世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

小田原はお城とかまぼこだけではありません、数多くの別荘跡を巡る散歩はなかなか楽しいものです

2017-09-10 08:00:00 | 日本の町並み
 前々回に円山公園の近くに伊東忠太が設計した祇園閣を紹介しましたが、この祇園閣は大倉財閥の京都での別荘の中に建てられたものでした。実業家の別荘は、東京周辺に建てられることが多い中で、京都に別荘は数が少なかったのではないでしょうか。別荘というと、箱根や軽井沢などの保養地をしますが、箱根のおひざ元の小田原近辺に数多くの実業家の別荘があったのは意外です。今回は、小田原からは声登山線の箱根板橋にかけて散在する実業家の別荘跡を巡る散歩道を紹介します。

 
 
 かつての別荘は、石柱1本のみの場所や、個人所有で非公開のものもありますが、現存し公開されている建物もあります。小田原駅を降りて、小田原城跡を通り抜け南に少し行ったところにあるのが静閑亭で、かつては黒田長成侯爵の別荘でしたが、現在は小田原市の所有となり建物、庭園共に現存し公開されています。イベント会場などとしても使われるようで、少し小高い場所に建つため小田原市街の向こうに相模灘まで眺められます。この眺めが別荘地として選ばれた理由の一つかもしれません。

 
 
 静閑亭を南西に阪を下り山角天神を通り過ぎ左折すると対潮閣跡で正門跡に石垣と石碑が残るのみです。山下汽船の創業者・山下亀三郎の別荘でした。東海道を南に渡って民家の前に石柱が建っていて三吉達治の旧宅跡と分かります。少し東に行くと小田原聖十字教会で木立の中の三角屋根がかわいい教会です。南に行くと小田原文学館で、こちらの建物は田中光顕伯爵の別荘を活用したものです。

 
 
 
 静山荘は小田原文学館の北東には数多くの会社の設立に関わった望月軍四郎の建てた別荘ですが、現在は個人の所有で非公開です。東海道に出て、西へ在来線のガードと新幹線のガードの間を右に折れて、新幹線のガードを越えて道なりに行くと三井財閥の総帥であった益田鈍翁の別荘であった掃雲台の入り口跡の石碑があります。しばらくそのまま西に行き右折して坂を上ると右手にあるのが古稀庵の跡で、山形有朋の別荘跡です。現在は生命保険会社の研修所となっており、当時の建物は失われていますが、庭園が公開されていて見ることができます。さらに山道を登ると左手に旅館の山月があります。この建物は、京都の祇園閣も建てた大蔵喜八郎の別荘で、別荘の頃は共寿亭と呼ばれていました。

 
 古稀庵のところまで戻り、西に下ると突き当りが老欅荘です。電力王の松永安左エ門の別荘で、晩年に所沢の別荘の柳瀬壮から移り住んだ所です。小田原市の所有で、庭園もお茶室を含む建物が公開されています。老欅荘の手前には松永記念館があり、松永コレクションの一部が展示されています。

 
 最後に箱根板橋への帰り道に立ち寄りたいのが内野邸で、元の醤油醸造工場です。道路に面した表側は、黒漆喰になまこ壁の古民家風で、元の店舗を通り抜けた裏側に醸造講場跡が残され、大きな木桶が並んでいます。小田原市が乖離受け、公開されていますが、第2、4の土日のみで、内部を見学するためには日程を考慮する必要がありそうです。

 老欅荘を建てた電力王と呼ばれる松永安左エ門は、数多くのコレクションを東博(東京国立博物館)に寄贈をしており、説明のタグにも松永安左エ門寄贈の文字が目立ちます。多くは、茶碗などの茶道具です。茶碗はセラミック、現在の電子技術を支える重要な素材はファインセラミックと呼ばれるセラミックです。電気の王様と電子技術が妙なところで関連していたのかもしれません。また、安左エ門は役人嫌いでも有名な方でした。現場主義の彼は、机の上の知識だけで、物事を決めつける役人が気に入らなかったのでしょう。ただ、ある病院で健康診断にあたってる方の評判では、電力とガスに携わる会社の人ほど役人的な権力を振り回す横柄な人たちは居ないんだそうです。