赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼自立と介護と福祉と教育

2003年05月22日 | ■風評加害の露店犯

支え合うのも人間社会のええところだべ。電動車イスもええ、だが人に押してもらう車イスもええものだべ。こっちのほうがええというのは個々人の判断だ。だからと言って片方は自分にとっては用なしだからと排斥するのは大人のやることではあるまい。相手を認めることを「受容」とか「理解」というのじゃないのか。

それも能力のうちだというなら、理解の程度は相手を思いやる想像力が試される。排斥の方向ではなく寛容な態度を保つ心を持たねばにゃ。子どもに向かって「人に優しくしろ」とよく言える。大人たちのやっていることをみろ。その有様では、いつまでたっても世の中はよくならないぞ。

つい先だってなんぞ、若さを誇るご隠居はんの自分でしならない健忘症をわざわざ指摘診断してやったところ、えらく感謝されちまったところでごわす。なにせ年寄りは大事にせねばのぉ。

それにしてもさすがmtはんだすな。ほれ「受容」というキーワードの料理法のことさ。もう少しご高説をお聞かせ願いたい。ただ、素人のオレがおもうに、言説だけでは間に合わないよな。行き着く先を「方法論」求めだけにしてしまったんでは、誤るのでなかんべか。

「受け入れる」にしても「突き放す」とか「自立」にしても、根は同じことのように思うぜ。瞬時に相手の出方によって、感受するこちら側の対応も変化させていく・・・というのがコミュニケーションあらかると。そうそうどっちかに決めつければええつうものではあるまい。

とりわけ我が子の障害がとても重度であるというような場合。これはもっと深部に及んで、出方論を使い分けていかねばならないのだろうね。それについてはオレも、保護者のみなみなさまには頭が下がるよ。深い感性を鍛えておかねば、受容と言っても自立と言っても混濁するばかりで、明晰な意味は失せていく。ガッコの集うバカ親たちが、子どもを誉めるのがよいか叱るのがよいか、なんてバカ話に花を咲かせていた馬鹿な80年代後半があったぜ。

それよりいっそ、保護者の目の黒いうちは、ずっと我が子の世話をしていくということもあり得る話だよ。我が子次第ではね。それに、おおざっぱな言い方でわりいがよ。
 
基本はそこだろ。障害の有無にかかわらず、オラはそう思っているだよ。そのうち自立っぽいことをやる、または親に見切りをつけて、家出していっちまっただ、なんて現象をして「自立」ということなんだから。別にご立派なことではないよ。自立とかカッコつきの教育なんてね。

この世話をしなければならない部分が、技術や専門家や施設や、介護システムなどによって、多少肩代わりできているちゅうことだろうがね。もちろん進展することを望まないわけではないんが、我が子とはいえ一人の人間だ。すべての局面を全面的に他者に依存したがる心性のほうこそ、問題があるんじゃなかろうか。

極論めくが、全面的に依存するということは、恐ろしい話だよ。話が、こうした社会化の方向に行く傾向こそ、気をつけたいと思ったまでのこと。親が支え合うという言葉が聞こえはよいし、美談だが、一方、そうしたことが苦労だと言ってだ。たしかに、それは苦労だが、我が子の世話を他力に依存してしまうということは、親子の関係が薄くなることは確かだ。つっぴな言葉を入れてわりいが、社会が病院化されるということだよ。

高齢者は、家族から引き離されてホームなりに入る・・・現代は、その傾向がある。これは老人だけでない。インフラの整備というかけ声でハコモノが作られる。これは何を意味するか・・・家族がバラバラにされていくことじゃないのか。それでよいのか、という心配がつきないわけさ。

だから、受容とか自立というのは、方法論だけの問題じゃないよ。方法論ばかり求めていると、赤信号みんなで渡れば恐くないの、人でなしになっちまうような気がしてならないわけさ。もちろん自助努力だけでやりくりしろなどと言っているつもりはないのだがね。

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