赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼平和憲法と女郎思想

2024年05月29日 | ■かもめ文庫

以下、十年ほど前に書いた記事で悪いが・・・

2012.11.30 朝日新聞投稿欄より

 

 今日の朝日新聞の投稿欄で上のような文章を読んだので、一言感想をば。投稿者は二十歳の大学生香取さんという方なりき。まずは、きちんとした立派な文章を読ませていただき感謝感激の念やみがたし。タイトルのように「集団的自衛権」は「参戦権」にほかならないとは、誠をもって、そのとおりだと思うのである。香取くんは続けていう。参戦権を放棄してしまっている日本は、誰が考えても「普通の国」とは言えないと。だが、その普通でないところが日本の誇りではないのかと。

 わたしは、それは違うと思う。端的に言って、日本もやはり「普通の国」として、必要とあれば武力を行使できえる「参戦権」を当然の権利として自覚的に所持し、いっそ憲法なりに明文化し、それだけにまた責任があるのだが、いわば独立国ならば一様に帯びなければならない責任を痛感し国際政治の中でも、とりわけ平和のために尽力していくべきだと思う。

 わたしは平和のための戦争も否定すべきではないと思っている。かの米国大統領オバマ氏でさえ明言せざるを得ないようにである。仮に、専守防衛だけに限っても、槍や鉄砲だけでは、なにほどの目的も達せられないのは、日を見るよりも明らかだ。軍事もまた大いに文明論に関わってくるのである。悲しいことだがモータリゼーションや原子力というものが、そうであるように議会制民主主義に代表される政治的手法もまた悪しき文明の一つにほかならない。だが問題は、ヒト科の誰に文明を否定できようぞ。

 文明を否定しても、個人としてなら生きていくことだけなら可能だろう。だがそれは乞食根性、奴隷根性を満載して、言いたいことも言えずに、口にチャックをしめたまま生涯を送っていくことではないのか。威張れた話では毛頭あるまい。あらゆる意味で自己に一定の文明に基づく政治的強度がなければ他者への優しさは実現不可能なのである。そのひとつが、軍事であることは言うまでもない。口先だけで、「平和、平和」と何万回連呼しても、真の平和がやってくるはずはない。

 力の発露は、自己中心的だとか、第三者は、いろいろと言うだろう。だが、平和のための戦争もありえるという逆説の要諦は、強いものが、弱いものを助けるという、実に単純な道徳の発露にすぎまい。ヒト科が、大昔から育て上げてきた、この普遍的な道徳を、せいぜい一国内の「平和」の美名のもとに、誰が貶めることができようか。文明を否定することは、社会を否定することだ。国家を否定することだ。

 いっさいの武力を否定する憲法9条が存在する限り、日本国は真の意味で文明的であるとも、ましてや独立国家だとは言えないのである。とある左翼政党(日本共産党)の綱領で正しく指摘されているとおり日本国は半植民地のままなのだ。いつまでたっても他国に守っていただいている従属国家または擬似国家のままなのだ。

 青年よ。日本という国は、まるで子どものようにイノセントで優しさに満ちた、それだけに弱々しい、いざとなったら何の力も出せない、隣国の温情だけにすがりついて、やりくりする以外にない、ひたすら衰退していくだけの、そんな国のままで、それで良いのかね。

 もっぱら「癒し」とか「優しさ」「弱さ」という心性を、メルヘンチックに飾り立て売文稼業を持って、喧伝させ自慢してきたのが大江健三郎氏に代表される戦後民主主義者らの「平和思想」と呼ばれている代物だが、私に言わせれば、彼らの考えは卑劣な亡国論であり愚劣な終末思想だ。単純な話だ。つまるところ彼らは、「政治の現場」から逃げたがっているだけなのである。同じことは同氏らが叫んでいる「原発反対」のスローガンについても言えるのだ。つまるところ、これらのスローガンも「文明の現場」から逃亡したがっている敗北主義者の戯言(たわごと)に過ぎないのである。

 まさに憲法9条はセンチメンタルにしてメルヘンチックな性根だけが取り柄といえば取り柄の彼らにとっては実に居心地のよい「子ども部屋」か、または隠れ家としてはもってこいの「癒し、かつ憩いの場」であり、なによりの「避難場所」となっている。当「子ども部屋」は、一般に行為することを気嫌い、体を使って働くことを蔑視する心根優しき近代に特徴的な知的おっさんおばさんらのために米国政府と日本政府が、割り勘して分担し、心根優しき彼らに無償で提供してくれているのである。

 なかには70、80にもなっても、いまだ「子ども部屋」の「ぬるま湯」から脱出できない半人前の小説家などがいて近隣諸国から失笑を買うばかりなのである。 

 さて、2014年7月8日付東京の田吾作新聞紙上に、次なる鎌田なにがし氏の、やはり憲法9条を問題にしているコラムがあったので一言感想をば。

 鎌田なにがしが言う「憲法が殺された七月一日」とは、いわゆる集団的自衛権なるものの行使容認が閣議決定されたことをさしているのだが、憲法が殺されたなどとは、いかにも大げさだ。己の歴史的政治的無知蒙昧をさらしているだけだ。何度、同じようなことを言ってきたのかね。1952年、米国との安保条約締結のさいに言わなかったか。憲法が殺されたと。戦争になると。

 つづいて1960年、安保改定においても、同じことを言わなかったか。憲法が殺されたと、戦争がはじまると。さらに続けて1970年、10年ごとに見直すとある安保がまた改定時を迎えていた、そのとき、鎌田なにがしは、憲法が殺されたと言わなかったか。で、どうだったのかね。戦争になったのかい。

 それにしても何度殺されたら気が済むのかね。あ~ん。鎌田のなにがしよ。口先男よ。オオカミが来る男よ。君は一顧だにしていないが憲法が殺されたと君が言う、その7月一日は、奇遇なことだが、われら自衛隊の創設60年にあたっていたそうだ。今から60年前、晴れて日本に自衛隊が組織された。当初の兵員は10万人ほどで、装備もきわめて貧弱なものであったらしい。だが、軍隊には違いなかった。武力を否定した憲法のもとで軍隊が創設されたのだ。

 君の言い方に倣うなら、このときこそ憲法が殺された日とよばずになんとする。この歴史的事実に比べれば自衛権がどうたらこうたらなどという話は、いかにも瑣末な話だ。60年前、すでに9条はすっかり骨が抜かれていた。憲法制定後10年もたっていなかったのである。骨の抜かれた憲法を後生大事に、ありがたがって念仏がわりに「憲法を守れ」とさわいでいる馬鹿な連中こそ、よほど偽善者ではないのか。繰り返す戦後政治史を額面とおりに読めば残念ながら日本国憲法の第九条にかぎっては、すでに空文と化して久しいのだ。

 問題はだ。突きつけられてくる現実を無視し、または現実におびえて、現実には目を配ることもせず、部屋に閉じこもっては念仏化したお題目を唱えていることに、なんの意味があるのかということだ。誰が考えてもわかりそうなものだ。なにかね、鎌田のなにがし君のばやいは、現実がどうあれ、念仏を唱えていたほうが幸福だとでもいうのかね。そりゃ、一種のカルトじゃないのかね。

「わたすたちのいのちである九条の輝き」?

 馬鹿を言うなよ、これカルトっ屁のなにがし君よ。もはや何一つ中身のない空文が、いかに輝いているというのかね。詐称詭弁もいい加減にしたまえ。それほどカルトがすきなら、この際だ、拙者が君たちに新しい教団名を授けてやろう。その名もオオエ真理教。どうかね気に入ってくれたかね。そうかい、そりゃよかった。世界のどこにだしても恥ずかしくない立派な教団名だ。教祖様も老いぼれたとはいえ、かつては一流の小説家だったと聞く。

「平和憲法がひっくり返された」?

 君たちが言う平和憲法とは、そもそもの始めは誰の創作だったのかね。何度もいうが、今から70年前の話だ。連合国司令官マッカーサー元帥に他なるまい。戦争放棄、交戦権放棄、武力放棄とうとうを詠っている第九条において日本国は手足をもぎとられ刀狩りされ、思想的に女郎化された。だが数年後、たちまちにして、この童話は崩れかけた。

 大陸では蒋介石は台湾に追い飛ばされ共産革命が成立した。目と鼻のさきの朝鮮半島で戦争が勃発した。現実の前には、理念なんぞは、なんの役にもたたずじまい。忸怩たる思いに浸ったマッカーサーは考えに考えた。日本政府に対して頼むから憲法をいじらずに適当な軍隊を作ってくれまいかと要請してきたのである。もちろん実際は命令だった。てめが作った平和憲法をひっくり返したのは他ならぬマッカーサーではなかったのかね。60年、70年前の話だ。なにがし君も、も一度よく戦後史なりを勉強してみたまえ。文句があるなら、今はなきマッカーサーの墓前にて雄たけびをあげながら積年の憂さ晴らしをしてくればよい。

 さりながら70年を費やしてきた戦後日本の来し方の全貌を端的にまとめてしまえば、これ以上は望めもしないほど平和であったことは間違いない。だからと言って、カルトっ屁の諸君が言うように平和憲法が存在していたからだなどとは、これぽっちも思わない。むしろ平和憲法が早々と内実のところ「ひっくり返って」いたからではなかったのか。上で記したように、憲法制定後、十年もしないうちに自衛隊が創設されたのだ。平和を言うなら、自衛隊の諸君こそ、わが国を守ってきたのではないのか。もちろん日米安保条約によっても、多々守られてきたのだ。アメリカさんによって日本は守られてきたのではなかったのか。

 左巻きのカルトっ屁の諸君らは、おそらく、これらの真実は口が屁曲がっても認めたがらないだろう。だが、大現実たる現状を認めねば近将来にわたる政治的実際の話には一向に戻ることはできやしない。書斎の穴蔵にふんぞりかえったままで自分の手だけは汚すまいと戦争はいやだ戦争は悪だと口先ばかりで架空の平和を求めるのが、なにがし君のような左巻きの連中がとりことなっている女郎思想の特徴である。

 ゆりかごから墓場まで、とにもかくにも守っていただかねば生きた心地もしないというのだから開いた口もふさがらない。戦後七十年、あきもせずに同じことを口走ってきた。妄想大国か、または信仰上の空想的教条の傘の下で、てめたちだけはちゃっかり安逸と平和が楽しめますよと、プロパガンダに励むがなんほだ。これが彼ら左巻きカルトっ屁連中の卑猥な本音と綱領に他なるまい。これぞ女郎思想と呼ばずになんという。

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ▼とある候補者の落選日記 | トップ | ▼就学前後の話 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

■かもめ文庫」カテゴリの最新記事