goo

●漫画・・ 「虹をよぶ拳」..(2)

Photo_8

 昭和の熱血感動少年成長格闘コミックの名作、「虹をよぶ拳」が秋田書店の月刊児童誌「冒険王」に連載されたのは、1969年6月号から71年6月号までの調度2年間です。作者は、作画が、後に「うしろの百太郎」や「恐怖新聞」のオカルトホラー漫画で一世を風靡した、あのトキワ荘関係の出身でその後、藤子不二雄や赤塚不二夫と共に「スタジオゼロ」の作家の一員となって活躍した、昭和の巨匠漫画家の一人と言える、つのだじろう氏です。原作者は言わずと知れた昭和劇画の原作の帝王、梶原一騎氏。梶原一騎氏は70年代に入って小池一雄氏が登場するまでは文字通り、漫画原作の王様で、独占的とも言えるくらいの第一人者でした。いや、勿論、60年代70年代、漫画・劇画原作者はたくさん居ましたけどね。梶原・小池は別格の二大王者ですね。「虹をよぶ拳」は、当時の月刊誌「冒険王」の看板漫画の一つとなって人気を誇った、熱血感動少年成長空手漫画の傑作です。

 小一から漫画を読み始めた僕は、子供の頃は、漫画といえばSF冒険探偵ヒーロー漫画でした。正義のロボット・サイボーグ・宇宙少年のSFヒーロー勧善懲悪もの。まあ、同時に貸本劇画を読み続け、小学校中学年ともなれば、貸本劇画のアクション・ヒーローたちにも熱狂する訳ですが、小学校も高学年となると、漫画版「ウルトラマン」や他のSF漫画と同時に熱中し始めるのが、梶原一騎の熱血感動漫画や、いわゆるスポ根漫画です。「巨人の星」に代表されるスポーツ根性漫画。「巨人の星」は無論、漫画史に残り続ける熱血感動少年成長漫画でもありますけどね。僕はもう、小六から高一までは梶原一騎原作劇画の虜と言ってもいいような状態で、梶原原作スポ根ないし熱血感動漫画を読んでましたね。当時の梶原一騎原作漫画では、「巨人の星」も他の数多あるスポ根・熱血感動ものもみんな大好きでしたが、一番好きな作品は、当時の月刊誌「冒険王」で作画を荘司としお氏が描いていた、熱血感動学園漫画「夕やけ番長」でした。「夕やけ番長」は本当に大好きで何度も読み返して、時に涙して熱中して読んでた漫画作品でした。

Photo_9

  「夕やけ番長」が始まった頃は僕はまだ小学生でしたが、空手漫画「虹をよぶ拳」が始まった頃は、僕はもう中学生になってました。僕が中学に入る頃になると、僕が実生活してる家の中の家計もジワジワと苦しくなり、まあ、オヤツに買う菓子代くらいは普通にあるものの、小学生の頃はよく見に行っていた劇場映画にも行けなくなり、そうそうは漫画本も買えなくなった。それでも週刊少年マガジンは毎週購読し、月刊誌も中一までは「ぼくら」を、中二からは「冒険王」をそれぞれ月一冊だけ買ってました。だから中学生時代までは子供としては案外、小遣いはありましたね。ただ、中学生の頃は、例えば洋服とか高価な玩具とかは買って貰えませんでしたね。中学三年間、旅行や行楽は多分、一度もなかったと思います。友達どおしの遠出もほとんど行ってないし。それは勿論、徐々に家庭が貧乏になって行ってて、家にお金の余裕がないためです。

 僕は中学に入って直ぐに、幼なじみのM君の勧めで剣道部に入り、竹刀を買って貰ったんだけど、その竹刀が毎日の部活の練習で先の竹が割れてからは、二本目が買って貰えなかった。先輩から、割れた竹刀は稽古相手の顔に刺さる危険があるから買い換えろ、と再三言われたが、竹刀はけっこう高価で二本目が買えなかった。中二になって幼なじみのM君が転校しちゃうと、剣道部が面白くなくて、僕は二年生の一学期で剣道は辞めてしまう。中三になるとますます家計は苦しくなり、中三に入ってクラスで洋楽ブームになり、クラスの友達みんなが各々洋楽のEP盤を買って来て貸し借りして回し聴きしていたので、僕も洋楽レコードが欲しくてたまらなかったが、なかなか買えなかった。また、中学も二、三年生になると友達どおしだけで、都会や市街区繁華街の方へ遠出したくなるものだが、外出着や電車賃、遊戯代などの小遣いが僕にはなかった。だから誘われても、なかなか一緒に行けなかった。という訳で、中学生の三年間は僕は貧乏な子供でした。中学三年生時のクラスメートで、仲が良かったK君によくおごって貰ってたものです。高校生になると、さらに輪を二重三重に掛けたくらいの大貧乏になるのですが。

Photo_10

 もともと僕の実父は、実父はって別に僕に継父や親父代わりの存在がある訳ではありませんが、僕の親父は電力会社の社員で、戦後の一時代の、その仕事上の地位は庶民の間ではかなり有力で、僕の家は周囲からは「電気屋さん」と呼ばれてましたが、僕が生まれたのも小学生~中学生九年間過ごしたのも、その電力会社の社宅で、親父は戦後の各家庭や店舗、工場や坑内の電気系統の修理から集金業務をしてましたから、社交的な親父は顔も広かった。親父は戦後から昭和40年代初頭まで、人柄も良かったんでしょうが、「電気屋さん」という、田舎の、ある種ヒーローだった。

 僕の小一から中三までの時代の住まいに付属して、廊下続きで電業所という呼び名の事務所があった。というか、まあ電業所・事務所に付属して、所長職身分になる親父の一家が住む住居が、社宅としてくっ付いてあった訳ですね。僕が五歳時まで、一家が住んでいた山々と田畑ばかりのド田舎の事務所も、長屋に付属していた。一応、事務所は別棟ですが、住居家屋は二世帯長屋で、隣は電気工事関係の若夫婦が住んでいた。この時の住居は、四畳半と六畳の二間と申し訳程度の台所、トイレ。事務所に隣接して、風呂場が建て付けてあった。このド田舎住まい時代、まあ“ド田舎”なんていったら怒られますが、本当に当時は、自然の中ののどかなモロ田舎でした。この当時は、僕は生まれて間もない幼児期で、母はまあ専業主婦でしたが、事務所に電気料金を支払いに来たお客さんから料金の授受業務もこなしていました。親父は主に、この地域の家屋等の配電の故障修理の仕事ですね。電信柱や屋根に登り、時には屋根裏を這ってました。工場や坑内にも行っていた。

Photo_11

 「電気屋」の親父は、民家ばかりでなく、坑内を含む炭鉱施設や工場にも、当時の配電関係のトラブルの折りには行っていたんでしょう。“ド田舎”なんて呼んじゃうと、その地域の住民の方々にはとても失礼なんですが、当時のその地域は本当に山々と田畑だけの、ザ・田舎だったんですから。親父は、電力会社の当時のその地域の担当者というか、ある意味責任者で、電力会社は公務員でなく昔から一応は私企業ですから、利用者が期日までに電気代を払わなければ、ある程度して電気の配電を止める。僕はまだ幼児だったので記憶にないのですが、その当時、電気代未納で電気を止められた、その地域のヤクザ者が日本刀を持ってウチに乗り込んで来たんだそうで、幸い家には母親しか居らず(幸いかどうか)、母親に向かって本当に真剣を抜いて見せたそうです。ヤクザ者は、電気を止めた親父を恨んでいたそうですが、実際に当時の民家への配電を切ったのは別の職員で、まあ、当時も親父と同じような職務に就いてた電力会社従業員は他にもいっぱい居た訳ですね、親父はもとからがヒトノイイ性格で温情主義で、直ぐに親父は、親父の顔でそのヤクザ者ん家の電気を復活してやったんだそうです。これは当時の親父や母親が、ヤクザ者の暴力に屈したというのとは意味が違います。昭和30年代前半の時代で、戦後の混乱期からやっとどうにか落ち着いて来た時代で、まだまだ公私何でも、一般に法整備や規律が整っていなかった。かなり“いい加減”な時代だった。今の常識では理解しにくいんですが、一般市民とヤクザ者の垣根もかなり曖昧だったし、まだ“市民社会”というものが整ってなかった。そんな時代に、電力会社社員で民間人たちの配電を管理する職務に就く親父は、当時のある意味、権力者みたいな面もありましたね。

 親父も昔、昭和30年代頃は定期的に張り替えた電柱の古い電線を、会社仲間などとある程度の量、横流しして、まあ、何万円て単位だろうけど、金儲けしたりしてたんじゃないかな。まあ、子供だった僕には詳しくは解らないけれども。あくまで新しい電線と交換した古い、廃棄する電線を、だけど。金儲けって、みんなで飲み食いして使った程度だろうけど。親父の会社仲間の内には、そういうので儲けた人も居たのかも知れないけど。昔は会社の中のいろんな管理体制も、かなりテキトーでしたからね。当時の親父は電力会社社員というだけで、何か地方の名士みたいだったし。田舎の一地域の話ですけど。毎年、中元歳暮は押入れに入りきれないくらい来てたし。その割りには僕の子供時代、家が金持ちだったという感じの記憶がないんだが。まあ、親父もお袋もオヒトヨシで欲がなく、金が入れば残らず使ってたし、貰い物も右から左にヒトにやってしまってた。

Photo_12

 家に刃物の体験というと、僕が中三、15歳の時、状況は全く違うのだが、借金取りのヤクザ者があいくちを持って、当時の僕ん家に乗り込んで来たことがある。刈り込んだ頭に髭面黒ぶち眼鏡に革ジャンのオッサンで、俺は刑務所を出て来たばかりだと凄んでいた。この時のことは、当時15歳の僕ははっきり覚えている。ただ、このヤクザ者オヤジが握っていたのがあいくちだったか出刃包丁だったか、今となっては記憶ははっきりしないけど。あの当時の親父は、サラリーマンとしては驚きの多額の大借金をかかえていて、毎日毎晩、入れ替わり立ち替わり、債権者・借金取りが我が家に来訪していた。僕自身も当時は、よくあんな状況の中で高校の受験勉強をしていたと思う。当時の親父は親戚中から友人・知人、顔見知りまであらゆる人たちに借金して、多額の負債を持っていた。借金取りが我が家に一同に介して泊まり込むことも、何日もあった。思春期頃の僕はたまらないですよね。この時代に僕の性格はかなり変わって行ったんだと思う。親父は借金取りから逃げ回っていたし、湯水のように金を注ぎ込んでいる愛人と一緒に遊び回ってたし、で、家に居ないので、家を預かる母親が債権者たちの矢面になっていて、毎日毎晩、母は借金取りから責められて疲労困憊し、かなり憔悴していて、時にはパニックのようになったりしてました。夜眠れないからと僕に薬局に買いに行かせた、睡眠薬の瓶を見詰めながら、いっそ全部飲んでしまおうか、と考えた日もあったくらいでした。

 件の親父の方は、それまでは、仕事を真面目に丁寧にこなす責任感の強い、温厚で人付き合いの良い善良なサラリーマンでしたが、この時代は人が変わってしまっていました。まるで、昔の文士の“破滅型”を地で行くような、荒廃した生活でしたね。この時期の親父の口癖は「毒を喰らわば皿までも」でした。母親の相談に乗る人に寄っては、親父は狂ったんだから、精神病院に入院させてはどうか、と言う人まで居ました。大借金を作って放蕩する親父と、子供を連れた母親とが別れる直前、親父が愛人のところへ行ってしまう前ですが、僕の実兄がバイクで交通事故を起こし、何万円かの罰金の請求が来て、家にはお金がなく、期日までに罰金が払えないので、兄貴を拘置するという警察からの書面が来たのに、実はその時、親父は懐に金を十数万円は持っていたのに、親父はその金で愛人と遠出して旅行に行ってしまいました。また、僕が公立高校に受かったと聞いて、親父は「しかともねえ」と一言、言い放ちました。「しかともねえ」は方言で、「意味がない」とか「どうでもいい」「くだらん」というような意味の言葉です。親父としては、僕を中卒で働かせて、自分が女に貢いで出来た巨額の借金を、僕の稼ぎで払わせたかったようです。この後直ぐに、母親は子供を連れて家を出て、あばら家に引っ越し、親父はクビ同然で電力会社を辞めて女のもとへ行った。この時期、女も、会社を辞めた親父には価値がないので、追い出そうと随分骨折ったそうですが、とうとう親父が居着いちゃったそうです。女は、もとより男から男を渡って来た場末のバーのホステスで、ウチの家庭崩壊の時代、この女には別に他の男も居たんだそうです。生涯水商売・ホステス業の中で生きて来た、シタタカな女で、まあ、親父はカネヅルで、カモの一人だったんでしょうが、切り離しに失敗したんでしょうね。価値がなくなった元カモに、家に入り込まれた女は、最初は、何度追い出そうとしても出て行かず、本当に困っていたそうですが、その内、情が移って行ったんだ、という人づての噂でした。親父は電気技術の手に職があったし、女もホステスで生きて行くにはもうかなりな年齢でしたからね。

Mss

 僕が中学生の時代に熱狂して読んでいた、熱血感動武道成長漫画、「虹をよぶ拳」のドラマ内容では、主人公、春日牧彦は、勉強だけは出来たが運動がまったく駄目で、自信がなくて暗く、学校でも劣等感まみれで、後ろ向きな毎日を過ごしていたが、自分の“弱さ”を克服したいと始めた空手道の毎日の稽古で、鬼のような火野塚・師範代のシゴキに耐え、厳しい練習に逃げずに稽古に励み、腕力が僅かづつではあるが着いて来た。空手の稽古を許さぬ小市民の両親は、勉強だけを励み続けて良い大学に入って、良い会社に就職さえすれば、それで人生は満点なのだ、という考え方で、そういう青春期の生き方を牧彦に強要する。己の心身を少しでも強くしたい牧彦は、親の反対を押し切ってでも、親に隠れてでも、空手の稽古を続ける。そして、毎日の鍛錬のかいあって、体力も人並みに着いて来て、空手の腕はそれなりに強くなって行く。やがて牧彦は、鬼神の如き伝説的空手家であり、牧彦の師事する鬼門塾の総帥・鬼門兵介が主催する、全日本空手大会に参加して、少年部で入賞するくらいにまで強くなる。

 その後、親の考えを押し付けて空手を辞めさせようとする、両親との衝突から家を飛び出した牧彦は、怪しい男に騙されて北海道まで連れて行かれ、山奥のタコ部屋に拉致監禁され、強制重労働の苦役に着かされる。毎日僅かな粗末な食べ物で奴隷として扱われるが、日々の重労働の隙間を縫って空手の訓練に励み、栄養は山中の山芋や木の実、川魚などを生で食べて取り入れて補給し、拉致重労働の奴隷生活の中で活路を見出して、屈強な力を身に着ける。そして、タコ部屋地獄の、用心棒役の元レスラーの巨漢や幹部を倒して、労働奴隷たちのクーデターに持ち込み、タコ部屋から抜け出して、山を降りる。

 山を降りた春日牧彦は、確か、まだ中三くらいの年齢でありながら、夜の都会の飲み屋、キャバレーか大きなバーみたいな店の用心棒をやる訳だけど、ここで、最強最大のライバル、早乙女京吾に出会う。天才空手家、早乙女京吾の強さは計り知れない程の力量で、牧彦を戦慄させる。早乙女京吾が、明らかに実力は自分よりも上だと悟った牧彦は、北海道の夜の世界を離れ、空手大会に出場するという早乙女を追って行く。途中、早乙女が素手でヒグマを倒す場面に遭遇したりしながらも、牧彦は東京に戻って来る。そして、いよいよ、空手の師、鬼門兵介主催の、第二回全日本空手大会が開催する‥。

 秋田書店の児童漫画誌「冒険王」に、熱血感動格闘成長漫画、「虹をよぶ拳」が連載された二年間は、僕の中学生の間でもありました。僕のウチが傾き始め、崩壊してしまうまでの間でもありました。親父が電力会社を辞めてウチを出て愛人のもとへ行くのと、ウチの破産と、僕の中学卒業は同時に重なった。僕が小六か中一頃から、家の家計が少し危うくなって来ていた。そして僕の中学卒業時頃破産して、母と子供たちは無一文で、雨漏りと隙間風激しいあばら家へ引っ越す。僕の中三時代の一年間、特に夏から冬は毎日毎晩、ワンサカ借金取りが来て、母親が対応に大変でした。親父は何処かへ逃げていた。家に泊まりこむ借金取りも多く、そんな夜は親父は帰って来なかった。親父がツケで、愛人に買い与えた、高級化粧品や派手な衣服、高価な着物代を払えと、商店街のいろんな店がウチに迫って来る。母親は身に覚えのない、高級品の支払い請求の断りの対応で、心身ともに疲れてしまっていた。電力会社社員として、地域で幅を利かせていた頃の親父は、人望もあり信用があった。だから、その“顔”で、あちこちあらん限りに金を借り回っていたんですね。もしくはツケで、高価な商品を持って帰ってた。愛人のところに。僕の中学三年生時の一年間は、家族はみんな、ひどい時代でした。まあ、その後の大貧乏生活もひどかったけど。本当に、僕はよく、あの中で、公立の高校に受かったものだと思う。

Photo_9

 数多の借金取りや親戚たちの責めの対応に追われて、疲労困憊する母親は、幼い虚弱な妹も抱えているし、当然、僕になんてかまっては居られない。そんな余裕、ある訳がない。小さな頃から思いっきり甘やかされて過保護に育った僕が、この時、15歳で、初めて孤独を感じました。一人ぼっちで誰も助けてはくれない、とひしひしと身に沁みて思いました。生来の臆病・小心で、精神のひよわな僕は、「強くならなければいけないんだ」と初めて気付きました。そういう時期に愛読していたのが、「虹をよぶ拳」なんですね。主人公、ひよわな春日牧彦が空手道を通して、だんだんと強くなって行くドラマ。この漫画を読みながら僕は、「ああ、強くなりたい、強くなりたい」と切実に思っていました。僕は心身ともにひよわ、特に精神的にひよわだと自分でよく解っていたから。まあ、身体は大きくて健康でしたけどね。子供の頃からスタミナの自信はなかったけど。精神的には生まれ着いて弱かった。

 「虹をよぶ拳」後半部、牧彦が騙され連れて行かれ地獄のタコ部屋に拉致監禁、強制労働させられてから、タコ部屋の脱出、第二回全日本空手道大会までの間の、この物語のテーマは「野獣」でした。長いドラマの前半部のテーマやキーワードが「成長」なら、後半部のここの部分のキーワードは「野獣」。牧彦がタコ部屋を脱出するために、身に着けた強さは「野獣」の強さ。当時、リアルタイムで読んでいた僕は憧れました。野獣の強さ。野獣のように強くなりたい。野獣の強さを身に着けたい。そう、切に願いました。高校生の頃、空手を習いたくて空手道場に見学に行きましたけど、練習の厳しさを見て、臆病な僕は入門は止めときました。ただ、この当時の僕の家は大貧乏の時代で、空手道場の月謝代も出ないだろうな、と思ったということもあります。まあ、空手は、僕は、大人になって、30歳になってから近所の道場に習いに通い始め、稽古に行ったり行かなかったりで十年間、道場に通いますけど。初段を取るまでは熱心に、欠かさず道場通いしてました。40歳くらいまでは、夜のヒトケのない公園での独り練習は、毎晩のように行っていたけど。

 勿論、僕には「野獣の強さ」は身に着きませんでした。僕の心身ともに。ただ、高校を卒業して大都会へ行って、「野獣」じゃなくて、何か殺伐とした気持ちとか心とか、そういうものは身に着いてました。というか、心が殺伐としたものになった、というのか。何か、こう「殺伐」とか「砂漠」とかいうものが似合いそうなものが、身に沁み着いたような。身に沁み着いたというよりも、「心」に沁み着いた、と言うべきか。「虹をよぶ拳」の後半部もクライマックス、物語の終盤に入るところになって、主人公・春日牧彦は、「野獣」の強さよりもまた、一段も二段も上の「強さ」を獲得する。本当の強さを。この、「虹をよぶ拳」は少年の成長ドラマです。ひよわな少年が「強さ」に憧れ、サヴァイバルを体験して野獣の強さを身に着け、その後、社会で生きる人間としての本当の強さを獲得する、というドラマかな。まあ、“格闘コミック”というエンタティンメントですから、少年読者たちにウケるように、終盤も、お話はまた別の厳しい格闘対決シーンへと流れて行きますけどね。梶原一騎の空手劇画はみんな、地上最強の格闘技が空手である証明のために、タイ式ボクシング=ムエタイとの対決に話がシフトして行く。「虹をよぶ拳」の終盤も、鬼門塾空手一門がムエタイとの対決に乗り出して行き、最後は、ムエタイ最強王者と春日牧彦の対決で終わる。僕は雑誌連載の終盤を読んでいなかったので、マンガショップ版の復刻、「虹をよぶ拳」第4巻を読むまで、お話のラスト部分は知りませんでした。「冒険王」リアルタイム連載では、第二回空手大会を終えた牧彦がまた、行方をくらますところまでしか読んでなかった。この部分のエピソードは調度、同時期に他誌で連載されていた、梶原一騎原作劇画の「キックの鬼」「キック魂」とオーバーラップしますね。

Photo

 春日牧彦が獲得した「野獣の強さ」とは、物語中では、空手の試合に於ける、容赦ない戦い方のことですね。相手が重症を負おうが半身不随になろうが、極端な話、死んでしまおうが、手段を選ばず、徹底的に相手を打ち倒す戦い方。これって、実人生の人間社会での生き方だと、どういうのだろう? 例えばサラリーマンだと、自分が出世するためなら、周囲の同僚や先輩を容赦なく蹴落とし、ライバルがどうなろうが知ったことじゃない、血も涙もない世渡りの仕方、とかになるのかな。社会で自分が成功するため、金儲けするためなら、手段を選ばず、関係する人たちを奈落の底に叩き落そうとも、自分だけは成功し富と名声を得る、とかかな。一つ間違えば、犯罪になるような生き方。実際の世の中での、“野獣みたいな生き方”となると、昨年の秋から暮れに掛けて世間を騒がせた、「尼崎連続変死(殺人)事件」の主犯格、角田美代子容疑者(元被告)みたいな生き方になるんだろうか。手段を選ばず、血も涙もなく、相手がどうなろうが知ったことじゃない。殺してしまってる訳だから、もっと悪いか。まあ、本当の野獣そのものは、自分たちが生きて行くために獲物を取っているだけですからね。獲物が取れるかどうかは、彼らの死活問題だし。春日牧彦の容赦ない空手を、比喩的に「野獣の強さ」と表現したんでしょうが、「ライオンはウサギを倒すにも全力を傾注する」という意味合いでしょうね。スポーツの試合ではなく、正に、昔の武芸者の真剣勝負みたいな決闘を意味する空手。でも、ま、春日牧彦は「野獣の強さ」の、もう一つも二つも上級の、さらに上の人間的な「強さ」を身に着ける、みたいなところかな、終幕、ラストは。

 2011年3月の未曾有の大震災で、東北は壊滅的な状態にまで叩きのめされてしまいましたが、彼の地で打ちひしがれた人々が、無償の応援を受けて、それは見返りを求めない献身的とも言える、人々の行動や行為でしたが、たくさんの人たちの慈愛に満ちた人助けの応援に寄って、被災した人たちがそれを受け、それに応えて、もう一度再起をはかる。希望の欠片もない程に打ちのめされた人々。こうやって書くのは簡単ですけど、当事者に取っては死んだ方がまし、というくらいな大変極まりない事態だったでしょう。そこから、全国の人たちのいろいろな応援を受けて、その気持ちに応えようと、もう一度希望の灯を点して、再起の行動に立つ。本当に大変申し訳ないのですが、僕自身は、テレビの報道や各番組放送で見ただけでしかないのですが、あの、被災した東北の人たちの、再起の行動を見させてもらっていると、本当の「強さ」とは実は、“あれ”なのかも知れないな、と思いました。当たり前ですが、人は一人では決して生きられない。「野獣の生き方」とは、一人ぼっちの生き方です。東北の復興と再起、この全体像が、人間の、本当の意味での「強さ」を表しているのかも知れない、と思ったものです。

 「虹をよぶ拳」は僕自身の少年期に、大きな影響を受けた漫画作品でした。僕の少年期・青年期に梶原一騎(高森朝雄)原作漫画・劇画は、もういっぱいいっぱい読んで、熱中した作品は数多ありますが、その中でも一番好きなのは「巨人の星」でも「あしたのジョー」でもなく、月刊誌「冒険王」掲載の「夕やけ番長」でした。そして二番目に好きな作品で、一番影響されたのが同誌掲載の「虹をよぶ拳」でした。

 

◆(2012-03/27)漫画・・ 「虹をよぶ拳」 ..(1)

 

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ●じじごろう日... ●じじごろう日... »
 
コメント
 
 
 
Unknown ()
2017-05-18 20:22:43
虹を呼ぶ拳。あえてハイライトを二つ選ぶとしたら、タコ部屋の用心棒と決着をつけるシーン。
一度は負けたものの牧彦の命をかけた戦いにシビれました。もうひとつは言うまでも無く最大のライバル「早乙女京吾」との闘いですね。この対決は冒険王の付録に、なっていましたので表紙も思い出深い。その後は鬼門先生の傘下に入ってキックボクシング修業で本場の選手とのタイトルマッチになるのですが、最後はシリキレとんぼのように終了となるのでした。
ボクは小学生時代は宿題も一度もしたことがない。先生にいつも叱られて、廊下に立たされているような生徒でしたが、漫画を読んでいたおかげで、国語の成績だけは良かったです。そして赤城忠治と春日牧彦のふたりのヒーローのおかげで、学校生活を乗り切ったのだと思います。ので、いくら感謝しても足りません。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。