研究家)は「神と見えた白人がアジアの軍隊に負けたので、独立は我々の力で達成できると感じた」と語っています。そして、日本最初の上陸地コタバルには、ケランタン州政府によって、日本軍の勝利を記念する戦争博物館が建設されているのです。
 ガザリー・シャフェー外相(当時)は、昭和63年9月、先の大戦について詫びる日本の政治家を批判して、次のように語りました。「とくに私が惜しいと思うのは、日本くらいアジアのために尽くした国はないのに、それを日本の政治家が否定することだ、責任感をもった政治家だったら、次のように言うだろう。『その頃、アジア諸国はほとんど欧米の植民地になっていて、独立国はないに等しかった。日本軍は、その欧米の勢力を追い払ったのだ。それに対して、ゲリラやテロで歯向かってきたら、治安を守るために弾圧するのは当然でないか。諸君らは何十年何百年にわたって彼らからどんなひどい仕打ちを受けたか忘れたのか? 日本軍が進撃した時にはあんなに歓呼して迎えながら、負けたら自分のことは棚に上げて責任をすべて日本にかぶせてしまう。そのアジア人のことなかれ主義が、欧米の植民地から脱却できなかった原因ではないか』と」
 最後に、マレーシアのリーダーとして、「ルック・イースト政策」を推進してマレーシアを発展に導いたマハティール元首相は、どうでしょうか。マハティールは、「東アジア諸国だけで経済問題を討議する組織をつくろう」という東アジア経済協議体(EAEC)構想を打ち上げるなど、アジアの立場から堂々と発言してきた指導者です。そのマハティールは、日本の最大の功績として、白人と対等に口をきけるようにしてくれたことを挙げています。平成7年、村山富市首相がマレーシアを訪問し、謝罪外交を行ったときには、マハティール首相(当時)は、次のように語りました。
 「日本がいつまでも過去の戦争について謝り続けているのはおかしい。日本のかつての戦争に関する責任を問うならば、アジアを長きにわたって植民地化し非人間的な収奪と支配を続けた欧米の宗主国の責任はどうなるのか」と。
 マハティールの発言は、かつて東京裁判で日本を一方的に裁いた欧米人の間に、大きな反響を引き起こしました。しかし、彼らからは、反省や謝罪の声はほとんど現れませんでした。
 日本は、マレーシアが、イギリスの苛酷な統治から独立したことに大きな貢献をしたと、感謝されているのです。
 私たちは、アジアには日本を評価する見方があることを踏まえて、大東亜戦争を様々な角度から見てゆく必要があるでしょう。

参考資料
・名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』(展転社)

 次回に続く。

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日本の心147~外国要人も感銘を受けた:昭和天皇10

2022-07-25 08:26:42 | 日本精神
 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、昭和56年2月に来日しました。24日、法王は昭和天皇を表敬訪問し、次のように語りました。
 「私は、陛下が無益な受難が起こらぬようにするため、先の大戦を終わらせようと断固たる努力を払い、そして、すべての国民に代わってひとりで戦争の責任を引き受けようと申し出られた陛下の高貴な御態度に格別の尊敬を表します。陛下は実に、現代日本の民主主義と平和と自由の基礎の確立に、疑う余地のない貢献をなされました。そして、その基礎は、お国の歴史上かつてない進歩と繁栄を実現しました」と。
 また、法王は、この来日の際、次のように語りました。「陛下にお目にかかって日本人の心の美しさが、どこから出てくるのかということが良く分かりました」「今回来日して発見したことがあります。つまり、日本の良さというものを、一点に凝縮すると、天皇陛下なのです」と。
 ローマ法王ばかりでなく多数の外国人が、昭和天皇と会見して、大きな感銘を受けました。それは、昭和天皇の個人的な人格によるのみでなく、わが国の皇室に伝わる伝統あってのものといえるでしょう。その証として、アメリカのレーガン大統領、カーター大統領、東ドイツのシェール大統領など、多くの外国の要人が、皇居で行われる宮中晩餐会で、天皇に体されるわが国の伝統・文化を称えています。
 例えば、パキスタンのモハメッド=ジアウル=ハック閣下は、次のように語りました。「パキスタンにおいて、私どもは、陛下を日本文化の絶えざることの象徴として、また、日本国民の不屈の精神の象徴として尊敬申し上げております。……経済分野における日本のめざましい業績に対し、世界全体が賞賛と羨望とをもって認めていることは疑いありません。しかも、さらに一層敬服に値することは、日本国民がその倫理的な拠(よ)り所をしっかりととらえ、そして独自の文化と伝統を保存することに成功しているということであります。回教国家として、その宗教的遺産に誇りを持つパキスタンの国民は、日本人のこの優れた資質に深い感銘を受けております」と。
 次に、ニジェールのセイニ=クンチェ最高軍事評議会議長は、次のように述べました。「陛下は、世界で最も古い君主国の頂点におられます。最も古く最も賞賛すべき文明のひとつが、富士山の影に横たわるこの列島に生まれました。そこには独創的な文明が発達し、結実し、それによって日本国は、押し寄せる様々な出来事にもかかわらず、自らの個性を守り、その魂を保持することができたのであります。かくて、この地には、その文化を失うこともその伝統を放棄することもなく、最も見事で根本的な変革に断乎として着手し、それを成功裏に実現した偉大な国家が繁栄するに至ったのであります」と。
 また、パラグアイのストロエルネル大統領は、天皇と国民の結びつきを次のように表現しました。「私は、この尊敬する日本国民の本国に参りまして、心が高められるように感じ、人類が常に誇りとしてきた数々の力強い美徳の存在を身をもって感得するような気持ちがいたしております。日本人の国を愛する心は、日本人の持つ純真、克己及び謙譲の精神から永劫の泉のように涵養されることを世界は認識しております。……この高潔な国には、人をして日本国を尊敬せしめた祖先伝来の煌(きらめ)きがあり、天皇陛下に体現される諸体制が整っており、日本国民がその輝かしい宗教を信じ、希望を抱き、そして日本民族特有の力強さをもって天皇陛下をお慕いしていることを何人も否定しないのであります」と。
 これらの言葉は、昭和天皇に対する敬意の言葉であるとともに、また、日本の国民全体に対する賞賛の言葉でもあります。そして、日本の伝統と文化の中心には、天皇の存在があり、天皇と国民の一体性に、日本の国柄の特徴があることを示す言葉ともいえましょう。そして、こうした国柄を最もよく体現したのが、昭和天皇だったことがわかります。
 昭和天皇が崩御して、今日もなおその事績を仰ぎ、その人柄を慕う人々は、絶えることがありません。

参考資料
・『聖帝 昭和天皇をあおぐ』(明成社)

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日本の心146~御巡幸が国民を力づけた:昭和天皇9

2022-07-23 18:15:55 | 日本精神
 昭和天皇は、昭和21年2月より実に9年間にわたって、全国411個所、総行程にして3万3千キロの御巡幸を行いました。天皇の訪問は、敗戦によって廃虚の中にあった国民に大きな力を与えました。この世界史に類例のない出来事は、天皇自身の発意で行われたものでした。
 加藤進元宮内次官は次のように、伝えています。
 「陛下は概ね次のように私に仰せになりましたーーこの戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けた。この際、私としては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め励まし、また復興のために立ち上がらせるための勇気を与えることが自分の責任と思う。
 私としては、このことをどうしてもなるべく早い時期に行いたいと思う。ついては、宮内官たちは私の健康を心配するだろうが、自分はどんなことになってもやり抜くつもりであるから、健康とか何とかはまったく考えることなくやってほしい。宮内官はそのことを計画し実行して欲しい」(註 1)
 加藤氏は、天皇の言葉に驚きを隠せませんでした。氏の回想によると、政府側の重臣たちは、「警備の面の安全を考えても、御巡幸は差し控えた方がよい」という意見で、すべて反対でした。また、外務省あるいは終戦連絡事務局の幹部もたびたび反対意見を述べていました。
 現上皇陛下が皇太子だった時の家庭教師、エリザベス・バイニング夫人は、日記に当時のエピソードを書き留めています。昭和24年9月25日の日記に、彼女が吉田茂首相の別荘に招かれ、同席した樺山愛輔伯爵から聞かされたことが記されています。それによると、昭和天皇は九州御巡幸を望んだのですが、政府は世情不安、身辺の安全問題を理由に反対しました。そこで天皇は、自らマッカーサー元帥に面会して賛同を取り付け、吉田首相に九州御巡幸の実現を迫りました。驚いた吉田首相は元帥に緊急会見し、事実かどうか確かめ、その上で御巡幸を決定したというのです。
 こうして行われた全国御巡幸は、各地で大きな感動をもたらしました。それまで、雲の上のような存在だった天皇が、自ら国民のもとにやってきて、親しく慰め、励ましたからです。
 元宮内次官の加藤氏は、次のような実話を伝えています。
 「下関巡幸の折りなど、陛下御巡幸の反対の動きがありましたので、お迎えする民衆の後ろの方で、当時の県知事とともにあたりを見守っておりましたところ、遠くで赤旗を振っていた反対派の組合員が、陛下のお姿を見ているうちに感激してしまったのか、赤旗を振っているのも忘れ、万歳、万歳と叫び出したこともありました。
 また中国地方の水島工業に行った折など、組合が奉迎派と反対派に分裂。この時も、あたりを見回していますと、反対派の人間が4~5人、工場の屋根の上からじっと歓迎の様子を見ているのを発見しました。随分、危ないなと思って見ておりますと、陛下が奉迎員の組合委員長と話をしておられる時です。突然、屋根の上に立ち上がり、万歳をしているのです。落ちるのではないかと心配したことを覚えています。
 とにかく陛下がお出でになられる工場では、ストライキがことごとく解決していきましたし、これは調べれば分かると思いますが、物資や食糧の生産が、陛下のおいでになるところことごとく向上していくのです」(註 2)
 こうしたエピソードが、全国に多数残っています。
 わが国には、天皇と国民が深い家族的な感情で結ばれてきたという伝統があります。それは、君民一体ということもできます。
 昭和天皇の御巡幸は、終戦直後、塗炭の苦しみにあった国民を力づけました。このことが戦後日本の復興に大きな力となりました。全国を回って国民を慰め、励そうと考えた昭和天皇は、君民一体の伝統を実践したのです。


(1)(2)加藤進著『昭和の御巡幸』(『聖帝昭和天皇をあおぐ』明成社)

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日本の心145~天皇が国民の飢えを救った:昭和天皇8

2022-07-21 08:13:09 | 日本精神
 敗戦の年、昭和20年、戦後の混乱のなかで、国民の塗炭(とたん)の苦しみを味わっていました。食糧難は深刻でした。この年、成人に必要なカロリーは、配給ではわずか半分しか摂取できず、残りはヤミで補うという状況でした。人々は、金になるものは何でも売って食いつなぐ、いわゆる「たけのこ生活」を強いられていました。
 加えて、この年は、明治43年(1910)以来最悪の不作の年となりました。天候不順、戦争による労働力不足、粗末な農機具、そして肥料や農薬生産の減少により、米の収穫が例年より40パーセント近くも減少したのです。しかも、敗戦により国家機能が低下していたため、農民は収穫した穀物を政府に供出せずに、闇のルートに横流ししました。その結果、ついに政府からの配給米が底をつく事態となりました。大蔵大臣はUP通信社に対して「食糧がすぐに輸入されなければ、1千万人の日本人が餓死するであろう」と述べました。国民は迫りくる飢餓の恐怖におののいていました。
 このようななか、国民の食糧事情に最も胸を痛めていたのが、昭和天皇でした。戦後、農地改革や日中友好に活躍した政治家・松村謙三は、当時を次のように回想しています。
 昭和20年12月、宮中からお召しがあり、天皇からお言葉がありました。
 「戦争で苦しんだ国民に、さらに餓死者を出すことは堪(た)え難い。皇室の御物(ぎょぶつ)の中には国際的価値のあるものもあると聞く。その目録を作製させたから、米国と話してこれを食糧に替えたい」とのお言葉でした。
 さっそく幣原喜重郎首相が、マッカーサーに面会してこれを伝えると、感動したマッカーサーは「自分としても、米国としても、その面目にかけても御物を取り上げることはできない。断じて国民に餓死者を出すことはさせないから、ご安心されるよう申し上げて下さい」と答えたといいます。
 食糧を求める国民の声は、ますます高まっていました。昭和21年5月19日には、「食糧メーデー」が行われました。参加者は25万人といわれ、坂下門から皇居内にも群集が押し入りました。教科書にも載っている「国体は護持されたぞ。朕はたらふく食っているぞ。汝、臣民飢えて死ね。御名御璽」というプラカードはこの時のものです。プラカードを持った者は、不敬罪に問われました。プラカードの表現は、共産党によるものでした。
 皇居前広場では、トラックを3台並べ、その上にテーブルをのせて演壇がつくられました。演説が続き、最後に、共産党の指導者・徳田球一が演壇に立ちました。徳田はおもむろに皇居を指さし、「オレたちは餓えている。しかるに彼らはどうだ」と叫んで、群集をアジりました。
 翌20日、マッカーサーは、「規律なき分子がいま開始している暴力の行使は、今後継続を許さない」と警告し、「食糧メーデー」はGHQ(連合国軍総司令部)の命令で収拾されます。そして、21日、マッカーサーは吉田茂をGHQに招き、「自分が最高司令官であるかぎり、日本国民は一人も餓死させない」と約束しました。
 その約束通り、GHQは6~7月にかけて20万トンの輸入食糧を放出しました。8~9月には、それぞれ20万トンの食糧が放出されました。これによって、日本国民は、大量餓死という最悪の危機を乗り越えることができたのです。
 大戦後の数年間、世界の食糧事情は悪化しました。中国・インドでは飢餓が起こり、ヨーロッパでさえ飢餓が囁(ささや)かれたほどです。敗戦国の日本など、懲罰として飢餓を強いられても不思議ではない状況でした。それにもかかわらず、国民が餓死から救われたのは、昭和天皇の役割が大きかったのです。
 昭和天皇は、餓えに苦しむ国民を思い、皇室財産を差し出して食糧に替え、国民を餓死から救いたいと申し出ました。その無私仁愛の心が、マッカーサーの心を揺り動かし、GHQによる食糧放出が行われたのです。当時の国民はこのことを知る由もありませんでした。今日も多くの国民は、ただ米軍が食糧を供給してくれたと思っているようです。実はその陰には、国民の身の上を思う天皇の存在があったのです。
 こういう真実をこそ、私たちは語り継いでいかなければならないでしょう。

参考資料
・岡崎久彦著『百年の遺産――日本近代外交史(65)』(産経新聞平成14年6月17日号掲載)

 次回に続く。

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日本の心144~マッカーサーは感動した:昭和天皇7

2022-07-19 08:07:29 | 日本精神
 敗戦の約1ヵ月後。昭和20年9月27日、昭和天皇はGHQのマッカーサー元帥を訪問しました。場所は東京都港区にある現在のアメリカ大使館。その時、天皇は45歳でした。
 「マッカーサー回想録」によると、昭和天皇は「国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした」と述べたといいます。
 わが国の外務省は、この会見から57年たった平成14年10月17日、会見の公式記録を公開しました。そこには天皇が直接「戦争責任」に触れた部分はありませんでした。しかし、そのことをもって、天皇が責任を負うと言わなかったと見るのは、早計です。外務省側が連合国による裁判を想定して、あえて記録に残さなかった可能性があるからです。
 マッカーサーとの会見は、昭和天皇自らの意思によるものでした。当初、天皇が自分を訪問希望だと聞いたとき、マッカーサーは非常に厳しい顔をしたといいます。どうせ命乞いか亡命の嘆願に来るのだろう、と。それが敗戦国の元首の常だからです。
 それゆえマッカーサーは最初、昭和天皇をぞんざいに迎えました。しかし、30分後には、自ら天皇を丁重に送っているマッカーサーがいました。その姿は、周りにもわかるほど感動していたといいます。通訳をしたファウビオン・バワーズは、次のような手記を、読売新聞に寄せています。
 「我々が玄関ホールに戻った時、元帥ははた目で見てもわかるほど感動していた。私は、彼が怒り以外の感情を外に出したのを見たことがなかった。その彼が、今ほとんど劇的ともいえる様子で感動していた。……ついこの間まで『日本人の罪をどんなに処罰してやろうか』とばかり話していた人物なのに。天皇陛下が戦争犯罪人たちの身代わりになると申し出られたことに驚いたと、元帥は後に私に語った。『戦争は私の名前で行われた。私には責任がある』と陛下は説明されたというのだ。元帥はそのような考えを受け入れようとは思わなかったろう。天皇の存在なしでは占領は失敗するのだ」
 昭和天皇はこの会見の内容について、一言も語りませんでした。それが元帥との約束だったのです。ところが、天皇の態度に感動したマッカーサーが、会見の様子を、来訪する日本人に語ったことにより、わが国に知られるようになりました。そして、マッカーサーは、昭和天皇との会見のことを自ら『回想録』に記しています。
 「私は大きい感動に揺すぶられた。死を伴うほどの責任、しかも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない戦争責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」
 会見後、マッカーサーが「はた目で見てもわかるほど感動していた」とバワーズが、伝えているとおり、彼は「大きい感動に揺すぶられた」のです。
 昭和天皇は、食糧不足のため餓えに苦しむ国民を思い、自分の身を投げ出して、国民を餓死から救いたいと願ったのです。その姿勢が、マッカーサーを感動させたのです。
 当時、アメリカでは、天皇の裁判や処刑を求める意見が高まっていました。これを受けて上院は「天皇を戦争犯罪人として裁判にかけることをアメリカ合衆国の政策とする」ことを全員一致で決議しました。しかし、マッカーサーは、昭和天皇に直接会って以来、天皇に対する考えが一変していました。また、彼のもとには、天皇の助命を願う日本国民から、千通を超える直訴状が送られてきていました。国民は天皇を恨んでいるどころではありません。自分の命に代えても、天皇を助けて欲しいと懇願する国民が多数いるのです。天皇の存在の重大さを痛感したマッカーサーは、昭和21年1月25日、ワシントンに電報を送りました。
 「…天皇告発は日本人に大きな衝撃を与え、その効果は測り知れないものがある。天皇は日本国民統合の象徴であり、彼を破壊すれば日本国は瓦解するであろう。事実すべての日本人は天皇を国家元首として崇拝しており、正否は別としてポツダム宣言は天皇を存続させることを企図していると信じている。だからもし連合国が天皇を裁けば日本人はこの行為を史上最大の裏切りと受け取り、長期間、連合国に対して、怒りと憎悪を抱き続けるだろう。その結果、数世紀にわたる相互復讐の連鎖反応が起こるであろう…」
 この電報が、米国政府の決定を覆しました。アメリカは、天皇の存在と地位を保つ方向に急転回したのです。
 東洋には「身を殺して仁をなす」という言葉があります。仁とは愛の形です。仁愛は、親が自分はどうなっても、と自己犠牲的な行為によって、子供を救おうとする。そこに極まるでしょう。昭和天皇は「民の父母」として、まさに身を捨てて「仁」をなしたと言えましょう。
 昭和天皇のこうした姿勢がマッカーサーの心を動かし、それによって日本の国民は救われ、日本という国もまた守られたのです。

 次回に続く。

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日本の心143~戦後の原点「終戦の詔書」:昭和天皇6

2022-07-17 09:04:28 | 日本精神
 昭和天皇の「終戦の詔書」は、玉音放送として知られています。その内容は、天皇が大東亜戦争の終結を決めた事情を国民に伝えるとともに、敗戦から我が国が再出発するにあたって国民に指針を示したものでした。戦後日本のありようを反省し、日本の再建を進めるために、折に触れて再確認すべき原点であると思います。
 以下、原文とともに、語句解釈と現代文訳を掲載します。

●原文

 朕深ク 世界ノ大勢ト 帝國ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ 時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ 忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ 帝國政府ヲシテ 米英支蘇 四國ニ對シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨 通告セシメタリ
 抑々 帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ 萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遣範ニシテ 朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二國ニ宣戦セル所 以モ亦 實ニ帝國ノ自存ト 東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ侵カス如キハ 固ヨリ朕カ志ニアラス
 然ルニ 交戰巳ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海将兵ノ勇戰 朕カ百僚有司ノ勵精 朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ盡セルニ拘ラス 戰局必スシモ好轉セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之 敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル 而モ 尚交戰ヲ繼續セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
 斯ノ如クムハ 朕何ヲ以テカ 億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ 是レ 朕カ帝國政府ヲシテ 共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ 朕ハ 帝國ト共ニ 終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
 帝國臣民ニシテ 戰陣ニ死シ 職域ニ殉シ 非命ニ斃レタル者 及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内為ニ裂ク 且 戰傷ヲ負ヒ 災禍ヲ蒙リ 家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ
 惟フニ 今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ 固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情モ 朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ 時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ為ニ 太平ヲ開カムト欲ス
 朕ハ茲ニ 國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若シ夫レ 情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排儕 互ニ時局ヲ亂リ 為ニ 大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム
 宣シク 擧國一家子孫相傳ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ 志操ヲ鞏クシ 誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ 爾臣民 其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

 裕仁

●読み下し

 朕(ちん)深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる爾(なんじ)臣民に告ぐ。
 朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。
 そもそも帝国臣民の康寧を図り、万邦共栄の楽をともにするは、皇祖皇宗の遺範にして、朕の拳々措(お)かざる所、先に米英二国に宣戦せるゆえんも、また実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに出て、他国の主権を排し領土を侵すか如きは、固(もと)より朕が志にあらず。
 然るに交戦すでに四歳(しさい)を閲(えっ)し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司(ひゃくりょうゆうし)の励精、朕が一億衆庶の奉公、各ゝ最善を尽せるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず。
 しかのみならず敵は新に残虐なる爆弾を使用して、しきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。而も尚、交戦を継続せんか終(つい)に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。
 斯(かく)の如くんば朕何をもってか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れるゆえんなり。朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し職域に殉し非命に斃(たお)れたる者及びその遺族に想を致せば、五内(ごだい)為に裂く。且つ戦傷を負い災禍を蒙(こうむ)り家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。
 おもうに今後帝国の受くべき苦難は、固(もと)より尋常にあらず。爾臣民の衷情(ちゅうじょう)も朕よくこれを知る。然れども朕は時運の趨(おもむ)く所、堪ヘ難きを堪ヘ、忍び難きを忍び、もって万世の為に太平を開かんと欲す。
 朕はここに国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常に爾臣民と共に在り。若(も)し夫(そ)れ情の激する所、濫に事端を滋(しげ)くし或は同胞排擠(はいせい)互に時局を乱(みだ)り、為に大道を誤り信義を世界に失うが如きは、朕最もこれを戒(いまし)む。
 宜(よろ)しく擧国一家子孫相伝ヘ確(たしけ)く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし志操(しそう)を鞏(かた)し、誓て国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。爾臣民それ克(よ)く朕が意を体せよ。

裕仁(ひろひと)

●語句解釈

 朕(ちん)=天皇の自称。ここでは昭和天皇のこと。
 共同宣言=ポツダム宣言。
 拳々措(お)かざる=常に慎み願ってやまない
 庶幾=一途にこい願うこと。
 百僚有司=多くの官僚、官吏。
 億兆の赤子=我が子のように思う多数の国民
 無辜(むこ)=罪のない民間人
 五内(ごだい)=5つの内蔵(心臓、肝臓、肺臓、腎臓、脾臓)
 軫念(しんねん)=天皇が深く心を痛めること。心配すること。
 赤誠=少しも嘘偽りのない誠の心。
 信倚(しんい)=信じ頼ること。
 事端を滋(しげ)くし=事を多く起こし
 同胞排擠(はいせい)=他を押しのけたり、陥れたりすること。
 志操=堅く守って変えない志。
 裕仁=昭和天皇の名前。

●現代文訳

 私は世界の大勢と我が国の現状を深く考え、非常の措置をもって現下の情勢を収拾しようと思い、忠実で善良なるあなた方国民にお知らせする。
 私は、米国・英国・中国・ソ連の4国に対して、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れることを、日本国政府に通告させた。
 そもそも、わが国民の平穏安寧を図り、世界各国が共に繁栄する楽しみをともにすることは、皇室の祖先が残した規範であり、私が常に慎み願ってやまないことであって、以前に米英の2国に宣戦した理由も、真に我が国の自存と東アジアの安定とを一途に望んでいたからであり、他国の主権を排除したり、領土を侵略したりするようなことは、もとより私の思いではない。
 ところが戦争を始めて4年の歳月が経過し、私の陸海軍将兵の勇戦、私の官僚の精励、私の国民の奉公、おのおのが最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は好転しないばかりか、世界の大勢もまた我が国には不利な状況である。
 それだけではなく、敵は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使用して、しきりに罪もない民間人を殺傷し、惨害の及ぶ状況は、じつに測りきれないほどである。
 しかもこのまま交戦を続けたとしたら、ついには日本民族の滅亡という事態を招くだけではなく、ひいては人類の文明も破壊され尽くすことになる。
 そのようなことになれば、私はどのようにして我が国民を守り、皇室の祖先の霊に謝罪すればよいのだろうか。
 このような思いによって、私は日本国政府に共同宣言に応じさせることにしたわけである。
 私は我が国とともに、終始東アジアの解放に協力してくれた各国に対して、遺憾の意を表さなければならない。
 わが国民のうち、戦死したり、殉職したり、不慮の災難に倒れた者たち、そしてその遺族のことを思うと、はらわたが引き裂かれんばかりの思いである。かつ、戦傷を負い、戦災をこうむり、家業を失った者たちの健康や生活について、私は深く心を痛めている。
 思うに、今後の日本が受ける苦難は、言うまでもなく尋常なものではない。あなた方国民の心のうちは、私はよくわかっている。しかし私は時運の赴くところ、堪え難いことにも堪え、忍び難いことをも忍んで、将来のために太平の世を開こうと思う。
 私はここに、国体を護持することができて、忠実で善良なるあなた方国民の誠の心を信頼し、常にあなた方国民と共にあるものである。
 もしあなた方が、激しい感情によって、むやみに事を起こしたり、あるいは国民同士で陥れ合い、互いに情勢を乱れさせ、そのために国家として進むべき道を誤って、世界に対して信義を失うようなことは、私が最も戒めたいことである。
 どうか、国を挙げ、一家みなで、子孫にまで、この私の思いを伝えて欲しい。また神国日本の不滅をかたく信じ、責任は重く道は遠いと思うが、総力を将来の建設に傾け、道義を篤く行い、志を堅く持ち、誓って我が国体の美しい特色を発揮して、進歩発展する世界に遅れを取るまいという決意を持って欲しい。
 あなた方国民は、どうか私の真意を理解・体得して欲しい。

 次回に続く。

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日本の心142~御聖断に込められた願い:昭和天皇5

2022-07-15 09:00:33 | 日本精神
 大東亜戦争末期の昭和20年8月9日、昭和天皇は、御前会議において、終戦の御聖断を下しました。『昭和天皇独白録』で、天皇は次のように述べています。
 「開戦の際、東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下における立憲君主としてやむを得ぬ事である。若(も)し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之(これ)は専制君主と何等異なる所はない。終戦の際は、然(しか)し乍(なが)ら、之とは事情を異にし。廟議(ちょうぎ)がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のままその裁断を私に求めたのである。そこで私は、国家、民族のために私が是なりと信じる所に依(よっ)て、事を裁いたのである」(註 1)
当時、侍従長だった藤田尚徳(ひさのり)海軍大将は、天皇がその時の心中を次のように語ったと伝えています。
 「…その時には終戦か、戦争継続か、両論に分かれて対立し、議論が果てしもないので、鈴木(貫太郎、当時の首相)が最高戦争指導会議で、どちらに決すべきかと私に聞いた。ここに私は、誰の責任にも触れず、権限をも侵さないで、自由に私の意見を述べる機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予(かね)て考えていた所信を述べて、戦争をやめるようにさせたのである。……この場合に私が裁決しなければ、事の結末はつかない。それで私は、この上、戦争を継続することの無理と、無理な戦争を強行することは皇国の滅亡を招くとの見地から、胸の張り裂ける想いをしつつも裁断を下した。これで戦争は終わった。…」(註 2)
 もしこの時、天皇が御聖断を下さなかったら、わが国はどうなっていたでしょうか。
 8月6日、広島に人類史上初めて、原子爆弾が投下されました。さらに9日には、長崎に2発目の原爆が投下されました。沖縄を既に手中に収めていた連合国軍は、9月の末か10月の初めには南九州に上陸する計画でした。ついで10月か11月には関東地方に上陸を敢行する計画も立てられていました。また、9日未明には、日ソ不可侵条約を一方的に破って、ソ連軍が雪崩のごとく満州や樺太に侵入してきました。終戦を急がなければ、ソ連軍は、北海道に侵攻し占領していたでしょう。やがては本州にも上陸したに違いありません。
 当時、軍部は徹底抗戦を主張していました。それゆえ、もし天皇がここで終戦を決断しなければ、軍部は本土決戦に臨んだでしょう。国民は「一億玉砕」という軍部とマスコミの扇動に操られていました。その戦いは、数十万、数百万の犠牲者を生んだに違いありません。さらに、国土は徹底的な破壊を受けたことでしょう。また恐らく日本は四分五裂の状態となり、連合国軍によって分割占領されて、南北朝鮮や東西ドイツのような分裂国家の悲惨を味わうことになったでしょう。最悪の場合には、日本という国自体が消滅していたかも知れません。 
 そのような悲劇を避けえたのは、ひとえに昭和天皇の御聖断によっているのです。「民の父母」である天皇以外に、この戦いを納められる人間は、他にいなかったのです。
 昭和天皇は、終戦を決断した時の心境を、次の歌に詠んでいます。

 爆撃に たふれゆく民の うへをおもひ
  いくさとめけり 身はいかならむとも

 身はいかに なるともいくさ とどめけり
  ただたふれゆく 民を思ひて

 自分の身はどうなっても、国民を救わなければならないーーこのような天皇の必死の思いによって、終戦の御聖断は下されたのです。
 御聖断に従って、わが国は8月10日にポツダム宣言の受諾を連合国に通告し、12日に回答が届きました。そこには「日本政府の形態は、日本国民の自由意思により決定されるべき」という一文がありました。天皇は14日に閣僚全員を召集し、御前会議が開かれました。
 陸軍大臣、参謀総長、軍令部総長らは、連合国の回答の主旨に疑いを持ちました。もし国体の護持、即ち天皇の地位の安泰という条件が受け入れられなければ、受諾できないと訴えました。ところが天皇は、静かに口を開くと、「国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えない。要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思う。そのまま、受諾してよいと考える」と述べました。この天皇の意思に従って、ポツダム宣言の受諾が決定されました。
 終戦について、天皇は自ら全国民に呼びかけたいと望み、マイクの前に立ちました。8月15日、玉音放送で、終戦の詔書が全国に放送されました。直接国民に呼びかける天皇の言葉に、全国の国民は泣き崩れました。一部には、なお抵抗を主張する人もありました。しかし、御聖断の主旨は、国内はもちろん、海外の戦地にいた軍人においても、守られました。天皇の呼びかけに従って、日本軍は静かに降伏し、国民が整然と行動しました。その姿は、世界の人々を驚かせました。
 昭和天皇は「国民全体の信念と覚悟」を信じていました。こうした天皇の下で、国民は敗戦という事実を受け容れ、苦難を乗り越え再起を図ることを誓ったのです。


(1)『昭和天皇独白録』(文春文庫)
(2)藤田尚徳著『侍従長の回想』(中公文庫)

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