因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

こまつ座・世田谷パブリックシアター『薮原検校』

2012-06-30 | 舞台

*井上ひさし作 栗山民也演出 公式サイトはこちら 世田谷パブリックシアター 7月1日まで
 本作を知ったのはずいぶん前のことだ。主人公杉の市、のちの二代目薮原検校を演じる中村勘九郎(現:勘三郎)がテレビのワイドショーに出演しており、主人公が最後にどうなるかを「もうお食事の時間は過ぎてるからだいじょうぶですよね」と気にしながら「三段斬り」について語っていたのを思い出す。そのグロテスクな様相を想像するだけでも恐ろしく、舞台をみたいという気持ちにはとてもなれなかった。
 「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに」この名言に象徴される井上ひさしの作風を愛する者にとって、悪の限りを尽くす『薮原検校』の劇世界は、やさしくもなくおもしろくもなく、ゆかいでもなかったのである。しかし戯曲はぐいぐいと引き込まれるように読んだのだ。なぜだろう。
 かくして1973年初演の井上ひさし傑作悪漢物語をみるのは、これがはじめてとなった。

 狂言役者の野村萬斎が出演する現代劇を、昨年の『ベッジ・パードン』をほとんど唯一の例外として、あまり肯定的にとらえることができないのが正直なところである。どこかしっくりせず、周囲から浮いている印象が強かったのだ。しかし今回彼が演じる杉の市は圧巻であった。台詞はひとつひとつが粒だち、浄瑠璃のパロディを早物語にして語る見せ場では「いったいどこで息つぎをしているのか」と思うくらいよどみない。
 極貧の境遇に盲目として生まれ、悪の限りを尽くし、金と欲にまみれながら這い上がろうとした人物にしては、萬斎は少々垢抜けて線がほそいようにも思われたが、これは他の追随を容易に許さない造形であろう。

 泣いて笑ってしみじみと考えさせるという作品ではないのに、手ごたえはずっしり。これはシェイクスピアの『リチャード3世』のように、悪人がのしあがっていき、頂点を極める寸前に転落するという物語が、人が無意識に持っている悪への憧れや共感に応えるためではないか。
 杉の市の境遇は時代背景もあってやや極端であるが、盲人への差別社会を才知を尽くして生き抜こうとする姿はぞくぞくするほど魅力的だ。もっとやれ、もっとやれと暗く執拗に求める気持ちが掻きたてられるのだ。しかし彼が大成功を収めて幸せになってほしいとは願わず、転落して無残な最期を遂げて、ある意味ほっとするのである。
 盗み、脅し、騙し、殺して這い上がる主人公より、何もせずに傍観している無傷のこちらのほうがよほど残虐ではなかろうか。

 野村萬斎のあとに杉の市に挑戦するのは大変ハードルの高いことであろうと察する。今回語り手役の盲太夫の浅野和之、情夫お市の秋山菜津子、母親の熊谷真実、塙保己市の小日向文世はじめ、これだけの実力派の布陣を整えることも容易ではなかろう。配役のバランスもむずかしいが、ぜひいろいろな俳優さんに演じてほしい。今回佐久間検校役ほかを演じた山内圭哉にずっしりと重量級で、北村有起哉には軽く鋭利に・・・杉の市、のちの二代目薮原検校を強力な磁場として、周辺の人物にも「この俳優さんだったら」と妄想がひろがりはじめた。

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