赤いハンカチ

てぇへんだ てぇへんだ この秋はスズメがいねぇトンボもいねぇ・・・何か変だよ

▼帽子が似合う老母の肖像

2017年06月25日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

 

 

2012.12.27 秦野市

 

 

 

 


秦野市役所

 

 

明けて2013.01.10 〃

 

無事に年が明けたと思った正月4日。入院中なる母の主治医から電話があった。どうやら気管支炎にかかっているようです。微熱が続いているのが心配です。もちろん10日の退院、その後の在宅介護は、当分は無理でしょうと。

病院にかけつけてみたところ、母は、覚めているのか寝ているのか薄目をあけ点滴状態で、ベッドに横たわっていた。青息吐息の状態だった。内科医の説明によれば、何かウイルスに感染している風でもなし、他に悪いところはありません。きっと良くなると思いますと。だが、当分の間、入院生活に変わりはあるまい。それ以上のなにができるか。主治医も内科医も余命うんぬんの話はしなかったが、わたしにはよく分かる。

92歳になる母の場合、もはやベッドから立ち上がる力はないことを。風邪だか気管支炎だかは、よく知らないが。今回ばかりは致命的なダメージを受けたに違いない。一ヶ月前のスプーンを持って、ミキサー食を、ぶっちらかし放題で口に運んでいた元気な姿は、見られないだろう。点滴状態からは、もはや抜け出せないということを。こうして私の在宅介護による親孝行の夢は、あえなくついえてしまった。秦野市に借りた古屋は撤退することにした。母が退院してくるのを待って、この先古屋の家賃を支払いつつ、はたまた入院費を支払う余裕はなかった。

レンタカーを借りて、こまごまとしたものを運び出し貸家にカギをかけた。大家に、恥ずかしながら、そのようになった次第にて出て行きますと電話した。庭先にいた野良が一匹、わたしのいささか傷心した姿を見送ってくれていた。その後小康を得た。

 

 

 

2015.03.20 熊谷市

大正九年生まれの母は当年とって95歳か6歳になる。太平洋戦争終了時、母は25歳か6歳だった。わたしが彼女の下に生をなしたのは終戦から三年後のことだった。いまや認知症でボケていて長男のわたしが見舞いにいっても上の空。それでよいのだ百まで生きろ、おふくろさん。 

 

 

 

2016.01.25 熊谷市

青息吐息の母を見舞った。先生、わたすの老母もあと半月ほどで九十六歳となります、なんとかそこまではよろしくお願いしますと主治医に頭を下げてきた。

 

 

 

 

近くの農業用溜池が結氷していた。

 

 

 

病院に来たときはいつも寄る街道沿いの食堂では石油ストーブが炊かれていた。

 

 

 

 

 

死亡時刻 平成28年1月30日 午後11時30分  老衰
大正9年2月11日生 享年95

 

1月31日  熊谷市  母の亡骸を病院から運び出した頃には夜が明け始めていた。

 

 

 

 

 

 

2月3日午前10時 葬式不要戒名無用、荼毘に付す

 

 

 

2月15日 多摩川

 

 

2月16日  病院に行き先月の入院費支払いを済ませ残っていた粗末な私物のいくつかを引き取ってきた。

 

わたしが生まれたのは昭和23年。半年前には太宰治が入水心中をしたその年の暮れのこと。もちろんまだテレビのない時代。敗戦から3年しかたっていなかった。栃木県北部の農村にてオレの父ちゃんは母ちゃんのおなかにおれを孕ませてまではよかったが親兄弟から結婚を反対されて母ちゃんと腹の中のおれを置いて東京に逃げ出してしまったのだった。父ちゃんは23歳。母ちゃんは28歳になっていた。母ちゃんはオレを出産して後、幼いオレをおぶって東北本線に乗って上京し、さっそく父ちゃんの行方をおった。つてをたどって父ちゃんを見出し無事婚姻届と出産届けを都下の調布市役所に届け出た。いや当時は調布も市ではなく町だったのかもしれないが。

父ちゃんは、そもそも世の中の常識からだいぶ外れているところがあって後に分かったところによれば精神と神経に重大な病気を持っていたのであった。それでおれの名前は母ちゃんがつけてくれた。当時飛ぶ鳥を落とす勢いで神童、天才の名をほしいままにジャーナリズムに登場してきた若者が三島由紀夫だった。実はおれの父ちゃんと三島は昭和元年生まれの同年なのだ。敗戦年当時両名ともに二十歳で徴兵検査の対象だった。徴兵検査までは済んだようだが兵隊として戦地に送られるすんでのところで敗戦となったのである。

さてオレの母ちゃんには若い頃から文学少女じみたミーハー気があったようで婦人雑誌に掲載された小説なども少しは読んでいたようだ。それで三島のことなども知っていたのだろう。はじめて生まれたオレに天才であれという思いが高じ三島由紀夫にあやかって由紀夫という名をつけたのだと母がなくなる数年前に明かしてくれた。母ちゃんは一昨年に九十五で没したが母ちゃんがつけてくれた由紀夫の名には今でもわたしは誇りに思っている。だがわたしもこうして鳴かず飛ばずのまま馬齢を重ねるばかりになり母ちゃんの期待には今にいたっても何ひとつ応えることができずに申し訳ない思いで胸がいっぱいになることがある。

 

 

 

 

  

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2 コメント

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また腕を上げられたようですね (泥炭)
2014-08-29 08:12:07
サギ草が良い、紫の花陰から仰ぎ見た古い家屋が良い、
実朝が良い。

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右大臣実朝・・・太宰治 (鴨目)
2014-08-29 10:49:58

こんにちは。お元気そうでなにより。
返信する

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