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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■あなたの創造者を覚えよ / 関根弘興

2016年09月19日 | Weblog
2016/9/19放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。 番組に聖書のことばについて質問が届きました。旧約聖書の伝道者の書の11章1節のことばなんですが、
 「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。
 こういうことばですねえ。この意味はいったいどういうことですか?という質問でした。

 このことばの意味は、人生には不確実な要素がとても多いですよね。私たち人間は未来がどうなるかを予測することはとても難しいです。でもそれだからといって未来の危険を恐れて何もせずに手をこまねいているのではなく勇気をもって歩んで行きなさいという勧めのことばなんですねえ。「あなたのパンを水の上に投げよ」とありますが、水の上にパンを投げたら何だか勿体ないというか、まるで無駄のように見えますね。でも考えると、そのパンが魚のエサになっていくなら後に漁獲高が増していく、という風にも考えられますよねえ。またこのパンを商品と例えるなら、その商品を水の上に投げる、つまり海を越えて貿易をすると考えると、その商品が後に世界に広がっていく訳ですね。またこのパンを善意とか親切というふうに置き換えてみると、無駄と思えても善意や親切、そうしたものは決して最終的に無駄になることはないんだというふうにも取れますね。
 
 つまり明日のことを私は分からないわけですよねえ。ですから神様の御手に人生を委ねて自分のなすべき業(わざ)をそれが時には無駄であるかのように見えたり、すぐに結果が出ないこともあるかもしれませんが、勇気をもって歩んで行きなさい、ということばという風に理解されたらいいと思うんです。

 この伝道者の書というのはイスラエルの繁栄を築いたソロモンという王様が記したと言われます。彼は国の領土広げ、貿易を盛んにし、国を富ませた成功者です。でもこの書の中には、何度も「むなしい」ということばが使われているんですねえ。大きなことを達成し成功者として地位を得たにもかかわらず、「空しい」と言ってるんです。そして、この書の一番最後にはこう書かれています。
 「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書 12章13節)
 
 私たちはいろんな経験をしますけれども、最終的に「神を恐れる」つまり神様の前に膝まづいて生きる、神を礼拝しながら生きる、ということが本当に人間にとって大切だと教えているんですね。

  (PBA制作「世の光」2016.9.19放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■悩む者の祈り / 羽鳥頼和

2016年09月17日 | Weblog
2016/9/17放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。今日は詩篇102篇からお話しします。

 この詩篇には表題があり、「悩む者の祈り」とあります。この詩はユダ国がバビロンに滅ぼされてしばらく経って書かれたものだと思われます。バビロンの国に捕え移された国民の苦しみを自分の苦しみとして表現しています。悲惨な状況を詩的表現でこのように語っています。

 「私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れました。・・・私は荒野のペリカンのようになり、廃墟のふくろうのようになっています。」(4節、6節)
 しおれた青菜は土から引っこ抜かれて陽の光を浴びてしおれてしまった青菜です。心がしおれてしまった様子を表しています。荒野のペリカンは一羽でうなだれているペリカンのことです。通常はペリカンは群を造って水辺にいるのですが、このペリカンは孤独に寂しくたたずんでいるのです。孤独で寂しい状況を表わしています。廃墟のふくろうは人のいない廃墟の暗がりに一羽でたたずむふくろうです。滅ぼされてしまい、家族も親族もいない天涯孤独の状態を表しています。

 更に作者はこのような絶望的な状況を、神が自分に与えたものだと考えています。それなのに文句を言うのではなく、苦難を与えた神に救いを求めて叫びます。
 「主よ。私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたに届きますように。私が苦しんでいるときに、御顔を私に隠さないでください。私に耳を傾けてください。私が呼ぶときに、早く私に答えてください。」(1節、2節)

 クリスチャン作家の三浦綾子さんは、脊椎カリエスや帯状疱疹、癌、更にパーキンソン病を経験されました。生前、帯状疱疹になった頃、ある講演会で「私は病気のデパートです。」と言い、「神様は私をえこひいきしておられる。」と言っておられました。パーキンソン病になった時はその著書の中で、「神の与えたものなら良いものであろう。従います。」と語っておられました。

 神は愛の神であり絶対に正しいお方です。その神に信頼し続ける信仰がこの詩篇の作者そして三浦綾子さんにあるのです。愛の神、絶対に正しい神を礼拝するために、お近くのキリスト教会にぜひいらしてください

 (PBA制作「世の光」 2016.9.17放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■友達の愛と信仰によって マルコ⑫ / 岩井基雄

2016年09月16日 | Weblog
2016/9/16放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。第三週の金曜日はマルコの福音書から学んでいます。

 イエス・キリストの愛のわざ、すなわち人々の病を癒し回復させてくださる奇跡の噂は多くの町に広がって行きました。ガリラヤ湖畔のカペナウムにもその噂が伝わり、足の不自由な一人の男性の癒しを願って四人の友人たちが彼をイエスのもとに力を合わせて運んだのです。しかしイエスのいる家は多くの人で溢れ、彼らが入るスペースなどありませんでした。通常ならば諦めて帰るところでしょう。しかし彼らは友のために行動を起こしたのです。聖書にはこう記されています。
 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。 
  新約聖書 マルコの福音書2章4節、5節

 当時の家は石造りでしたが、屋根は容易に剥がせるような構造だったようです。それでも突然に屋根が剥がされ、人が吊り降ろされてきたのですから、そこにいた人々もその家の持ち主も驚いたことでしょうね。イエスはこの五人の信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と語られたのです。それは驚くべき内容でした。それを聞いていた律法者たちが心の中で、「あのイエスとやらは神を穢しているのだ。神お一人のほか誰が罪を赦すことができよう。」とつぶやいたのも無理はありません。

 しかし、すべてを御存知のイエス・キリストは、彼らにご自身の真の権威を示すために彼の足をも癒し、彼を立ち上がらせくださったのです。イエス・キリストは単にこの男性の足を回復させだけではなく、神の前に彼を整え、神にある罪の赦し、真の祝福を受け取ることができる者とされたからです。キリストもまたこの五人の愛と信仰の姿をどれほど喜ばれたでしょうか。

 イエス・キリストはあなたの心の根底にある問題に解決を与え、人生を豊かに祝福してくださるお方なのです。その愛に生かされるとき、あなたも罪赦され、そして真の友となっていことができるのです。あなたも神のもとに戻りませんか? 

  (PBA制作「世の光」2016.9.16放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■神も愛していた / 福井 誠

2016年09月15日 | Weblog
2016/9/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「神も愛していた」です。それでは第一サムエル記20章17節から読んでみましょう。

 「ヨナタンは、もう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。

 先週もお話ししましたが、神は必ず苦難の中にあっても小さな逃げ道を備えられるお方ですね。神の善意を信じて物事に希望をもって進んでいかなければならないときもあるのです。ただそれは、必ずしもすっきりした気持ちでということではないですね。サウルにいのちを狙われた時にダビデはその心境を詩に残しています。少し読んでみましょう。

 「わが神。私を敵から救い出してください。私に立ち向かう者が届かぬほど、私を高く上げてください。・・・今や、彼らは私のいのちを取ろうと、待ち伏せています。力ある者どもが、私に襲いかかろうとしています。主よ。それは私のそむきの罪のためでもなく、私の罪のためでもありません。私には、咎がないのに、彼らは走り回り、身を構えているのです。どうか目をさまして、私を助けてください。どうか、見てください。」 (詩篇 59篇1 、3、4節)

 必死にすがりついているダビデを思わされる所ですねえ。

 けれども一方でダビデはこうも言っています。
 「私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。
   神は私のとりで、私の恵みの神であられます。
」(詩篇 59篇17節)

 ダビデは神の助けを確信しています。もちろんダビデはこのように祈ったからといって翌日には状況が全く変わった訳ではありません。実際にはダビデはますます追い詰められていくのです。ますます苦しくなっていくのです。けれどもダビデはそうした危機感にさらされながら、同時に神への望みを捨てずにいますね。

 大切なのは、神への信頼感を持ち続けることです。もうだめだと思ったら、それまでです。しかし神は私たち以上に誠実なお方です。神がダビデに与えてくださった支えは、サウルの息子ヨナタンの揺るがない友情でした。本来は有り得ない友情を神は与えてくださり、この時を耐え忍ばせてくださったのです。ですから主の助けを信じ、あともう一歩と自分に言い聞かせる粘り強い信仰を育てていきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2016.9.15放送でのお話より )

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■重荷を負い合う / 板倉邦雄

2016年09月14日 | Weblog
2016/9/14放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「重荷を負い合う」という題でお話ししましょう。

 私は日本長老教会という教派に所属しています。時々、「老人ホームですか?」という電話が教会にかかってきます。牧師と長老三人、計四人で教会を運営しています。

 さて、先週モーセは、イスラエルの人々から「肉が食べたい」と泣いて訴えられ、困り果ててしまいました。主なる神様に、「このすべての民の重荷を一人で負い切れません。私には重すぎます。」と訴えましたねえ。

 すると主なる神様は直ちにモーセにお答えになりました。
 「イスラエルの長老たちの内で、民の長老となり指導者となるべき事をあなたが認識している人70人をわたしのもとへ集めなさい。神の幕屋に連れて来て、そこにあなたと共に立たさせなさい。私は下って、幕屋であなたと語り、あなたの上にある霊の賜物を七十人の長老にも分け与えるであろう。彼らはあなたと共に、民の重荷を負い、あなたがただ一人で重荷を負うことのないようにするであろう。」

 この時モーセは、宿営を出て行って主なる神様のことばを民に告げ、民の長老たち70人を集めて神の幕屋の前に立たせたのです。

 すると主なる神様は雲の内にあって天からエレベーターのように降り、モーセに語られ、モーセの上にある霊の賜物を七十人の長老たちにも分け与えられたのです。

 その霊の賜物が長老たちの上に留まった時、彼らは預言をしました。すべての民が預言者となることをモーセは願っていたのではないでしょうか。

 さて新約聖書においてキリストの一番弟子ペテロはこう言いました。
 「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマ(洗礼)を受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」(使徒の働き2章38節)
 
 神様への悔い改めと主イエス・キリストを信じる信仰によって洗礼を受けるすべての人々に、聖霊の賜物が与えられてゆくのです。ですから私たちはすべて預言者となり、祭司となり、王となることができて、お互いに重荷を分け合うことができるのです。一人で重荷を背負うことはありません。私も三名の長老たちと信徒たちと共に教会の重荷を分けあっているのです。

  (PBA制作「世の光」2016.9.14放送でのお話より )

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■本当に必要なたった一つのもの 7 / 大嶋重徳

2016年09月13日 | Weblog
2016/9/13放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
 新約聖書ルカの福音書には、イエス様の足元にじっと座りこんでイエス様のことばに聞き入る妹マリヤに、自分の手伝いをしない、と腹を立てたマルタという姉妹の物語が出てきます。

 しかしイエス様は、みことばを聞き入るマリヤに、「必要なたった一つのことをしている。」とおっしゃってくださいました。一方、イエス様をもてなそうと一所懸命だったマルタにとっては、この出来事は非常に落ち込む出来事となったでしょう。イエス様のことをもてなしたいという思いで始まったにもかかわらず、自分の心が乱れに乱れてしまい、妹マリヤに怒り、自分だけが働いている!とイエス様に対しても怒りを爆発させてしまったのです。

 おそらくマルタはしっかり者のお姉さんだったと思います。よく気が付く人で、イエス様一行もマルタのもてなしをとても喜んでいたことだったでしょう。そしてマルタもそんな自分に自信があったからこそイエス様に対して強く出てしまったのではないでしょうか。そんなマルタだったからこそ、イエス様に訴え出た自分のことばの余りのひどさをあとで冷静になった時に思い知らされた出来事であったでしょう。イエス様にかけられたこのことばはマルタの信仰生活に挫折を生みました。

 しかしそんなマルタにイエス様は、「マルタ、マルタ」と呼びかけられます。この時代の特徴ですが、二度呼ぶとは非常に強い愛情を示す文学的用法です。マルタにもかけられている暖かい思いがここにあります。確かにここでマルタは砕かれます。しかし砕かれるということと共にあるのは、新しく造り直される恵みの時です。

 私たちは聖書のことばを読んでいると、時に強く、時に激しく砕かれることを経験します。自分が自分で正しいと思っていてた信仰理解、福音理解を根底から壊されるような思いにさせられることがあります。しかしその際に私たちを砕いているのはイエス様だということ、それが大きな安心です。もし私たちが誰か人によって砕かれ打ちのめされる時、私たちの思いは憎しみとなり怒りとなり、その記憶は苦々しい歪みとなっていきます。しかし私たちが聖書から砕かれていくとき、私たちは砕かれることをもなお安心の中で、より神様にお委ねしながら受けとめる事ができるのです。

 今朝も私たちは、聖書から神様の優しさを感じながら、砕かれることをも受けとめていきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2016.9.13放送でのお話しより )

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■愛のうちに歩む / 関根弘興

2016年09月12日 | Weblog
2016/9/12放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。 今日も聖書のことばを最初に紹介いたしましょう。

 新約聖書エペソ人への手紙5章1節
 「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。

 「神にならう」ということの具体的なことの一つは、神様の愛の内に歩むということです。でもどうでしょう、愛の内に歩みなさい、と言われると何だか自分の愛のなさに限界を感じ、いやあやっぱり私は愛がないなと失望したりしてしまうということもありますよね。そこで大切なのは、あなたがまず神様にどれほど愛されているかを知ること、これが大切なんだと聖書は教えるんです。

 エペソ人への手紙の5章の2節というところにはこう書かれています。
 「また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
 こう書かれているんです。

 私たちにとっては「神への捧げ物」とか「供え物」とか「香ばしい香り」ということばはピンとこない、何だか馴染みのないことばだと思います。でもユダヤの社会では違います。エルサレムには神殿があり、そこでは人の罪の身代わりとして動物が犠牲として捧げられていました。でも動物の犠牲では私たちの罪を完全に贖うことができません。

 しかし罪のないイエス・キリストが私たちの罪をすべて背負って十字架についてくださったと聖書は教えていますよね。つまりキリストの私たちへの愛はご自分のいのちを捧げるほどの愛だと言うのです。キリストはそれほどまでに私たちを愛してくださったのは、私たちがキリストを愛し、従っていたからでしょうか? そうではないですね。

 ローマ人への手紙5章8節には、
 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
 と書かれています。

 なんと私たちが弱く神様に背を受けている罪人であった時に、神様はキリストの十字架を通して私たちへの愛を示してくださったと教えているんですねえ。神様がまず私たちを愛してくださったからこそ、私たちはその愛に支えられ愛に生きることができるんです。「愛のうちに歩みなさい。」 それはキリストがまずあなたを愛してくださったから、そのような歩みが始められるんです。

  (PBA制作「世の光」2016.9.12放送でのお話しより)

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■悔改める王ヒゼキヤ / 羽鳥頼和

2016年09月10日 | Weblog
2016/9/10放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。今日はユダの王ヒゼキヤについてお話しします。

 ヒゼキヤは神に忠実な王でした。強敵アッシリアが攻めてきた時、ヒゼキヤが神に祈ると、神は御使いを送り、アッシリアの将軍たちを滅ぼしてくださいました。このようなヒゼキヤの治世を聖書はこのように教えています。

 「こうして、主は、アッシリヤの王セナケリブの手、および、すべての者の手から、ヒゼキヤとエルサレムの住民とを救い、四方から彼らを守り導かれた。・・・この時以来、彼はすべての国々から尊敬の目で見られるようになった。」(歴代誌第二 32章22節、23節)

 その後ヒゼキヤにまた危機が来ます。病になって死にそうになったのです。この時も彼は祈りました。彼が祈ると神はその祈りを聞き、いのちを長らえさせてくださいました。

 ところがこの時、ヒデキヤはこのことに感謝するどころか、彼は高慢になってしまったのです。どうしてでしょう。きっと人々から尊敬の目で見られるようになったところから彼の心に高慢な思いが芽生え、病気が癒された安心感から心に油断が生じ、神への恐れがなくなり、高慢になってしまったのでしょう。

 そんなヒゼキヤと彼の国に対して神は怒られました。するとすぐヒゼキヤは悔い改めたのでした。すると神はヒゼキヤを赦し、国を豊かにしてくださいました。

 今日はヒゼキヤの高慢になってしまったという失敗について考えたいと思います。非の打ちどころのない完全な人は居ません。人は必ず失敗を経験します。聖書は、失敗してはならないとは教えていません。むしろ失敗した時にどうするべきなのかを教えてくれています。神はどんな失敗からも回復させてくださるお方です。今日の聖書は特に、罪という大きく恐ろしい失敗をしたとき、まず悔い改めることが大切であることを教えています。ヒゼキヤはすぐに悔い改めました。自分が悪いことしたと認めて、悪いことを止めて、神に忠実であろうと決心したのです。私たちも神に忠実であろうとする心をもって、神に守られ導かれて歩んで参りましょう。

 明日は日曜日です。お近くのキリスト教会にぜひいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.9.10放送でのお話より )
 
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■神と人の前に関係を築きなおす / 岩井基雄

2016年09月09日 | Weblog
2016/9/9放送

世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。今日は旧約聖書の詩篇100篇の前半から、「神と人の前に関係を築きなおす」と題して神様の恵みに生かされる幸いな人生を共に考えてみましょう。

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。月の第二週の金曜日は旧約聖書に登場するヤコブの人生について学んでいます。彼は神様によって内側から変えられた人でした。双子の兄弟エサウとの問題を乗り越え故郷に戻ったヤコブは、自分の娘ディナに起こった災難と騒動に心を痛めました。シェケムの町で宿営をしていた時、ハモルの子シェケムに娘ディナを暴行されたことがきっかけとなって、ディナの兄シメオンとレビが剣でシェケムの町の全男子を殺害するという事件が起こってしまったからです(創世記 34章25節)。しかもヤコブの息子たちはシェケムたちにユダヤ人の神様との契約のしるしである割礼を要求し、彼らの割礼の傷がまだ痛んでいる時に彼らを襲い、彼らの財産を奪ってしまったのです。それは信頼関係を踏みにじる行為でした。父ヤコブは息子たちの狡猾で頑なな姿に苦悩します。

 しかし彼らの人間性の問題の背後には、神様に対する不誠実という彼らの罪の問題があったのです。神は葛藤するヤコブに、信仰と歩みの原点であるベテルに戻り神様の礼拝の祭壇を築くよう求めました。

 その時のことを聖書は次のように語っています。

 神はヤコブに仰せられた。
  「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」
  それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。
  「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。 そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」

             旧約聖書創世記35章1節から3節

 ヤコブは即座に神に従い、偶像を捨てて悔い改め身をきよめるよう、家族に求めました。神の前に罪の姿をそのままにしておく時、私たちの問題は更に大きくなるからです。そしてヤコブは苦難の日にいつも共におられた神様の恵みを家族に伝え、共に悔い改めたのです。私たちも人生においてしばしば原点に戻る大切さを経験しますね。神と人との前に心と歩みが整えられる必要はすべての人にあるのです。

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■神の「しかし」 / 福井 誠

2016年09月08日 | Weblog
2016/9/8放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「神の『しかし』」です。それでは第一サムエル記19章1節から読んでみましょう。

 「サウルは、ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げた。しかし、サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。

 妬みと憎しみに駆られたサウル王はダビデを敵視し、これを殺そうと固く決意して行きますね。ダビデにとっては余りにも不本意な人生の展開でした。ただ神を信じ、神と共に歩み勝利を得たダビデ。けれどもそのあとはまるで神に見捨てられたかのようにいのちを狙われる人生へと流されていくのです。神と共に生きる時になぜこんな事が起こって来るのか、と思うところですね。しかし神を信じたとしても人生の困難は尽きず、うっとうしい日々もあれば、狂おしい日々もある。これが現実ではないでしょうか。神様を信じても何も良いことはない。こんなんじゃ信じなきゃ良かった。あるいは、神様なんて結局気休めなんだよ、と思ったりする方もいるでしょう。けれどもこの罪の世の中に生きている限り、人生の悩み苦しみは尽きないものです。神を信じる信じないにかかわらず、そういう現実があるものですね。大切なのは神を信じる人はそういう中で必ず神が最善をなしてくださる。この暗いトンネルもいつまでも続くわけではなく、必ず出口にたどりつく信仰を持ち続けることで確かにその祝福に与ることです。つまりどんな悩みにも神の「しかし」があることに注意しなくてはなりませんね。

 サウルはダビデを殺す腹を決めて、それを息子ヨナタンや家来の全部に告げていました。しかし「サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた」と言います。つまりサウルの思いや決意があろうと、神はそこに「しかし」という出来事を起こしてくださるのです。ダビデは、この神の「しかし」の積み重ねによって生き延び、やがてイスラエルの王として立つところまで導かれていくのですね。どんなに人生が厳しいと感じても、慌てずに神がつくり出してくださる小さな「しかし」を見つけるようにしたいものです。神はあなたを祝福するために召されています。その神を信じ、祝福に与るものでありたいものですね。

(PBA制作「世の光」2016.9.8放送でのお話より )

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