♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■十戒 -自由への励まし 28 / 大嶋重徳

2017年10月19日 | Weblog
2017/9/14放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書のことばは、人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。十戒第三戒は「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト記20章7節、申命記 5章11節)と命じていて、相応しい神様の名前の呼び方があるのだと教えています。キリスト教会の礼拝プログラムは相応しい神の名の呼び方を求めて作られたものです。ぜひ今度、教会の礼拝に行かれた時にそのプログラムの意味を思いながら礼拝に出ていただけたらと思います。

 礼拝には献金というプログラムがあります。献金は自分の願う願い事を神様に叶えてもらうお金ではありません。献金は私たちの手にしているすべてが神様から預かったものであり、このお金もまた自分のものではないと告白しているのです。更に自分に与えられたお金を捧げる行為はその他にも神の働きのために自分に与えられた賜物・時間を生かして神様のために捧げることが喜びとなる生活を生み出していきます。自らが生きる1週間の勉強や労働の意味を思い起こし、与えられ遣わされた職場へと感謝をもって出かけていくのです。また献金は祭司と言われる神殿で仕える人の生活や貧しいやもめの生活を教会共同体全体で支えることに用いられていました。礼拝での献金は牧師が福音を宣教する事に専念し、更に地域や世界で貧しく苦しんでる誰かの生活を支えるために用いられています。献金をすることによって私たちは世界の必要に加わる意識が育てられていくのです。

 礼拝の最後は祝祷があります。祝祷とは牧師が手を挙げて礼拝に出ている人たちの祝福を祈ります。この祝福のお祈りで私たちは神様によって祝福され、自分の遣わされている場所に押し出されていくのです。祝祷の祈りとは派遣の祈りです。「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりがあなたがたと共にありますように。」と、自らの生活のどこにおいても三位一体の神が共にいてくださることが宣言されているのです。ですから私たちは安心して平安の内に神と共に生きる生活へ送り出されていくのです。そして派遣されている場所で神様のご計画を想い巡らしながら私たちは次の週に向かっていく一週間を過ごすのです。ラジオをお聴きの皆さん、ぜひ次の日曜は教会に行ってみませんか。

  ( PBA制作「世の光」2017.9.14放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■あなたは昔から私の神 / 福井 誠

2017年10月18日 | Weblog
2017/9/13放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井誠です。今日のバイブル・メッセージは「あなたは昔から私の神」です。ハバクク1章12節を読んでみましょう。
 「主よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか。私たちは死ぬことはありません。

 今日はハバクク書です。預言者ハバククが生きた時代は紀元前7世紀頃でした。この時代に、かつてイスラエル北王国を滅ぼした北の大国アッシリヤが衰退し、代わって新しい帝国バビロニヤが勢いを増し、南の大国エジプトを牽制した時代ですね。また、いよいよユダ南王国が宗教的にも道徳的にも全く堕落し、滅亡の危機にさらされた時代です。実際ユダ南王国はバビロニア帝国のネブカデネザル王の度重なる侵略に疲弊し、やがて滅びていくのです。

 そこでハバククは祈っていますね。神様はユダ南王国をその堕落のゆえに罰すると言うが、なぜわざわざバビロニア帝国の侵略をその罰として用いるのかと。というのも、バビロニア帝国もまことの神を認めず、自分たちを神とするような非常に高ぶった者たちの国ではないかと。どうしてそんなおごり高ぶった国を神はユダ南王国を裁く道具として用いられるのか、という訳です。

 これまでの預言者は神の裁きをそのまま語り伝えるのが特徴でした。神の裁きの方法について異議を唱える預言者は珍しいのです。しかしハバククは神のことばを伝えながら、素朴な疑問をそのまま神にぶつけていますね。もし神に裁かれるのならば納得できる方法で裁かれたい、と。それに対する神の答えは、もしその裁きの執行者が悪人であればその人もまた裁かれるというものでした。神は正しいことをなさり、決してその結果に差別も不公平もない、というわけです。大切なのはこの正しい神を覚えて歩むことと、このように疑問を発する私たちの心の声に神は丁寧に答えてくださることを知ることです。神に訴え神に叫び、神の答えを得ることは人間の特権なのですね。聖書を読み続け、私たちの思いに配慮し応じてくださる神がおられることを知っていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2017.9.13放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■人の子が雲に乗って / 板倉邦雄

2017年10月17日 | Weblog
2017/9/12放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「人の子が雲に乗って」という題でお話ししましょう。

 孫悟空が、きんと雲(うん)と言う雲に乗ってこの世界を飛び回る物語を読んだことがあります。「人の子」と自らを呼んだイエス様も雲に乗って再びこの世に来てくださると言うのです。

 さてイエス様はエルサレムの都の滅亡と宇宙とこの世界の滅亡を語った時、最後にこう言われました。「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マルコ13章26節、ルカ21章27節) 「だから、天変地異が起こり始めたらあなたがたは伏せている顔と体を起こして天を見上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからです。」(マルコ13章29節参照、ルカ21章28節参照)とイエス様は語りました。

 イエス・キリストの再臨はイエス様を信じて従う者たちにとって希望の光です。王の王また君の君としてこの世に来られるからです。そして神の恵みの国をこの世に実現するからです。この神の国を聖書はキリストの王国と言います。旧約聖書のイザヤ書にはこの王国の支配者は主なるイエス・キリストと描いているのです。人々は戦うことを止め、剣や槍を鍬に変えて働くのです。更に弱肉強食の世界は無くなります。狼と小羊が一緒に宿るのです。赤子はマムシの穴に手を入れても損なわれることはないのです。エデンの園の回復ではないでしょうか。当然、自然環境も良くなるので人々の健康もよくなり、寿命も長くなる、とイザヤは語っています。体の健康だけではなく心の健康もよくなるでしょうねえ。

 しかしながらイエス・キリストがこの世界に再び来られるという時は神の審判の時でもあると言うことです。キリスト信徒たちはこのように告白してきました。「主イエスは十字架にかけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)に降り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを裁きたまわん。」(使徒信条)と。 私たちもキリストの王国を待ち望みながら、神の最後の審判を迎えたいものです。

   (PBA制作「世の光」2017.9.12放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■神様のタイミング / 岩井基雄

2017年10月16日 | Weblog
2017/9/11放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。第二週の月曜日は旧約聖書に登場するヨセフの人生から学んでいます。先月はヨセフが一緒に牢にいた王のしもべたちの夢を解き明かし、その通りに献酌官長は王の元に戻されましたが、彼は自分のことを王に話して欲しいというヨセフの願いを忘れてしまった所まで学びました。

 誠実に歩み続けるヨセフもなお二年間待たされたのです。二年経った時、エジプトの王パロは不思議な二つの夢を見ました。一つは、肥え太った7頭の牝牛を痩せ衰えた7頭の牝牛が飲み込んでも何も変わらないという夢。もう一つは、よく実った七つの稲穂を萎びた七つの稲穂が飲み込んでも何の変化もないという夢でした。これらの夢を解き明かせる者はエジプトにいませんでした。その時、あの献酌官長がヨセフのことを思い出したのです。

 ついに神の時が来ました。この後ヨセフがパロの夢を解き明かし、エジプトのみならずこの地域の人々を助けることになっていくのです。ヨセフはついにパロ前に立ったのです。

 聖書はこう語ります。
 ヨセフはパロに言った。
 「パロの夢は一つです。神がなさろうとすることをパロに示されたのです。

   旧約聖書 創世記41章25節

 そして7年間の大豊作のあとに大豊作を忘れるほどの7年間の大飢饉がこの地域を襲うこと、それゆえに大豊作の間にその作物を蓄えておく重要性をヨセフはパウロに語ったのです。その解き明かしはパロだけではなく全ての家臣たちの心にも適いました。神の御心がヨセフを通してエジプトに示されたです。もしヨセフが2年前に釈放されていたら彼が王に用いられることはなかったかもしれません。苦難の中にとどまることにさえ神様のご計画があるのです。神のなさることは全て時に適って美しいのです。たとえ先が見えない苦難の中に私たちが置かれていたとしても、その中で神様に信頼をし、神様の時を待ち望むものとさせていただきたいと願います。

 聖書のことば
 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」  (伝道者の書 3章11節)

   PBA制作「世の光」2017.9.11放送でのお話しより)

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■神は愛する者をしかる / 羽鳥頼和

2017年10月14日 | Weblog
2017/9/9放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。先週に引き続いて旧約聖書のエゼキエル書からお話しします。エゼキエル書にはユダの国がバビロンに攻められ、滅亡の危機に瀕している頃、人々がバビロンに強制的に連れて行かれる行かれるいわゆるバビロン捕囚の時代に、バビロンに連れて来られた預言者エゼキエルに与えられた神のことばが記されています。

 今日はエゼキエル書の12章で語られていることをお話しします。神はこれまで、人々が神の教えに逆らっていること、そしてこのままではさばきがくだるので罪を認めて神に謝り悔い改めるようにと勧めておられました。しかし人々は悔い改めませんでした。そこで神はエゼキエルに不思議な二つの行動を取るように命じられました。

 一つめは、捕えられ強制的に連れて行かれる者のように、荷物をまとめて夕方自分の手で壁に穴をあけ、人々の見ている前で暗いうちにその少ない荷物を背負ってで出ろ、というものでした。エゼキエルはその通りにしました。このことはエルサレムが破壊され、そこに住む人々が自分たちと同じように捕えられてバビロンに強制的に連れて来られてしまうことを教えていました。しかし人々はその不思議な行動を見ても何とも思いませんでした。

 神は続いて二つ目の不思議な命令をしました。震えながらパンを食べ、おののきながらこわごわ水を飲め。エゼキエルはその通りにしました。このことは陥落直前のエルサレムの様相を教えていました。エルサレムは兵糧攻めに遭い、食べるものも飲み水もなくなってしまい、ついにエルサレムは滅びるのです。しかし人々はエルサレムが滅びるはずはないと言って神のことばを信じませんでした。

 新約聖書のヨハネの黙示録3章19節で神はこのように教えておられます。
 「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

 そしてヨハネの手紙第一1章9節はこのように教えています。
 「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 明日は日曜日です。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

(PBA制作「世の光」 2017.9.9放送でのお話より )
 
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■祈りを聞かれる神様 / 関根弘興

2017年10月13日 | Weblog
2017/9/8放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 
 誰でもが祈るということを経験したことがあると思います。でも、祈るという時に誰に向かって祈っているのかということを多くの方は考えないんですね。でも、誰に向かって祈るかってことはとても大切な問題です。聖書は、あなたの祈りを聞いてくださる方がいますよ、それは天地万物を創造された神様がおられるのですよ、と教えます。そしてイエス様はこの神様に向かって何と「天のお父さん」と呼びかけて祈りなさい、それも失望しないで祈り続けなさい、と教えられたんです。

 前回も紹介しましたがイエス様はこんなたとえを話されました。ある日の真夜中、旅の途中の友人が突然やってきました。しかし食事を出してやろうにも何もなかったんです。そこでこの人は別の友達の所に行って、「パンを三つ貸してくれ。」(ルカ 11章5節)と頼むんですねえ。しかし、「『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。」(ルカ 11章7節)と断られてしまうんです。しかし、「あくまで頼み続けるなら、・・・必要な物を与えるでしょう。」(ルカ 11章8節)と結ばれているんですねえ。

 旧約聖書の箴言の3章28節という所にはこんなことばが出てきます。
 「出直してくれ。明日上げよう。」と友に言うな。あなたが今持っているなら。
 こういうことばがあります。これは友達に頼まれたものが手元にあるなら、その場ですぐに与えるべきだ、というユダヤの社会に生きている人ならよく聞かされていたことばです。ですからイエス様の例え話を聞いていた人たちは、友達がパンを貸してくれと頼みに来たらすぐに貸してやるのが当たり前だ、と思って聞いていたはずです。幾ら真夜中に起こされて迷惑だったとしても貸さなければあとで友達に頼まれたのに断った男として恥をかくことになるかもしれません。ですから頼まれ続けたら自分の面子に懸けても貸してやるだろうともこの箇所は読み取ることができる話なんですね。

 そうであるならどうでしょう。まして私たちの神様はご自分の面子にかけてご自分の名にかけて私たちの祈りを聞かずに放って置かれるはずはありませんね。私たちは愛と憐れみに富む天のお父様に失望しないで祈り続けていくのです。神様はあなたの祈りを聞かれる方なのですから。

 (PBA制作「世の光」2017.9.8放送でのお話しより)

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■主の御名によって歩もう / 福井 誠

2017年10月12日 | Weblog
2017/9/6放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井誠です。今日のバイブル・メッセージは「主の御名によって歩もう」です。ミカ書4章5節を読んでみましょう。
 「まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。
  しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。


 今日はミカ書です。この書を書いたミカは紀元前8世紀頃に活躍した預言者です。彼が生きた時代はイスラエル北王国が北の強大国アッシリヤによって滅ぼされ、更にユダ南王国もその脅威にさらされた時代でした。ミカはこの預言書の中で国民が国家権力の腐敗や横暴によって搾取され虐げられ苦しむさまを描いて、そこに神の裁きがくだることを語っています。その預言はやがて具体的に成就していくことになりますが、ミカは神の裁きのことばで終わらず、神の力によって新しい秩序の時代が来ることを告げています。その新しい秩序の時代とは、地上の王ではなくまことの神が直接人々を支配し、さばき、教えてくださる時代のことです。

 この預言からすでに三千年近くも立っている今日、実はこの新しい秩序の時代が来ていることに私たちは理解を深めなくてはなりません。今の目に見える世の中では、日本の国は日本の首相や政治家たちが支配し、これをリードしていると思われるものでしょう。しかし実は目に見えない神様が直接人々を支配し、裁き、教えてくださっていることも知らなくてはなりません。目には見えませんが生きた神様がおられて、この世界万物を支配し、守り、導いておられるのです。まことの活ける神が私たちの生活に働いて、私たちに最善を為しておられます。信仰を持つというのはその目に見えない活ける神がおられることを認めて、その神を信頼して生きることに他なりません。そしてやがて私たちがこの神の前に立つ日が来ることを覚えて、それに相応しい人生を生き抜くように心がけていくことなのです。「神様はいない」と言うのではなくて、ぜひ神様について書いてある聖書を読み進めながら、この神様の素晴らしさを知っていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2017.9.6放送でのお話より )

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■十戒 -自由への励まし27 / 大嶋重徳

2017年10月11日 | Weblog
2017/9/7放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書のことばは、人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。十戒第三戒は「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト記20章7節、申命記 5章11節)と命じていて、相応しい神様の名前の呼び方があるのだと教えています。キリスト教会の礼拝プログラムは相応しい神の名の呼び方を求めて作られたものです。ぜひ今度、そのプログラムの意味を思いながら礼拝に出ていただけたらと思います。

 礼拝の中では聖餐式というプログラムでぶどう酒とパンを食べます。日常に食べるパンとぶどう酒によって味覚、嗅覚、視覚を刺激されながら、私たちがイエス様にいただいた救いは魂の霊的な事柄だけではなく、日常の救いであることも確認します。

 そもそも聖餐式はイエス・キリストが十字架にかかる前夜、「わたしを覚えてこれを行いなさい」と弟子たちに命じられたものです。聖餐式を行うたびに私たちはキリストの十字架を思い起こし、誰より自らがキリストを十字架につけた罪人の一人であることを自覚し、今なお日々罪を犯す者であり赦され続けなければならない者であるという認識をもたらしてくれるのです。そして聖餐式によって私たちは罪赦された日常を生きていくのです。

 さらに聖餐式は神の家族の食卓です。神に赦された者たちが、あらゆる国民、民族、肌の色を超えて一つになっていことを求めるのです。今はまだ社会に敵意が満ち溢れていたとしても、食事をしながらイエス様を中心とした交わりを持とうとするのです。ご飯を食べる関係とは仲の良い関係か、あるいは仲良くなろうとする意志がそこにあります。十戒第三戒に生きる者は誰かをそこから排除しようとする排外主義や差別を拒む生き方も生み出していきます。

 そして同時に、この聖餐式の食卓に一人でも多く加わってくれるように大切な人の救いのことを祈る機会をキリスト者は持つのです。もしかすると信仰を持っていないので聖餐に加われなかったという寂しい思いを持たれたことのある人もいらっしゃるかもしれません。しかしキリスト教会の願う事はこの場所にあなたも早く加わって欲しい、主にある家族の食卓に加わって欲しいと願っているのです。

 ぜひラジオをお聴きの皆さんも、イエス・キリスト信じ、告白して、この聖餐の恵みの中に入れられていただきたいと願います。

  ( PBA制作「世の光」2017.9.7放送でのお話しより )

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■都市の滅亡 / 板倉邦雄

2017年10月10日 | Weblog
2017/9/5放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日からルカの福音書の途中からのお話になります。題は「都市の滅亡」。 大都市の滅亡は歴史の中に繰り返されてきました。紀元前5世紀の大都市バビロン、イスラエルの都エルサレムの滅亡も紀元70年に起こりました。

 さてイエス様は預言なさいました。「エルサレムの都がローマの軍隊に包囲されるのを見たならば、その時は都の滅亡が近づいたと悟りなさい。その時の注意事項を言いましょう。まず山へ逃げなさい。低地へとどまってはなりません。」(ルカ 21章20節、21節参照 )
 私たちは東日本大震災の大洪水の経験で山へ逃げることの重要さを知らされましたね。
 第二に、「町の中にいる者は町の中から直ちに出るように。田舎にいる者は市内に入らないように。とにかく山へ逃げなさい。」
 持ち物を取りに家に帰るな、という警告のことばです。

 「その都市の滅亡の日は身重の女性と乳飲み子を持つ女性とは不幸です。」(ルカ 21章23節参照 )
 逃げるのと山へ登るのが大変だからでしょう。

 「このように地上には大きな苦難が起こり、国民には神の怒りが臨むからです。そしてこのエルサレムの都は異邦人の時期が満ちるまで異邦人に踏みにじられているであろう。」(ルカ 21章24節参照 )
 この「異邦人の時期が満ちるまで」とはどういう意味でしょうか。異邦人のすべてに神の国の恵みが伝えられ、救われる人と救われない人が満ちるまで、と言うことでしょうか。それからこの宇宙と全世界の滅亡がやってくるのです。

 ですから、続けてイエス様は言われました。
 「また地上では諸国民は悩み、海と大波の轟きにおじけ戸惑うでしょう。人々は世界に起ころうとすることを思い、恐怖と不安で気絶するでしょう。もろもろの天体までが揺り動かされるからです。」(ルカ 21章25節、26節参照 )
 黄金の都エルサレムの滅亡は紀元70年でした。そして最後に、この天体とこの世界の滅亡がやって来るのです。その前に私たちの人生の終わりの日が来るでしょう。その私の滅する日のために備えることが重要ではないでしょうか。その備えとは神様を信頼して生きることです。 

   (PBA制作「世の光」2017.9.5放送でのお話より )

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■神の主権に信頼するゆるがない人生 / 岩井基雄

2017年10月09日 | Weblog
2017/9/4放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 第一週の月曜日は詩篇から学んでいますが、今日は詩篇104篇の1節から5節から一緒に考えましょう。
 私たちの心には祈り心がありますねえ。誰に祈ってよいか分からないときも助けを求めて祈るのです。その祈りには願いや期待が叶えられたいとの思いがあります。しかし叶わなかったとき私たちは不満を持ち、失望や怒りも覚えますねえ。願いが叶えられることのみを求めるということはどうなんでしょうか。

 子育て真っただ中という方もいらっしゃると思いますが、私たちも4人の子どもを育てきました。子どもたちの願いを私たちが全部叶えていたらどうでしょう。子どもたちの願いや思いには自己中心的な未熟なものもありますよね。私たちは子どもたちに、聖書が語る神様に祈り求めることを教えてきました。そして祈りの結果は、すべてのものを造られた神様の主権に委ねることも教え、そこには素晴らしい平安があることも教えてきたのです。子どもたちは思い通りにならないときに、自分の願いは神様に喜ばれるものだったのかな?と考えるようになり、子どもたちなりに神様の主権を認め、結果を神様に委ねる平安を学び続けているのです。

 今日の詩篇は、そんな神様の主権を認め、それを誉めたたえる歌が綴られています。そしてその神様への賛美の内にまことの平安が与えられ、揺るがない心が描かれているのです。聖書が語る神様への主権への賛美に心を留めて、宜しければ目を閉じて聴いてみてください。

 わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。
 あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。
 あなたは光を衣のように着、天を、幕のように広げておられます。
 水の中にご自分の高殿の梁を置き、雲をご自分の車とし、風の翼に乗って歩かれます。
 風をご自分の使いとし、焼き尽くす火をご自分の召使とされます。
 また地をその基の上に据えられました。
 地はそれゆえ、とこしえにゆるぎません。 

           旧約聖書 詩篇104篇1節から5節

 全てを造られた神様の主権を認め、神と人の前にへりくだる人生はしっかりと土台を据えた平安と喜びに満ち、ゆるがない人生へと変わり続けるのです。

   PBA制作「世の光」2017.9.4放送でのお話しより)

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