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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■主が共におられた / 福井 誠

2016年09月01日 | Weblog
2016/9/1放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「主が共におられた」です。それでは第一サムエル記18章12節から読んでみましょう。

 「サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。

 ゴリアテを倒したダビデは一躍英雄となりました。イスラエルの女たちの人気者となり、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」(サムエル記第一 18章7節 )と誉めそやされるようになります。

 そのことばはサウル王の耳にも入りました。するとサウルは激しく嫉妬し、ダビデに怒りを燃やすのです。そしてダビデを殺そうと考えるようになりました。ダビデの隙を狙って、彼を槍で突き刺そうとしたり、娘を妻にしようと持ちかけて難題をふきかけ、ペリシテ人との争いに巻き込まれて滅びるように謀ったりもしました。

 しかしそうした試みはことごとく失敗していきます。神がダビデと共におられ、守り続けてくださったからです。サウルのそんな姿は何とも卑しくあさましくも見えますね。

 しかし実は程度の差はあっても私はそこに自分自身の姿を見る思いもするのです。サウルの姿はこの私の姿でもあるな、と。一度自尊心が傷つけられて怒りが燃え上がってしまったり、嫉妬心が燃えてしまったりすると、もう穏やかでは居られない。実際に自分がどの程度の人間であるかは分かっていても、不当な評価には我慢できず、そのように評価した人を赦せないし、ありもしない力を見せ付けたくなってしまう。結果、相手のみならず自らをも破滅させる行動に駆り立てられていく。何とも人間というのは不自由なものですね。大切なのはそんな人間の不自由さを神は御存知であると言うことです。

 実は私たちは神様をそのようには見てはいません。神様など私から去って行って当然だと思ってしまいます。つまり、神が見捨てるのではなくて私たちが神を諦めてしまう現実がありますね。神が去られるのではなくて、私たちが神を去らせてしまうのです。「神は愛なり」(1ヨハネ 4章8節、16節参照)と言うでありませんか。神はご自身にすがり続ける者を決して見捨てられません。神の愛を信じて、こんな私をも祝福してください、と願う者でありたいですね。

(PBA制作「世の光」2016.9.1放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

 

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