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ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

日本の心131~炎の言論、軍の暴走に警鐘:斎藤隆夫

2022-06-22 08:21:23 | 日本精神
 昭和12年7月、支那事変が勃発し、紛争は泥沼化しました。国民はいつ終わるとも知れぬ事態に不安と疑問を感じていました。そうしたなか、衆議院議員・斎藤隆夫が国会で質問に立ちました。昭和15年2月2日、斎藤の演説があるというので、傍聴席は超満員となりました。静まりかえった議場で、斎藤は「支那事変処理に関する質問演説」を行いました。
 「‥‥一体支那事変はどうなるものであるか、何時済むのであるか、何時まで続くものであるか。政府は支那事変を処理すると声明して居るが、如何に之を処理せんとするのであるか、国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、此の議会を通じて聴くことが出来得ると期待しない者は恐らく一人もないであろう」
 斎藤の堂々たる弁論は、拍手喝采を浴びました。斎藤は欧米のキリスト教国の実態について触れながら、次のように弁じました。
 「彼等は内にあっては十字架の前に頭を下げて居りますけれども、一たび国際問題に直面致しますと、基督(キリスト)の信条も慈善博愛も一切蹴散らかしてしまって、弱肉強食の修羅道に向かって猛進する、是が即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります。
 此の現実を無視して、唯(ただ)徒(いたずら)に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯くの如き雲を掴(つか)むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない」
 この歴史に残る名演説に、全国から激励の手紙が寄せられました。しかし、軍は斎藤を激しく非難しました。政治家は軍の攻撃を恐れて、斎藤を代議士除名とし、事態を収拾しようとしました。
 実のところ、斎藤の演説は、決して「反軍演説」というようなものではありません。先ほどの引用の直前の部分で、次のように述べているからです。
 「国家競争は道理の競争ではない。正邪曲直の競争でもない。徹頭徹尾力の競争である。(略)国家競争の真髄は何であるか。日く生存競争である。優勝劣敗である。適者生存である。適者即ち強者の生存であります。強者が興って弱者が亡びる。過去数千年の歴史はそれである。未来永遠の歴史もまたそれでなくてはならないのであります。この歴史上の事実を基礎として、我々が国家競争に向かうに当りまして、徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ。自国の力を養成し、自国の力を強化する、これより他に国家の向うべき途はないのであります。」と。
 この部分は、議会議事録から削除されたのですが、一体どこに問題があるというのでしょう。反軍でも軍備放棄でもなく、国際政治のリアリズムを述べているに過ぎません。斎藤がいわんとしているのは、弱肉強食・優勝劣敗という当時の国際社会の現実を冷静に見すえ、大勢に押し流されずに、政治が軍事をコントロールしていくことでした。そして、「聖戦の美名に隠れて」、戦争目的のあいまいなまま、現実的な見通しもなく、ずるずると戦線を拡大していってはならないと、警鐘を鳴らすものだったのです。
 ところが、3月7日に議会で斎藤議員除名動議が出されました。議員の3分の1が棄権しながらも、賛成大多数で、斎藤は衆議院除名処分となりました。それは、政治家自らが言論を自主規制し、軍部に迎合することでした。前年、首都を揺るがした2・26事件の後、政治家の多くは軍部・右翼のテロを恐れて正しい勇気を失いつつあったのです。
 斎藤が議席を失った昭和15年の秋、10月12日にすべての政党は解党して、「大政翼賛会」が成立しました。「大政翼賛会」は、ナチスの一党独裁体制を模倣したものです。昭和天皇は、これは「幕府」のようなものではないか、と憂慮されました。「幕府」とは、天皇から実権を奪うものということかと思われます。ここに明治・大正以来の日本的デモクラシーは事実上、終焉に至りました。
 その後、言論統制は一層厳しくなり、軍部は暴走を続け、我が国は自滅への道をひた走りに走りました。日中の紛争を解決できないまま、日本は米英との戦争に突き進み、終にわが国は焦土と化しました。
 敗戦のどん底で、国民が塗炭の苦しみを味わっていた昭和20年の9月。斎藤は新政党の創立をめざしていました。75歳の斎藤は老骨に鞭打ち、国民に檄(げき)を飛ばしました。
 「我々は戦争に敗けた。敗けたに相違ない。併(しか)し戦争に敗けて、領土を失い軍備を撤廃し賠償を課せられ其の他幾多の制裁を加えらるるとも、是が為に国家は滅ぶものではない。人間の生命は短いが、国家の生命は長い。其の長い間には叩くこともあれば叩かることもある。盛んなこともあれば衰えることもある。衰えたからとて直ちに失望落胆すべきものではない。
 若し万一、此の敗戦に拠って国民が失望落胆して気力を喪失したる時には、其の時こそ国家の滅ぶる時である。それ故に日本国民は、茲(ここ)に留意し新たに勇気を取り直して、旧日本に別れを告ぐると同時に、新日本の建設に向って邁進せねばならぬ。是が日本国民に課せられたる大使命であると共に、如何にして此の使命を果たし得るかが今後に残された大問題である」 
 斎藤隆夫のいう「日本国民に課せられたる大使命」を、戦後日本人はどこまで果たせたでしょうか。占領政策による足かせをはめられたまま、「第2の敗戦」といわれる経済戦争にも敗れた日本は、さらに少子高齢化などの問題を抱えています。国民を拉致され、領土を侵されても、政府はなお謝罪外交を繰り返しています。「失望落胆」している人は少なくないでしょう。しかし、時勢に押されて現状をあきらめ、国民が「気力を喪失」したならば、戦前と同じ自滅の道を進むことになります。気骨の政治家・斎藤隆夫の檄を思い起こし、日本の危機を乗り越えるために、日本の元気を奮い起こしましょう。

参考資料
・草柳大蔵著『斎藤隆夫 かく戦えり』(絶版)
・松本健一著『評伝 斎藤隆夫』(東洋経済新報社)

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
 『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
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日本の心130~岡田啓介の右腕となって活躍:迫水久常

2022-06-20 08:08:17 | 日本精神
 東条英機と対決し、日本を終戦に導いた岡田啓介には、右腕がいました。迫水久常(さこみず・ひさつね)です。
 迫水久常は、戦前から「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁の教えを受け、戦後もその教えに従って国家・社会のために努めた人物です。
迫水は、海軍大将岡田啓介の娘婿でした。優秀な大蔵官僚だった彼は、昭和9年に岡田が首相となると、秘書官に任ぜられました。そこから、岡田の分身としての彼の活躍が始まります。
 昭和11年(1936)2月26日、青年将校を中心とする約1400名の兵士が反乱を起こしました。2・26事件です。時の首相は、岡田啓介でした。新聞は、首相官邸が襲われ、岡田は即死と報じました。岡田の死亡確認のため官邸に行った迫水は、遺体の顔を見て絶句しました。横たわっているのは、岡田の妹の夫、陸軍大佐の松尾伝蔵だったのです。反乱軍は相貌が岡田によく似た松尾を、岡田と思い込んでいたのです。 
 この時のことを、迫水は次のように回想しています。「全く千古の謎というより外申し上げる言葉もありません。亡くなった松尾は、私にとっては妻の関係から叔父に当たりますし、殊に私の妹がその倅(せがれ)に嫁いでいるので、私自身も何時も『叔父さん』と呼んでいました。義父(岡田啓介)が亡くなったと思ったのが叔父になったのですから、私としては嬉しいんだか悲しいんだか判りません」と。
 岡田が生きていることを知った迫水は、岡田救出に動きました。岡田は、女中の機転で女中部屋の押入れに潜んでいました。迫水らは、葬儀のため首相官邸に入ると、岡田を弔問客に見せかけて反乱軍の目を欺き、車で連れ出しました。命がけの救出劇でした。
 その5年後、大東亜戦争が勃発すると、岡田は東条英機政権打倒に立ち上がりました。迫水は、憲兵の監視の目が光るなか、岡田の意向を受けて、重臣や閣僚を反東条へと誘導しました。その甲斐あって、東条は退陣に至りました。
 昭和20年4月、岡田が推す鈴木貫太郎が首班となりました。鈴木の密命は、昭和天皇の意思に応えて、戦争を終結させることでした。岡田は、鈴木の秘書役である内閣書記官長(現在の官房長官)に、迫水を送り出しました。鈴木は、徹底抗戦を唱える陸軍・強硬派を欺きながら、終戦の「玉音放送」にこぎつけるまで、4ヵ月間、生死を賭けて使命を全うしました。この間、迫水は、岡田の指示を受けつつ、鈴木を補佐しました。終戦に関する実務作業は、すべて迫水が行ったといわれます。
 迫水は当時のことを次のように書いています。「ふと、銀座の電柱に大きな張紙がしてあって、『日本のバドリオを殺せ 。鈴木、岡田、近衛、迫水を殺せ』と書いてあるのを見てよい気持ちはしなかった。しかし、私には住むべき家がない。家内は、中風で身体の不自由な私の老母を擁して、 五人の子供とともに新潟県新発田の在に疎開していた。一先ず、世田谷の岡田啓介大将の家に行った。鈴木内閣成立後、私はほとんど毎夜、ここで岳父に会って、指導を受けた。終戦工作の大部分は、岡田大将の指導によったものといっても過言ではない」と。
 和平への努力は遂に実りました。昭和20年8月15日、昭和天皇は、ラジオで直接、国民に終戦を告げました。この時に天皇が読んだ終戦の詔書は、書記官長の迫水が起稿に当たりました。
 「絶対に詔書に書き入れなければならない個所というのは、まず第一に、陛下は忍びがたいことも忍ばねばならないとおっしゃっている。これからの日本の進んでいく道は苦しいだろうが、陛下もその苦しみをともに耐えていこうという意味だから、このお気持ちはぜひとも生かさねばならない」。
 その思いが「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」(原文)という一節に表現されました。迫水は草稿を作り、碩学(せきがく)として名高い安岡正篤(まさひろ)の添削を受けました。成案ができた詔書は、天皇の裁可を受け、天皇自身によって吹き込まれ、全国に放送されたのです。
 迫水久常は、戦前から、「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁の教えを受けた、時の指導層の一人でした。戦後は参議院議員を長く勤め、経済企画庁長官・郵政大臣等を歴任しました。昭和43年6月、大塚総裁が、日本精神復興促進会を設立した際には、設立発起人の一人として名を連ねました。そして終生、大塚総裁への尊敬を持ち続け、その教えを国政に生かすことに努めました。
 迫水が残した著書・談話は、時代を物語る第一級の証言集です。

参考資料
・迫水久常著『機関銃下の首相官邸』(恒文社)

 次回に続く。

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 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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日本の心128~陸軍にあって和平を希求:宇垣一成

2022-06-16 09:20:04 | 日本精神
 大塚寛一先生は、「明けゆく世界運動」の創始者にして総裁です。大塚総裁は、戦前、『大日本精神』と題する建白書を、毎回千余通、時の指導層に送付しました。大塚総裁の建言に耳を傾け、国政に努力した指導層の一人に、陸軍大将・宇垣一成がいます。

●陸軍を抑える実力者との期待

 宇垣は、陸軍軍人には珍しく高い識見をもち、つねに国家の進路を見つづけた人物でした。戦前、彼は独断専横の陸軍を抑え、シナ事変を解決し、対米戦争を回避できる実力者として期待を集めました。幾度も首班候補に挙げられたほどでした。
 宇垣は大正期に長く陸軍大臣を務め、陸軍の四個師団削減と軍備近代化を成し遂げました。昭和5年(1930)1月、ロンドン軍縮会議が開かれた時には、閣僚の一人として、海軍軍縮条約の批准を促進しました。しかし、時の首相・浜口雄幸は襲撃され、重傷。軍部は統帥権干犯を唱えて政府に反発し、以来、わが国にテロリズムが横行するようになりました。中でも陸軍の一部が反乱を起こした2・26事件は、全国を震撼させました。事件後、陸軍では統制派が主導権を握りました。そして政治の主眼は、この陸軍の抑制か陸軍との協調に置かれました。ここにおいて陸軍を抑えられる者として期待をされた人物こそ、宇垣なのでした。
 昭和12年1月、昭和天皇より、宇垣に首相指名の大命が下されました。宇垣は、中国との紛争の早期解決に情熱を持っていました。ところが、陸軍では石原莞爾ら反宇垣派が、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍大臣を出しません。そのため、宇垣は組閣ができず、大命拝辞に追い込まれました。期待の宇垣内閣は流産に終わったのです。
 この時、宇垣の側近・林弥三吉(やさきち)中将が、新聞記者に談話を発表しました。林は、宇垣の考えを伝えたわけです。「軍は陛下の軍であるが、過般来の行動は、陛下の軍の総意なりや、問わずして明らかであります」「自分の大命拝辞後の軍の成り行きおよび君国の前途は、痛心にたえざるものがあります。私はいま、ファッショか日本固有の憲政かの分岐点に立っていると信じます」と。ところが、林談話は、同じ陸軍によって新聞への掲載が禁止されたのです。
 宇垣内閣流産に、無所属の代議士・田川大吉郎は、衆議院議長・富田幸次郎を訪問しました。田川は、“憲政の神様”尾崎行雄の代理として、次のように伝えました。「現下の時局に対し、宸襟(しんきん=天皇の心)を悩まし奉ることはまことに恐懼(きょうく)にたえない。今日は憲政の危機であり、さいわい議会も開かれていることだから、議会において憲政並びに時局に対する国民の意思を発表することにしたい。これが議会当然の義務と思うから、民政・政友両党に交渉していただきたい」と。しかし、議会も政党も、この重要な危機に、積極的に動こうとはしませんでした。テロを恐れていたからです。
 宇垣内閣への妨害・不成立は、憲政の大きな曲がり角でした。これ以後、陸軍を中心とするファッショ的な運動が日本を支配していきます。
 もし宇垣内閣が成立していたら、日本の進路は変わっていたことでしょう。宇垣は命がけで陸軍を正常に戻し、中国問題を解決しようと決意していたからです。しかし、それは成りませんでした。そして、この年7月8日、廬溝橋事件が勃発。わが国は、コミンテルンの戦略による中国共産党の謀略にはまり、紛争は長期化しました。昭和13年1月に近衛文麿首相は、「爾後国民政府を対手とせず」という第1次近衛声明を出しました。戦争をしている相手国の正統政府を相手としなければ、戦争を終らせることは不可能です。こうして日本は戦争目的不明の泥沼の戦争に引きずり込まれていきました。 
 宇垣は、この事態をなんとかしようと考えていました。彼にチャンスが訪れました。昭和13年5月、近衛内閣の外務大臣に就任したのです。宇垣は支那事変の解決に情熱を燃やし、和平工作を行いました。そして、蒋介石の国民政府の行政院長・孔祥熙を相手とする会談を進める方針を決めました。ところが、9月に入り、近衛が新聞記者会見で「蒋介石を相手とせずという帝国政府の方針は終始一貫不変である」と声明しました。これは宇垣の和平交渉を抹殺するものでした。また、軍部と外務省の一部は和平交渉に反対し、支那事変処理の仕事を外務省から別に移すために、興亜院を設立することを提案。近衛は、これに賛成しました。またも、宇垣への裏切りでした。憤った宇垣は、外相を辞任。「事変の解決を自分に任せるといっておきながら、今に至って私の権限を削ぐような近衛内閣に留まり得ない」と宇垣は語りました。
 宇垣の和平交渉は頓挫し、わが国は支那事変の解決のチャンスを失い、大陸で泥沼の消耗戦に陥っていきました。誠に残念なことでした。以後、反宇垣派が主導する陸軍は暴走を続け、わが国を危険な方向へ誤導したのでした。

●反東条派が擁立工作

 「宇垣一成を首相に」という宇垣待望論が、戦前、繰り返し現れました。宇垣擁立をめざして行動した者の一人に、戦後首相となった外務官僚・吉田茂がおり、また一人に、当代随一の雄弁を誇る代議士・中野正剛がいました。
 吉田茂はいわゆる英米派の外交官でした。昭和5年(1930)のロンドン軍縮会議のとき、吉田は外務次官として、陸軍大臣の宇垣とともに軍縮を推進しました。吉田は以来、宇垣を深く信頼していました。
 吉田は、昭和14年3月に駐英大使を辞めて帰国すると、独伊と図って英米を敵視する時勢を憂え、日米開戦回避に奔走し、宇垣擁立を工作しました。東条英機の登場によって、大東亜戦争が開始された後も、吉田は擁立工作を止めませんでした。
「明けゆく世界運動」の創始者・大塚寛一総裁は、昭和14年9月に『大日本精神』と題する建白書を送付し始めました。建白書は、毎回千余通、時の指導層に送付されました。その中に、宇垣が含まれていたことは言うまでもありません。宇垣は大塚総裁の建言に耳を傾けました。側近の林中将もまた総裁に意見を求めました。
 昭和17年9月、吉田茂は宇垣の意見書を預かり、元首相・近衛文麿に渡しました。宇垣の意見書は、欧州と中国に実情視察の名目で有力な使節を派遣して、戦争終結を図るものでした。欧州には近衛を先頭に吉田ほかで中立国スイスに乗り込み、そこで各国各界の士と広く接触を図り、和平への道を探る。中国へは蒋介石の恩人たる頭山満を派遣する。「行け」と言われれば宇垣もその随員に加わる、というものでした。また、敗色が濃厚になった20年1月には、吉田は近衛を動かして、天皇に戦争終決の上奏文を提出します。しかし、吉田の動きは憲兵隊の知るところとなり、この年の4月、遂に吉田は逮捕されました。終戦まであと4ヶ月という時期でした。
 吉田は宇垣にあてて約30通の書状を出していますが、その内容はいずれも国を思う熱情に満ちており、宇垣への傾倒を示しています。吉田は和平を希求し、日米開戦回避、早期終戦、日中関係正常化のために、宇垣宰相を期待したのです。
 宇垣擁立のために行動したもう一人の人物が、中野正剛です。中野はジャーナリストとして活躍した後、34歳で代議士になりました。中野は学生時代に玄洋社の頭山満と出会い、その感化を受けました。また、三宅雪嶺の『日本及び日本人」に学生時代から寄稿し、雪嶺の娘と結婚しました。仲人は頭山でした。
 中野はアジアの民族自決を目指す東方会を興しますが、一時、独伊のファッショ思想の影響を受け、三国同盟を推進し、米英決戦を唱導していました。しかし、開戦後は、自分の意見を改めました。昭和17年4月の翼賛選挙では、中野の東方会は、東条のファッショ的な候補者推薦制度を批判し、非推薦で選挙戦に臨み、激しく反対意見を投げつけました。これに対し、東条が言論統制を強化し、中野らを圧迫するようになると、「東条のやり方は間違っとる。これでは、国を誤った方向へ導く」「たとえ結果の上で敗れても、軍事独裁と闘う議会人がいたことを、歴史の上にとどめたいのだ」――そう決意して中野は、東条に挑戦しました。ヒトラーやムソリーニと決別した中野は、日本精神を取り戻し、楠木正成や西郷隆盛を尊敬する日本人となっていたのです。
 中野は昭和18年元日、新聞紙上に『戦時宰相論』を発表し、古今東西の宰相を例に引いて間接的に東条首相を批判しました。これは発禁処分にされました。当時、元首相・岡田啓介は、重臣会議によって東条を退陣に追い込もうと考えていました。これを受けて中野が構想を練り、行動を起こしました。中野の方針は、重臣を説いて東条を倒し、その後に宇垣政権を作るというものでした。彼らの根回しにより、同年18年8月、宇垣・近衛会談が行われ、宇垣と近衛は、東条退陣と宇垣内閣実現を約束し合いました。しかし、重臣らはいざとなると東条に退陣を迫ることができません。そこで中野は、さらなる工作を進めました。東条はその動きを察知。中野は逮捕され、憲兵の取り調べを受けました。釈放はされましたが、中野は、「皇族・重臣に迷惑を及ぼしてはならない」「ここまで闘って、刀折れ矢尽きた」と感じました。そして、10月27日、自決する道を選びました。
 その後、岡田らの努力は、ようやく功を奏し、昭和19年7月に東条内閣を総辞職に追い込みました。代わった小磯国昭首相は宇垣に入閣を求めました。しかし、宇垣はこれを断りました。「今さら尻ぬぐいの担当者でもあるまい」と考えたのです。中国との紛争の解決を願う宇垣は、自由な立場で問題解決に助力したいと言いました。そして、9月から1ヶ月間、中国を視察し、その結果を小磯首相らに報告しました。宇垣は、全権使節を派遣して重慶側と交渉し、日本軍は揚子江以北に撤収するという提案をしました。しかし、採用はされませんでした。日本は中国問題を解決できないまま、対米戦争を続けていったのです。
 戦後、東京裁判が行われ、戦勝国によってわが国の多くの指導者が裁かれました。昭和23年10月、判決を前に裁判が休止されていた時、首席検事ジョセフ・キーナンは、宇垣をティー・パーティに招きました。他に岡田啓介・米内光政・若槻礼次郎の3名が呼ばれ、キーナンは「日本における真の平和愛好者はあなた方4人である」と述べました。
 宇垣は、昭和28年4月の参議院通常選挙に全国区で立候補し、51万票を超える驚異的な大量得票を得て、最高点で当選しました。国民の間にも宇垣への期待があったのです。しかし、宇垣は結局、政治活動の場のないまま、31年4月、87歳で亡くなりました。
 陸軍にあって常に和平を希求した宇垣一成。戦前、彼がその和平政策を実行できたならば、わが国の進路は大きく変わっていたかも知れません。

参考資料
・渡邊行男著『宇垣一成』(中公新書)

 次回に続く。

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日本の心127~大東亜戦争は、こうすれば回避できた

2022-06-14 17:40:07 | 日本精神
 私は、大塚寛一先生の「大東亜戦争は戦う必要がなかった」「日本には厳正中立・不戦必勝の道があった」という希有な歴史観を学んできました。そうはいっても、日米開戦は避けられなかったのではないか、どうすれば避け得たのか、という質問があろうことと思います。浅学非才ではありますが、現時点での私なりの考えを記しておきたいと思います。

●ハル・ノートにどう対処すべきだったか

 昭和16年11月26日、ハル・ノートを突き付けられた時、日本の指導層はこれを最後通牒と解し、対米決戦へと歩を進めました。ポイントは、中国から撤退すべしという要求の範囲に満州を含むと受け留めたことです。しかし、ハル・ノートは満州を含むか否か明示していませんでした。この点を問いただして、外交交渉を続ける余地があったのです。確認もしなかった日本の外交はずさんでした。
 昭和天皇は、最後まで対米開戦を望まず、外交による打開を求めておられました。指導層はその御心にどこまでも沿おうと考えるべきだったと思います。御心に背いて開戦を決定した東条の責任は大きいのです。
 近年、ハル・ノートの対応について傾聴すべき意見が出されています。まず小室直樹氏、日下公人氏の共著『太平洋戦争、こうすれば勝てた』(講談社、平成7年刊)から要点を引用します。

 小室: 戦争をしない方法の「一番簡単なのは、ハル・ノートを突き付けられた時に『はい、承知しました』って言ってしまえばよかった。そうすれば戦争をする必要は無かった」
 日下: 「実行はズルズル将来へ伸ばせばいいんだから」
 小室: 「ハル・ノートには日程はついていなかったんだから」。「国際法の無理解」のため「ハル・ノートを理解できなかったから日本は対米戦争に突入した」
 日下: 「ハル・ノートの内容を世界に公開すべきでした」

 両氏の意見をさらに推し進めているのが、片岡鉄哉氏です。片岡氏は、戦後日本外交史の国際的な権威として名高い方です。氏は概略、次のように述べています。(『アメリカに真珠湾を非難する資格はない!』 月刊誌『正論』平成11年10月号)
 「日本にとって勝つとは、戦争を回避することだった。そのために政府は手段を選んではならなかった。名誉ある不戦を求めて手段を選んではならなかった。‥‥日本政府は、その最後通牒の内容を暴露すべきだった。ルーズベルトが、ハワイの司令官にも、誰にも知らせないで、最後通牒を出した事実を暴露すべきであった。‥‥ルーズベルトは真珠湾攻撃を両院議員総会で発表して、メディア・イヴェントにしたが、あれくらいの派手なことをやって、誰が戦争を求めているのかを、全世界に印象付けるべきだった。…」
 実はハル・ノートを突き付けられた後、挑発に乗らず、あくまで戦争を避けるべきだという意見が、日本の指導層の一部にはあったのです。この時、ポイントは独ソ戦の情勢判断でした。ここで正確な情勢判断をしていれば、「不戦必勝」の道を進むことは可能だったと私は考えます。再び小室氏・日下氏の共著から要点を引用します。
 日下: 「ハル・ノートが出た頃、ソ連に攻め込んでいたドイツ軍の進撃が、モスクワの前面50キロというところで停止したんです。そのことは、大本営もわかっている。ただ、大本営は『この冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる』と考えていた。『本当に大本営はそう思っていたんですか』って瀬島さん(=龍三、元大本営参謀)に聞いたら、『思っていた』と。
 その頃、『これでドイツはもうダメだ』という駐在記者レポートが各地から来ていた。イギリスにいた吉田茂(大使、のちの首相)も、ダメだと見ていた。それなのに、ベルリンからのだけ信用した。そりゃあ、ベルリンの大島浩(大使)はヒトラーに懐柔されちゃっているから、いいことしかいわない。それを信じたのです。…
 瀬島さんに聞いたんです。『もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか』って。そうしたら『日下さん、絶対そんなことありません。私はあの時、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやると言う人なんかいません。その空気は、私はよく知っています』と」
 以下は私の推測です。わが国は、独ソ戦の戦況を冷静に見極めて、百害あって一利なき三国軍事同盟を破棄すべきでした。そして、泥沼に陥った中国本土や、欧米を刺激する仏印からは撤退するが、満州国は堅持するという方針で対米交渉を続けていけば、そのうち国際関係のバランスが崩れ、欧米列強が相打つ戦況が展開しただろうと思います。そして、わが国は、ルーズベルトの挑発やスターリンの思惑に乗らずに、無謀な対米開戦を避け得る道筋が開けたと思います。
 米内光政大将の言葉を借りれば、一時的に「ジリ貧」にはなっただろうが「ドカ貧」にならずに済み、やがてわが国は英米の信用を回復し、大塚先生の言われるように、満州や朝鮮・台湾を失うことなく、無傷のまま発展を続ける道を進むことが出来たと思います。今後、小室氏・日下氏・片岡氏に続く碩学が現われ、こうした推測を裏付け、また是正してくれるだろうと期待しています。

●三国同盟と日本の進路

 話が後先になりますが、20世紀の日本の運命を大きく左右したものに、日独伊三国軍事同盟があります。三国同盟は、昭和15年9月に締結されました。これが米英に敵愾心を抱かせ、経済制裁を招き、遂にわが国は米ソの策略に引っかかって、無謀な戦争に突入してしまいました。
 大塚寛一先生によると、実は世界的に見て、その前に重要な時期がありました。昭和11年のスペイン動乱です。この内戦は、第2次大戦の前哨戦といわれ、英仏独伊ソの思惑が交錯した国際紛争でもありました。この時が、ヒトラーの行動をよく観察できる好機でした。大塚先生は、ここで彼の野望を見抜いてドイツと防共協定を結ばず、ソ連とは中立を厳守していれば、やがて欧州で英・ソ対ドイツの間で大戦が勃発し、これにアメリカも参戦する展開になっただろうと説かれています。大戦になれば、米英は援蒋政策を行う余裕はないから、日本はシナと共存共栄の道を進むことが可能となったでしょう。
 次は、小室直樹氏が言っていることですが、シナ問題が解決すれば、日米摩擦の種はなくなったでしょう。当時、重化学工業中心に転換する段階に入った日本は、大不況の後遺症で苦しむアメリカから、技術・機械・施設などを輸入すればよかったのです。経済的要請という点では、日米の利害は一致していたのです。
 かえすがえすも残念なのは、ヒトラーの術中にはまったわが国の指導者の無明です。もともと三国同盟を提唱したのはドイツでした。昭和14年9月にポーランドに侵攻したドイツは、大戦を有利に進めるために、イギリスを敵国とする日独伊ソ四ヶ国同盟を構想したのです。まずイタリアが賛同しました。ソ連のスターリンも賛同の回答をしましたが、領土問題で折り合わず、逆に独ソ戦に発展したのです。
 反対を押し切って三国同盟を強引に進めた松岡外相は、三国同盟を改編し、ソ連を加えた四国同盟とし、その圧力を背景にアメリカとの国交を正常化し、シナ問題も解決するという案を持っていました。しかし、彼の考えがアメリカに通用するはずはありませんでした。
 昭和天皇は三国同盟には反対しておられました。天皇は次のように語ったと伝えられます。「同盟論者の趣旨は、ソ連を抱きこんで、日独伊ソの同盟を以て英米に対抗し以て日本の対米発言権を有力ならしめんとするにあるが、一方独乙の方から云はすれば、以て米国の対独参戦を牽制防止せんとするにあったのである」と。
 ドイツが最も警戒していたのは、欧州戦線にアメリカが参入することです。そこで、アメリカを太平洋に釘付けにしておくために、日本の海軍力をけん制に利用しようとしたのでしょう。さらに、戦況が不利になったときにも、日本を利用できると考えていたのではないでしょうか。
 昭和16年1月、広田弘毅は野村駐米大使の送別会で、次のように言ったといいます。「もし欧州戦争で、ドイツ側が不利となり、絶望的となった場合、ドイツは、自国の危機を脱するため、あらゆる手段を尽くして、日米を戦わしめるように動くだろう。この時こそ、日米戦争の起こる可能性があり、もっとも危険な時だ」と。6月22日、ヒトラーは独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連に侵攻し、ここに独ソ戦の火蓋が切られました。近衛文麿は、しばらくして「あのとき三国同盟を解消しておけばよかった」と後悔したといいます。広田も近衛も、それなりの見識を持っていながら、あいまいな行動をしたわけです。身体を張って軍部を抑えられる政治家が、いなくなっていました。
 この年、ロシアの冬は早かったのです。押し寄せる寒波に、ドイツ軍は苦戦しました。12月に入ると間もなく、スターリンが反攻を開始しました。この時、わが国の指導層は、的確な情報分析と冷静な外交判断ができず、米英との戦争に突入してしまいました。ハル・ノート突きつけられた時の対応については、先に書きました。日本の参戦は、結果として、イギリスを叩き、アメリカを引き付けたことによって、ドイツに助力するものとなりました。
 ヒトラーは翌年春、再びロシアに進撃しました。しかし、欧州戦争の「関が原」となったスターリングラードの攻防は、ドイツの敗退となりました。それが、ドイツの命運を分けたのです。わが国は、緒戦の電撃戦におけるドイツの勢いに幻惑され、ナポレオンも敗退した史実に深く学ばなかったわけです。
 私は、三国同盟は絶対締結すべきでなかったという考えです。しかし、締結してしまった以上は、米英とも同盟を結んで害悪を相殺して中立関係を築き、とりわけドイツへの加担というアメリカの懸念を晴らすのが、善後策だったと考えます。これは、大塚先生の「不戦必勝・厳正中立」の大策の一部をなす独創的な建言によります。こうすれば、アメリカは日本に石油を輸出してもドイツに回る恐れはないとして、輸出禁止は回避できただろうと思います。
 この善後策も採用されなかった場合は、次善の策として、独ソ戦の開戦時または遅くとも昭和16年11月26日のハル・ノート以後に、独ソ戦の展開を見極めて三国同盟を破棄すべきだったと思います。
 実際に、わが国の政府がやったことは、正反対でした。日米開戦後、その同じ月に、三国単独不講和確約を結びました。大戦の展開にかかわらず、日独伊は単独では講和を結ばないという約束です。昭和天皇は、次のように語ったと伝えられます。「三国単独不講和確約は、結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ」「この確約なくば日本が有利な地歩を占めた機会に和平の機運を掴むことがきたかも知れぬ」と。
 米英との開戦はまことに悔やむべきことでしたが、戦争を始めた以上、今度はこれを有利に終結するのが、政治の役割です。しかし、わが国の指導層は、日露戦争の時の先人の貴重な功績に学ばず、善戦している間に講和の機会をつくるという努力をしませんでした。まことに残念なことです。
 「覆水盆に帰らず」といいます。だが、歴史を振り返り、いろいろな道筋を考えてみることは、今日のわが国の進路を考える上で、思考を柔軟にする効果があると思います。

参考資料
・小室直樹+日下公人著『太平洋戦争、こうすれば勝てた』(講談社)
・『昭和天皇独白録』(文春文庫)

 次回に続く。

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日本の心125~日本的デモクラシーの旗手:尾崎行雄

2022-06-10 08:06:28 | 日本精神
 民主主義とは、デモクラシーの訳語です。デモクラシーは、「民衆が権力に参加する政治・制度」を意味します。これは、戦後初めてわが国に移植されたものではありません。明治天皇による「五箇条の御誓文」に、既にデモクラシーは打ち出されています。以後、明治・大正・昭和とわが国のデモクラシーは発達を続けていました。
 この三代を生きた日本的デモクラシーの旗手がいます。それが、「憲政の父」と仰がれる政治家・尾崎行雄です。
 尾崎は、青年時代に自由民権運動に参加し、大正期には大正デモクラシーの指導者の一人となって活躍しました。尾崎にとって、デモクラシーとは、「五箇条の御誓文」で示された、日本の伝統に基づく国是でした。「世論公議を尊重する政治形体、すなわち独裁専制の反対で、明治天皇が御即位の初めにあたり、『万機公論ニ決ス』と誓わせ給いたるわが皇道政治と異語同質のもの」、それがデモクラシーだと尾崎は書いています。
 明治天皇は議会を開き、憲法を定めました。そして、明治から大正・昭和と、憲法のもと国民が選挙によって代表を選んで政治を行う制度が定着・発達しました。ところが、昭和戦前期に、軍部が政治に介入するようになると、わが国の指導層から、明治天皇が示したデモクラシーの精神は見失われていきました。それは、日本人が日本伝統の精神を見失っていくことでもありました。そのことを強く憂えたのが、尾崎でした。
 大東亜戦争の開戦後、尾崎は、アメリカやイギリスを「鬼畜米英」とののしり国民の戦意を煽るマスコミに対し、武士道に反するものと批判しました。さらに尾崎は、東条英機の軍閥による強権政治に敢然と抵抗したのです。
 東条がファッショ的な翼賛選挙を推進すると、尾崎は昭和17年4月、『東条首相に与えた公開状』をもって東条を批判しました。『公開状』で尾崎は、翼賛選挙は「一種の選挙干渉」であり、議会を官選に等しくする「非立憲的動作」であるとし、すみやかに選挙干渉を止めるように要求しました。
 そして、尾崎は立候補の趣旨説明で、自分が選挙に立つ目的を明らかにしました。『最後の御奉公につき選挙人諸君に御相談』と題された一文で、尾崎は次のように述べています。「明治大帝が畢生(ひっせい)の御心労を以て、御制定遊ばされた憲法政治のために、身命を擲(なげう)つのが、最善にして、かつ最後の御奉公だと信じます」と。さらに尾崎は、帝国憲法は臣民の権利を保証しており、「自由主義の憲法だと申しても差し支えないのです」と言い、東条らのように「口をきわめて自由主義を悪罵することは、明治大帝や大正天皇を誹謗する事になりはしますまいか」と問いかけました。
 次いで尾崎は、自由主義の代議士・田川大吉郎の応援演説に立ちました。この演説は「尾崎行雄の天皇三代目演説」と呼ばれます。尾崎はこの演説で、明治天皇から三代目となる昭和天皇の御代になって、ますます日本は良くなったと天皇を称えています。ところが、この演説は東条をひどく怒らせました。演説の中で、尾崎が東条を痛烈に批判したからです。尾崎は、東条は翼賛体制によって実質的に憲法を棚上げし、ファッショ的な独裁政治を実現しようとしており、それは天皇を棚上げするに等しいと指摘したのです。この点が、東条の怒りをかったのです。東条の指示で、尾崎は不敬罪で起訴され、一審で有罪判決を受けました。尾崎は昭和天皇を称えているのですから、不敬罪とはおかしな話です。為政者の都合による全く不当な政治的判決でした。
 この頃、近衛や東条が企図した大政翼賛会は、「幕府のようなものだ」と強く警戒した人物がいました。誰あろう昭和天皇、その人でした。
 昭和天皇は、「五箇条の御誓文」と明治憲法を篤く尊重したことで知られます。昭和天皇は、明治天皇が示した日本の伝統に基づくデモクラシーを堅く守ろうと努めました。そうした昭和天皇と、デモクラシーの政治家・尾崎は、ほぼ同じ意見を述べていたことが分かります。
 東条は、昭和天皇と同じく日本的デモクラシーを守ろうとする尾崎に弾圧を加えました。それゆえ、彼の行ったことは、昭和天皇の意志に反するものであったことが明らかです。東条らの戦争指導者は、独伊のファシズムを模倣して、日本の伝統に基づくデモクラシーにそむき、国の進路を誤らせてしまったのです。
 戦後、尾崎は「憲政の父」として讃えられ、国民的な人気を獲得しました。昭和29年に彼が死去すると、国会はその業績を記念するため、尾崎記念館の建設を決議しました。現在の憲政記念館(東京都千代田区)がこれです。しかし、戦後の日本人は、尾崎が身を張って守ろうとしたものを正しく継承しえたでしょうか。
 昭和天皇は、いわゆる人間宣言、「新日本建設に関する詔書」を発した真意について、昭和52年8月23日、記者団に次のように述べました。
 「民主主義を採用したのは、明治大帝が思召しである。しかも神に誓われた。そうして『五箇条御誓文』を発して、それがもとになって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないことを示す必要が大いにあったと思います」と。
 この言葉の意味を最も良く理解し得る日本人の一人が、尾崎行雄だったでしょう。
 私たちは、アメリカが押し付けた戦後民主主義ではなく、明治以来の日本的デモクラシーを発展させ、尾崎の姿勢をこそ継承すべきであると思います。

 次回に続く。

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日本の心124~尊皇と愛民のデモクラシー:吉野作造

2022-06-08 08:04:14 | 日本精神
 民主主義と訳されているデモクラシーという言葉は、かつて「民本主義」とも訳されていました。民本主義という言葉は、明治末年から使われはじめ、大正初年には井上哲次郎、上杉慎吉らがそれぞれの立場から用いていました。この言葉が一躍脚光を浴びるようになったのは、吉野作造が『中央公論』の大正5年(1916)1月号に書いた『憲政の本義を説いて其有終の美を済(な)すの途を論ず』という論文によってです。
 当時、東京帝国大学教授だった吉野は、この論文で世界的なデモクラシーの風潮と日本の護憲運動の動きを結びつけ、大正デモクラシーの運動に大きな影響を与えました。
 吉野の民本主義について、彼が民主主義ではなく民本主義という言葉を使ったのは、明治憲法では主権は天皇にあるとされていたので、表立って国民主権を意味する「民主主義」と表記できなかった、というのが通説です。しかしそのような理解では、吉野の思想は把握できません。
 「デモクラシーなる言葉は、…一つは『国家の主権は法理上人民に在り』という意味に、またもう一つは『国家の主権の活動の基本的の目標は政治上人民に在るべし』という意味に用いられる。この第二の意味に用いらるる時に、我々はこれを民本主義と訳するのである」と吉野は書いています。これに対し、第一の意味で訳したのが、民主主義です。吉野の主張は明確です。「民主主義とは、文字の示すが如く、『国家の主権は人民に在り』との理論上の主張である。されば、わが国の如き一天万乗の陛下を国権の総覧者として戴く国家においては、全然通用せぬ考えである」と。
 吉野は、主権在民という意味での「民主主義」を斥けています。そして、民本主義について、次のように説きます。「いわゆる民本主義とは、法律の理論上主権の何人に在りやということは措いてこれを問わず、ただその主権を行用するに当って、主権者は須らく一般民衆の利福並びに意向を重んずるを方針とす可しという主義である」と。
 つまり、主権の所在にかかわらず、主権がどのように運用されているかが問題だ、というのです。実際、近代デモクラシーの発祥の地・イギリスは、君主制の国ですが、安定した議会政治が行われており、社会政策も進んでいます。
 吉野は「主権が法律上君主御一人の掌握に帰して居るということと、君主がその主権を行用するに当って専ら人民の利福及び意向を重んじるということとは完全に両立し得る」「何ら君主主義と相矛盾するものではない」と述べています。
 吉野は、天皇が法律上、主権者とされた当時の体制のなかで、民衆が政治に参加し国民の福利が政治の目的となるような政治のあり方を確立しようとしたのです。彼は具体的には、国民が信頼した政党が政治を行う政党内閣制と、普通選挙制度の実現を唱えました。他方でまた枢密院、貴族院、軍部等の非立憲的勢力の政治介入を少なくしようと努力しました。
 吉野は次のように明言しています。「明治天皇陛下は維新の初め現に広く会議を起し万機公論に決すべしと勅せられて居る。即ち多数の人に相談して公平にして且つ正当な政治を行うという民本主義の精神は、明治以来我が国の国是であった」と。
 吉野のいう民本主義の根本は、「主権を行用するに当って、主権者は須らく一般民衆の利福並びに意向を重んずるを方針とす可しという主義」という点にあります。こういう意味での民本主義は、実に古代から続くわが国の伝統でした。例えば仁徳天皇は「百姓 (ひゃくせい=国民) を以て本と為す」とし、民を本とするという民本主義の政治を行っていました。そこには、天皇が国民を子のように愛し、国民が天皇を親のように敬うという、わが国の国柄が表れています。こうした伝統が長く受け継がれ、明治維新の時には、明治天皇による「五箇条のご誓文」となって表れたのです。それゆえ、吉野の民本主義は、わが国の伝統を近代に生かそうとした「尊皇と愛民のデモクラシー」というべきものだったのです。
 ここで吉野が活躍した大正時代に来日し、多くの日本人に影響を与えたフランス人ポール・リシャールの言葉に傾聴しましょう。リシャールは、わが国の伝統に真のデモクラシーを見出しています。そして、次のような主旨のことを述べています。
 「現在のデモクラシーは、議会主義的、金権的個人主義である。真のデモクラシーとは、選挙によって金権政治を実現することではなく、数によって匿名の専制政治を行うことでもない。それは制度ではなく、態度である。個人の力と集団の偉大な精神が、個人の魂と集団の偉大な力が、つまり、個と全体が相互に尊敬しあうことが、真のデモクラシーなのである。
 日本人は、君権と民権を調和統一した理想国家を実現せよ。そもそも君権といい民権といい、その源は天に発する。君主は、天の統一的方面を、人民は天の差別的方面を、地上に代表するものである。従って、本来両者の間には何ら矛盾衝突があるはずがなく、真のデモクラシーとは、真の天皇主義の別名であるはずである。君民は本来一体である。君主にとって、人民が『大御宝(おおみたから)』であるとすれば、人民にとっても君主は『大御宝』である。これは相補い一体となっているものである」
 大正デモクラシーには、日本の伝統と近代政治を総合し、「真のデモクラシー」を実現する可能性がありました。しかし、吉野が活躍した時代の後、昭和に入ると、政党政治が腐敗し、軍部の独走、独伊のファシズムの模倣等によって、わが国の立憲議会政治は麻痺状態に陥りました。それは、民本主義の精神が歪曲されたためであり、同時にわが国の伝統にも反した姿なのでした。私たちは、こうした歴史を振り返り、日本的デモクラシーを再評価して、伝統の創造的継承に努めたいものです。

参考資料
・『吉野作造評論集』(岩波文庫)

 次回に続く。

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日本の心123~唱歌にこめた愛と願い:昭憲皇太后3

2022-06-06 07:37:54 | 日本精神
 昭憲皇太后の御歌は2万7千余首、明治天皇と琴瑟相和(きんしつあいわ)し、歌聖としても仰がれています。明治天皇は「教育勅語」を発するとともに、和歌の内に人の道を詠み、国民に人としての在り方を諭しました。昭憲皇太后もこれに和して、多くの道徳的な歌を詠んで、国民の心の向上を促したのです。

 朝ごとに むかふ鏡の くもりなく
  あらまほしきは 心なりけり

 (大意:毎朝見る鏡が曇りなく、ものを映すように、曇りのない状態でありたいものが、心です)

 日に三度 身をかへりみし いにしへの
  人のこころに ならひてしがな

 (大意:一日に三度、自分を反省したという古人の心を、見習いたいものです)

 人ごとの よきもあしきも 心して
  きけばわが身の 為とこそなれ

 (大意:人の話は良いことも悪いことも、注意して聞かせてもらえば、なんでも自分のためになるものです)

 このような御歌で人の道を諭した昭憲皇太后は、女子教育の奨励にも力を入れました。女性教師を養成する東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の設立の際には、多額の手許金を出し、開校式にも行啓しました。そして、次の御歌を下賜しました。

 みがかずば 玉も鏡も 何かせむ
  まなびの道も かくこそありけれ

 (大意:宝玉も鏡も磨かなければ、何の値も出てきません。学業の道も同じことで、自分を磨く努力が大切です)

 この歌は、同学の校歌となっています。また、戦前、唱歌として広く歌われた「金剛石・水は器」は、昭憲皇太后が自ら作詩し、華族女学校(女子学習院)に下賜したものです。

◆金剛石

 金剛石も みがかずば 珠のひかりは そはざらむ
 人もまなびて のちにこそ まことの徳は あらはるれ
 時計のはりの たえまなく めぐるがごとく 時のまの 
 日かげをしみて 励みなば いかなるわざか ならざらむ

 (大意:ダイヤモンドも磨かなければ、宝石としての光は出てきません。人もまた、学問をしてこそ、真の徳が表れてくるのです。時計の針が絶え間なく回るように、時を惜しんで励むならば、どんなことでも成し遂げられないことがあるでしょうか)

◆水は器

 水はうつはに したがひて そのさまざまに なりぬなり
 人はまじはる 友により よきにあしきに うつるなり 
 おのれにまさる よき友を えらびもとめて もろともに
 こころの駒に むちうちて まなびの道に すすめかし

 (大意:水は器の形に従って、さまざまな形に変わります。それと同様に、人は交際する友人によって、良いようにも悪いようにも影響を受けるものです。ですから、自分より優れた、良い友を選び求めて、その友と一緒に、自分の心にむち打って、学びの道に進んでいきましょう)

 昭憲皇太后の御歌や唱歌には、人を信じ、愛し、助け合うという心があふれています。こうした精神は「昭憲皇太后基金」として実践され、現在も世界の多くの国々の人々に、博愛の手が差し延べられているのです。

 次回に続く。

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日本の心122~和歌に表わす人の道:昭憲皇太后2

2022-06-04 08:12:17 | 日本精神
 昭憲皇太后は、明治天皇とともに、わが国民の道徳の向上に、大きな感化を与えました。明治天皇には、自己修養に努めていることが伺われる御製が多数あります。昭憲皇太后にもまた、高い精神性が表れた御歌が多く残されています。
 ある時、昭憲皇太后は、侍講(教育係)の元田永孚(ながざね)から、ベンジャミン・フランクリンについてのご進講を受けました。フランクリンは、アメリカの立志伝中の人物です。彼は十二の徳目を壁に掲げて自分を戒め、常に自分を磨き、品性を高めるよう努力しました。そして、この道義的精神を基にして、アメリカ独立宣言の起草にかかわりました。近代のデモクラシーと資本主義の精神を象徴する人物としても知られています。
 そのフランクリンの十二徳とは、「節制・清潔・勤労・沈黙・確志・誠実・温和・謙遜・順序・節約・寧静・公義」です。皇太后は、フランクリンの志に感動し、十二徳を和歌に詠みました。それは、次のような御歌です。

一、節制

 花の春 もみぢの秋の さかづきも
ほどほどにこそ くままほしけれ

 (大意:春の花見、秋のもみじ狩りの時などは、お酒を酌む量をほどほどにしたいものです)

二、清潔

 しろたへの 衣のちりは はらへども
  うきは心の くもりなりけり

 (大意:白い衣についたチリは掃えば落ちますが、思うように祓えないのは、心の曇りです)

三、勤労

 みがかずば 玉の光は いでざらむ
  人のこころも かくこそあるらし

 (大意:磨かなければ宝玉も光を発しませんが、人の心も全く同じであるようです)

四、沈黙

 すぎたるは 及ばざりけり かりそめの
  言葉もあだに ちらさざらなむ

 (大意:過ぎたるは及ばざるが如しというように、ちょっとした言葉使いにも注意し、言い過ぎることのないようにしましょう)

五、確志

 人ごころ かからましかば 白玉の
  またまは火にも やかれざりけり

 (大意:白い宝玉は火によっても、焼けることがありません。人も、それくらいに確固とした志を持ちたいものです)

六、誠実

 とりどりに つくるかざしの 花もあれど
  にほふこころの うるはしきかな

 (大意:色とりどりにつくった造花も美しいですが、誠実な心を持つ人は匂い立つようにうるわしいものです)

七、温和

 みだるべき をりをばおきて 花桜
  まづゑむほどを ならひてしがな

 (大意:散り乱れる前の桜は、微笑をたたえたように穏やかです。人もそれにならって、どのような時でも微笑をたやさない温和な心を持ちたいものです)

八、謙遜

 高山の かげをうつして ゆく水の
  低きにつくを 心ともがな

 (大意:高い山の姿を面に映す川の水は、低い方へと流れていきます。人もまた高い目標を胸に抱きながらも、どこまでも謙虚であるとよいなあと思います)

九、順序

 おくふかき 道をきはめむ ものごとの
  本末をだに たがへざりせば

 (大意:物事の本末を間違わなければ、奥深い道理を窮めることができるでしょう)

十、節約

 呉竹の ほどよきふしを たがへずば
  末葉の露も みだれざらまし

 (大意:節約を心がけほどほどの生活をしていると、子孫にいたるまで堅実な生き方をするでしょう)

十一、寧静

 いかさまに 身はくだくとも むらぎもの
  心はゆたに あるべかりけり

 (大意:どれほど懸命に力を尽くしている大変な時でも、心の中はゆったりと静かでありたいものです)

十二、公義

 国民を すくはむ道も 近きより
  おしおよばさむ 遠きさかひに

 (大意:国民を救う公義の道も、まず自分を修め、家をととのえて、近くから始め、遠くへと及ぼして参りましょう)

 以上がフランクリンの十二徳と、それを和歌で詠んだものです。
 昭憲皇太后の御歌には、欧米の道徳からも広く学んで、伝統的道徳を発展させようという姿勢が表われています。その御歌は、明治の日本人が、古くてしかも新しい精神をもって近代化を進めたことを示す、一つの徴(しるし)といえましょう。

 次回に続く。

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日本の心121~世界の福祉に貢献:昭憲皇太后1

2022-06-02 07:32:03 | 日本精神
 明治天皇の美子(はるこ)妃殿下は、昭憲皇太后と呼ばれています。
 昭憲皇太后は、幼少の頃より聡明で心優しい女性でした。明治天皇の妃となるや、天皇とともに、わが国の要として近代国家建設に尽くしました。なにより「昭憲皇太后基金」(The Empress Shoken Fund)を通じ、多くの人々の福祉に貢献したことによって、世界的に知られています。
 明治45年(1912)4月20日、ワシントンで、第9回赤十字国際会議が開かれました。この時、昭憲皇太后は、万国赤十字連合に対して、「平時救護事業奨励基金」として10万円を寄贈しました。現在の貨幣価値で約3億5千万~4億円にあたります。これが、昭憲皇太后基金の始まりです。
 皇太后は寄贈にあたり、次のような言葉をそえました。「赤十字事業の根本が仁愛であって、仁愛の精神は戦時、傷病兵士に対するだけでなく、平時の不幸な被災者をも救済しなければならぬことだと考えます。また、仁愛的事業には国境はありません。平時の救護事業において各国赤十字社が助け合う時は必ず、世界の国民がみな互いに仲良くするようになるでしょう。その心が赤十字の本来の目的を達成することを確信します」。
 「仁愛」は、古代よりわが皇室に伝わる精神です。当時の世界では、バルカン半島に戦雲がうずまき、第1次大戦のきざしが現れていました。こうした情勢のため、平時事業の推進は、赤十字の国際会議の議題にのせることすら難しい状態でした。しかし、昭憲皇太后は、わが国の仁愛の精神をもって、人類の幸せと平和を図ることこそが赤十字社の本命という信念で、基金を寄贈したのです。それはまだ貧しい東洋の一国から、世界に向けて差し出した愛の手でした。
 昭憲皇太后基金は、赤十字国際委員会と赤十字社連盟から指名された人々が共同管理する形で、創設されました。基金の収益は、大正10年(1921)から、世界の発展途上国の平和目的に限って活用されることになりました。これは、今日の開発協力を先取りするもので、極めて画期的なことでした。それ以来、今日まで、世界の多くの国に援助が続けられています。 
 国際的な救護事業を始めた昭憲皇太后は、国内でライ病(ハンセン病)に苦しむ人々にも、仁愛の心を注いだ方でした。ライ病は当時、不治の業病とされていました。伝染し進行すると、体中が朽ち、目も見えず息もできないようになる、これ以上恐ろしい病気はないと考えられ、家族からさえ縁切りされた病気でした。そのライ病に苦しむ人々に、援助の手を差し伸べたのが、昭憲皇太后だったのです。
 昭憲皇太后は、明治天皇の後を追うように、大正3年に亡くなりましたが、その遺志は、皇室に継承されました。皇太后の精神を受け継いだ貞明皇后(大正天皇妃)は、ライ病患者への支援を続けました。当時、ライ病の歌人・明石海人は、次の歌を詠みました。

 みめぐみは 言はまくかしこ 日の本の
  癩者(らいしゃ)に生れて われ悔ゆるなし

 国際的な平時救護の事業も、皇室に受け継がれました。昭和9年(1934)、東京で開かれた第15回赤十字国際会議に際し、大正天皇妃・貞明皇后、昭和天皇妃・香淳皇后が、昭憲皇太后の遺志をついで、基金に10万円を加えました。基金の利益収入は、昭和19年だけを除いて、大戦中も続行されました。このことは、わが国の「八紘一宇」(はっこういちう)の精神が、海外諸国への福祉という形で、戦時にも保持されていたことの証です。
 赤十字社社則に天災時救護をはっきり打ち出し、平時活動の先例を世界に示したのも、昭憲皇太后でした。チリの大地震の時、昭憲皇太后基金による生命維持装置は、多くのけが人の生命を救うのに役立ちました。アフリカ諸国やアジアの国々では、車体に “The Empress Shoken Fund”と書かれたミニバスや救急車、血液運搬車が活躍しています。基金によって、大勢の人々が救われ、感謝されています。
 基金の毎年の利子の配分は、合同管理委員会が各国赤十字社からの申請を審査し、昭憲皇太后の命日である4月11日に配分先を発表しています。収益配分は、平成14年で81回を数え、通算 9,497,010 スイスフラン(約7億5千万~8億円)となります。そして、延べ541カ国の国々の福祉に貢献しています。
 昭憲皇太后基金が今なお、世界中を愛で潤し続けているのは、わが皇室が折にふれて基金を増額しているからです。世界の平和と人類すべての幸せを願う、日本の皇室の心が、目に見える形で示されているのが、昭憲皇太后基金なのです。昭憲皇太后基金は日本人として最高の誇りにできることであり、その精神を国民みなが分かちもちたいと思うのです。

参考資料
・出雲井晶著『エピソードでつづる昭憲皇太后』(錦正社)

 次回に続く。

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日本の心120~人の道を三十一文字に:明治天皇4

2022-05-31 08:19:07 | 日本精神
 明治天皇の業績の一つに、「教育勅語」によって、教育の目標と道徳の基本を示したことが挙げられます。天皇はまた、和歌の内に人の道を詠み、国民に人としてのあり方を諭しました。「心の教育」が求められるなか、その歌は今日に歌い継がれる価値あるものです。
 まず、明治天皇が人の心のあり方について詠んだ歌に、次のようなものがあります。

 久かたの 空に晴れたる 富士の根の
  高きを人の こころともがな

 (大意:晴れた大空にそびえる富士山の高根のように、気高い心を自分の心としたいものだ)

 あさみどり すみわたりたる 大空の
  ひろきをおのが 心ともがな

 (大意:浅緑色に澄みわたった大空のように、広々とした心を自分の心としたいものだ)

 目の見えぬ 神に向ひて 耻(はじ)ざるは
  人のこころの まことなりけり

 (大意:目に見えぬ神に向って恥じないのは、人の誠の心であるよ)

 さて、人は親に育てられ、やがて自らの人生を歩みだします。誰にとっても親は、人生について教えてくれた最高の恩人です。天皇は親について次のように詠んでいます。

 たらちねの みおやのをしへ 新玉の
  年ふるままに 身にぞしみける

 (大意:年々、新しい年を重ねるにしたがって、身に染みわたるのは、自分を育ててくれた親の有り難い教えである)

 次に人には誰しも友だちが必要です。真の友情は、人を磨き、人を成長させます。天皇は、そのことを次のように詠んでいます。

 あやまちを 諌(いさ)めかはして 親しむが
  まことの友の 心なるらむ

 (大意:過ちがあれば互に注意しあって、親しんでゆくが、本当の友だちの心である)

 また、天皇は、一人一人の自分の努力の大切さを、わかりやすく歌に詠んでいます。

 つもりては 払ふがかたく なりぬべし
  ちりばかりなる こととおもへど

 (大意:心の汚れというものは、僅かなる塵ほどのことと思っても、そのままにしておくと積もり積もって、払うことができなくなってしまう。だから、自分の心を常に清めなければならない)

 思ふこと おもふがままに なれりとも
  身をつつしまん ことを忘るな

 (大意:なんでも自分の思うようになるようになったとしても、人はわが身を慎むことを忘れてはならないぞ)

 天皇自身が、周囲の忠告に謙虚に耳を傾け、努力を惜しみませんでした。

 こころある 人のいさめの言の葉は
  やまひなき身の くすりなりけり

 (大意:忠誠心の篤い臣下のいさめの言葉は、わが身に病はないけれども、心の良薬である)

 こうした歌を詠み、また自ら実践した明治天皇。その下に、国民が教育に、自己啓発に努めたのが、近代日本の初め、明治という時代でした。その伝統は、昭和・平成と進むにつれ、見失しなわれてきています。「心の教育」が求められる今日、明治天皇の御製に込められた教訓は、再発見されるべきものではないでしょうか。

 次回に続く。

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