世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

義経一行が足止めされた安宅関跡の近くには格子のある家並みも残っていました

2009-03-15 21:54:14 | 日本の町並み
橋が架けられなくて天然の関所の役割をしたのが、大井川の島田宿でしたが、逃げ延びる義経一行を待ち受けた関所が安宅の関と言われています。ただ、この安宅の関のくだりは能の安宅の脚本家などが創造したフィクションのようですが、関跡には義経、弁慶それに富樫の3人が銅像となって建っています。今回は、安宅の関跡と川を挟んだ対岸の安宅の町並みを紹介します。

 安宅は、石川県の南端の小松市の北辺の日本海岸寄りにあって、石川県の空の玄関小松空港からもすぐ近くになります。小松空港は自衛隊との共用空港で、時たま戦闘機がスクランブル発進をしてゆくのを見かけます。不審者の通過を阻止する関の跡と、外敵を阻止する基地が隣接するのもなないかの因縁でしょうか。

安宅関跡は安宅住吉神社の後方、日本海に沿った松林の中に開けたところがあって、勧進帳ものがたり館と、館に隣接して銅像群が立っています。この銅像はどうも義経が目立たなくって、弁慶ばかりが堂々としてかっこよく作られているように見えます。関守の富樫の前では、弁慶の方が主で義経が従と振舞ったわけですから、そう感じるのは自然なのかもしれません。

 2008年10月12日付けの本欄で、安宅の関のくだりは富山県の伏木での事件を題材に、能や歌舞伎の脚本化が舞台を安宅に移して作り上げたものであるらしいことを述べました。ただ、伏木での事件も史実かどうか疑わしいところがあるようですし、安宅関に至っては、そもそも関所の存在じたいに疑義があるそうです。まあ、余計な詮索は置いておいて、能の「安宅」は室町時代の15世紀に作られ、歌舞伎の「勧進帳」は、能の「安宅」をもとに江戸中期の18世紀初めに作られたようです。どちらの演目でも、活躍するのは弁慶で、義経は影が薄いように思います。歌舞伎では、関守の富樫が義経主従と見破りながら、弁慶の心意気にほれて通したという演出もなされています。

 関所跡から梯川に架かる住吉橋を渡ると安宅の町並みで、橋の近くに一部が茅葺の住吉神社の宮司の住居があります。お寺の庵のようなたたずまいで、中を拝見したくなる端正な感じがします。そこから、海岸方向に向かって古い町並みが残っています。このあたりは、北前船の中継港として栄えたところで、加賀藩の米蔵も置かれ船問屋が軒を連ねたのだそうです。

現在の家並みは、かつて繁栄した頃の名残でしょうが、格子をはめ袖壁を持つ家や、新しく作られたようですが同じような造りの料亭などが町の顔を作っています。妻側が土壁ではなく板張りの家が多いことも特徴的な景色を作っているのかもしれません。

 関所という代物は、時の権力者が自分に都合の悪いものは通さないという目的で作ったバリケードであると言えます。もちろん、治安の確保という面もあったでしょうが、主たる目的は権力の維持にあったことは、「入り鉄砲と出女」の言葉に如実に表されているように思います。現実の人間や物が動かなくても、権力者にとって都合の悪い情報が流入/流出することもあるでしょう。ネットを監視して、不都合な情報は阻止する国もあるようですが、このような権力者がわが国に出現することはごめんこうむりたいものです。