赤いハンカチ

旅に病で夢は枯野をかけめぐる

▼「丸山真男の思想がわかる本」 タロー氏

2007年01月15日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
      

 

 


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そういえば、タローさんが丸山真男の本を出したとか。

そのようですね。ええと。「丸山真男の思想がわかる本」というタイトルでしたか。たいしたものです。タローさんにはお祝いを言っておきます。だがわたしは悪いが、その本に興味がわきません。タイトルがハウツーモノだもな。丸山の思想が分かったからといって、なにがどうなるものではないでしょう。

本というものは、文章の集まりです。文章というものはある個人の精神ですよ。文をなす精神のもとは詩心ですよ。書いた当人の詩心が表現されていなければ、それは週刊誌に右同様です。タローさんの新刊がいかなるものかは知りませんし、知らないままで馬鹿にするわけではないが、他人様を啓蒙しようとか教育しようという魂胆は文学の精神に反します。文学性のない文章は本にする必要なしと、個人的にはそう思っています。わざわざお金を使って買って読むほどのことはない。

もちろん文学のジャンルはなにも詩や小説ではないでしょう。小説だけが文学だなどというおかしな観念は近代の偏見です。科学論文でも哲学論文でも誠心誠意著者の心が入っていれば、それらはみな文学の範疇です。文学には分野における王道というものはない。もちろん川柳であろうと落語であろうと文学の立派なカテゴリーです。 どのような本が良のか、何を読めば教養の肥やしになるのか。

みなさん違ったことを言っていますが、確かなものほど、秘密裏にこっそりと伝わってくるものです。良いものはそうおおっぴらにはなりません。総じて世間から賛辞を受けた作品(芥川賞など)に限って駄作であったと裏切られた思いは誰しも経験のあるところなり。最近はとくにひどい。売れた本はだいたいろくでもない。世間で騒いでいる本のだいたいがクズだと思っておいたほうがよい。

最初に、知ったかぶりしたミーハーが騒ぐ。これが指標になるでしょう。ミーハーが取り上げるものなら、駄本に間違いないと断言できるからです。それに著者本人が、良い本を出したと自らホラを吹いているようなものも、無理して読む必要はないでしょう。 タロー氏にも、その傾向が多々うかがわれるので、今のところ敬遠しているだけにござ候。拙者、タロー氏については毛嫌いしているわけではないが、文句の一つ二つ言っておきたいことがある。

現在は閉じられているようだが、彼が昨年中にはじめたブログに書かれてあったいくつかの論考のタイトルだ。これまでも何度か訂正を申し入れたが聞き入れるそぶりも見せない。やれ「かもめの有罪」やれ「かもめの事情聴取」と来たものだ。拙者にもささやかながらプライドや名誉というものがある。拙者の知識など、タロー氏に比べればゴミみたいなものであることは承知つかまつり候えど、そうした言葉の使い方に、タロー氏の序列化と階位をもって人を見るしかない近代旧体制の偏見饅頭が丸裸になって見えてくるのである。そこでもう一度、タロー氏の文章を丁寧に再読してみて、分かってきたことがある。

要するにタロー氏も、ご立派な学歴が自慢らしく梅坂某君がそうであるように「アメリカ帰りのお富さん」風モコモコなにがしサツの犬に、最終的には頭が上がらなかったと見ているのが拙者だ。モコモコなにがしとアル中無職で威張っている拙者との対決では、誰がみてもそう見えるとは思うが、タロー氏もまた当然アメリカ帰りの知識人に肩入れせざるを得ない心性がある。それが彼が学んできた道そのものだからだ。アカデミズムこそ彼の教祖である。マルクス主義者はみな権威に弱い。千坂君がそうであるように、内実のない名ばかりの識者や指導者、またときには、ミーハーが叫んでいるだけの世論の尻馬に乗せられてコロリとだまされ、後日赤っ恥をかいたことを知り言い逃れに汲々としなければならない羽目を見るのである。

福沢の諭吉以来のインテリ好み知識好みのヒエラルキーと権威主義がタロー氏の思想の根にたっぷりと刷り込まれているのである。これが彼の場合はきわめて強固で結局最後は自己保身と自己正当化に汲々としなければならない落ちを見る。左翼を自慢する主義者たちの多くが、こうした近代の迷妄に頭がやられている。社会の中で、建前としての平等を偉そうに声高に叫ぶものこそ逆に、その心根に明治の立身出世風の古風な特権意識が根を生やしている。タロー氏を見ていると、それがよくわかる。彼にとってはアル中はともかく勤め人や主婦などは、もうその立場だけで無知蒙昧の輩と決め付け歯牙にもかけないようなところがある。

彼に大事なのは、お世間風の学歴と学識と文才、それに情報通というあたりか。そうした現場から遠い立場におかれているいわゆる勤労庶民や家庭で子育てに励む男、女などは見下してかかる偏見と傲慢と独善がある。 丸山真男について他意はないのです。本人や取り巻きやミーハー衆愚の自慢を耳にしたとたんに、ああ、これはたいしたことはない本だと、すぐ分かります。ああ、難儀だ難儀だ。図書館通いのワンカップ。一般に、いまや著者も死にたえ、その人が書いた本や文章が歴史の荒波にもまれながら、かろうじて、ひっそりと残されてきたというものが本物のようなきがします。著者が生きているうちに、文学的評価など定まりません。

作家の多くが死とともに、忘れられていくでしょう。人々もそれほど馬鹿ではない。不明で無駄な本など誰も残しませんよ。片っ端から忘れられていきますよ。人々がこれぞと、言いながら残してきたもの。それらはみな本物です。そこに、真性の人間の声がわたしたちにまで届き、彼の肉声が聞こえてきます。この信憑性こそ、文学というものです。彼の言うことを耳をそばだてて聞くのです。すると、われわれの通ってきた長い長い歴史の駒のひとつふたつが鮮やかに眼前に描出されてきます。リアリズムや社会的事実などというものは、文学とはなんの関係もありませんよ。

 私も年とともに偏屈になる。もちろん何を読もうと人様の勝手だが、現代小説の多くが文学とは似て非なるものであるという従来の考えをかえるつもりはありません。世の中というものは、知識よりは人の実際です。思想もそうです。本に書かれたものが思想のすべてではないでしょう。もっとも重要な思想は生活の中にたくさんあります。逆説を弄するつもりはないが、黙っている人たちの中にこそ立派な人がいるのです。本当に立派な人は本を書いたりしないものです。そうした色気は持たない。黙って働いている。黙って人生を楽しんでいる。偉そうな口も不平不満もめったに口にしない。こうした人の多くは手に職を持っている人ですね。しっかりとした能と芸のある人です。こういう人は、男は黙ってワンカップ墓場行きです。これ以上の人生の王道はないでしょう。

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