♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■わたしの心だ、清くなれ マルコ⑪ / 岩井基雄

2016年08月19日 | Weblog
2016/8/19放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。第三週の金曜日はマルコの福音書から学んでいます。

 イエス・キリストがこの地上を歩まれた時代、最も困難な病気の一つにツァラアトと呼ばれた病がありました。以前は「らい病」訳されていたこともあるのですが、「重い皮膚病」と訳している聖書もあります。この病は旧約聖書時代にもあり、その病にかかると穢れた者として人々から隔離されて生活せざるを得ず、患者は深い孤独や痛みを抱える、そういう病でもありました。

 聖書の中にはこう記されています。
  さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」
  イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
  すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。

       新約聖書 マルコの福音書 1章40節から42節

 ツァラアトに侵され深い絶望の中にいたこの人はイエス・キリストの噂を聞いたのでしょう、イエスのお心一つで完全に癒されきよくしていただくことができる、と信じた彼はイエスの御許にひざまずいて、そう願ったのです。彼は主イエス・キリストの主権を心から認めていました。しかし、触れていただけるとは想像もしてなかったと思います。

 イエス・キリストは彼を深く憐れみ、ご自分の手を伸ばして彼に触れてくださいました。それは禁じられていることでしたが、キリストにとってそれは全く問題ではなく、優しく彼に触れ、「わたしの心だ。きよくなれ。」と命じてくださったのです。

 イエスのことばだけではなく、手のぬくもりを彼はどれほど喜んだことでしょうか。それはその病にかかって以来、彼が一度も経験したことのない手のぬくもり、優しいことばであったことでしょう。穢れた存在と言われた彼が、主イエス・キリストの「きよくなれ」とのおことば一つで完全に癒され、家族のもとに、そして社会での生活に戻ることができるようになったのです。

 主イエス・キリストの癒しは問題の根幹を解決するところにありました。そして主はあなたの問題の根本に優しく触れ、根底からの解決を与え、本物の喜びをあなたに与えてくださるのです。あなたもイエス・キリストのこの救いを受け入れて新しい歩みを始めてみませんか?

  (PBA制作「世の光」2016.8.19放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■人はうわべを見る / 福井 誠

2016年08月18日 | Weblog
2016/8/18放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「人はうわべを見る」です。それでは第一サムエル記16章7節から読んでみましょう。

  しかし主はサムエルに仰せられた。
「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」


 イスラエルの最初の王様サウルは神様に従わない不誠実さのために王位から退けられていくことになりますねえ。先週までは神様を裏切り続けたサウル王のお話でした。いよいよ神様の期待に応えていくダビデ王のお話になります。預言者サムエルは神様に従って新しい王様を探しに出かけていますね。神様はベツレヘムの地に住むエッサイと呼ばれる家族の所へ導かれるのです。サムエルの求めに応じてエッサイは自分の息子を紹介しています。長男のエリアブが現れるとサムエルは一目で、これこそ神が王様として選んだ素晴らしい人だ、と考えるのです。ところが神様の考えは違って、容貌とか背の高さとか、そんなものを見ていてはいけない。神様というのは人が見るようには物事は見ない。人はうわべを見るが神は心を見る、と言うのですね。実に大切なポイントです。私たち人間はいつも顔形とか背の高さとか、うわべで人を判断しやすいものです。しかし人というのはなかなか分からない、というのは誰もが経験していることでしょう。更に神様の見方の違いは使徒パウロが新約聖書の中でこのように語っています。
 「 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
( 1コリント 1章27節、28節 )

 人は常に目的にかなった能力や才能のある人を選びます。しかし神様はそうではありません。ありのままに人を自由に生かす力のある方です。ですから私なんか、といういじけた心は捨て去りましょう。神様はどんな人をもありのままに祝福してくださるお方だからです。

(PBA制作「世の光」2016.8.18放送でのお話より )

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■昼は雲、夜は火の光で / 板倉邦雄

2016年08月17日 | Weblog
2016/8/17放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「昼は雲、夜は火の光で」という題でお話ししましょう。

 荒野を旅するイスラエルの人々にとっての道しるべは何だったのでしょうか。それは曇であったのです。

 さて、神の幕屋を建てた日でした。雲が幕屋を覆いました。夕方には幕屋の上の雲は夕日に照らされて火の柱のように見え、朝まで及びました。昼は雲が神の幕屋を覆い、夜は雲が火のように見えたのです。雲が幕屋を離れて上るときはイスラエルの人々は直ちに道を進みました。また雲がとどまる所にイスラエルの人々は宿営したのです。

 では雲とは一体何を意味していたのでしょうか。民数記の作者はこう書きました。
 「すなわち、イスラエルの人々は、主の命によって道に進み、主の命によって宿営し、幕屋の上に雲がとどまっている間は、宿営していた。」(9章18節 口語訳聖書)

 神の幕屋にとどまる雲は主なる神様の命令と約束を表すしるしではなかったでしょうか。ですから神の幕屋の上に雲が日数長くとどまっている間はイスラエルの人々は主なる神様のいいつけを守って道を進みませんでした。一か月でもあるいはそれ以上でも幕屋の上に雲がとどまっている間はイスラエルの人々は宿営していて、道に進まなかったのです。逆に、幕屋の上に雲のとどまる日の少ないときは、直ちにイスラエルの人々は主なる神様の命令に従って宿営し、主なる神様の命令に従って道に進みました。雲が夕方から朝までとどまることもあったが、朝になって雲が上る時は人々は直ちに道を進んだのです。昼でも夜でも雲が上るときは人々は進んで行きました。一日の旅路を終えてほっと息をついたと思ったら、次の朝は旅立つことにもなったのです。逆に一週間、一か月、三か月と同じ所にとどまらなくてはならない忍耐を必要としました。

 私たちも自分の思いや気持ちではなく主なる神様の命令に従って荒野の人生を歩み続け、ある時はとどまり、ある時は進む日々を続けて参りましょう。

 聖書のことばです。
 「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。
                    詩篇119篇105節 (口語訳聖書)

  (PBA制作「世の光」2016.8.17放送でのお話より )

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■本当に必要なたった一つのもの -3 / 大嶋重徳

2016年08月16日 | Weblog
2016/8/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
新約聖書ルカ福音書には、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」(ルカ 10章42節)とイエス様が言われた聖書のことばが出てきます。どうしても必要なものは一つ。これは五つくらい重要なことがあってその内の一つという意味ではありません。この一つというはこの一つがなかったなら全部だめになってしまう、そういう一つのことです。ちょうど扇の扇子のこの要の部分がとまっていなければ扇子はバラバラになってしまいます。1本1本でたとえ扇いでみたとしても涼しい風を起こすことはできません。しかしこの要の1点さえきちんとしていたら、もし扇子の羽が何本かが折れていたとしても風は起きるんです。扇としての用は足りるんですね。

 私の学生時代に友人がピカピカのクラウンという高級車に乗っていました。しかし良くエンジンがかからなくなるんですねえ。聞くと、一度洪水で水に浸かったエンジンだそうです。エンジンがだめだったら車ってのはだめなんですね。外見が幾らピカピカであったとしても、このエンジンがだめだとすべてだめ。しかし私が乗ってたもうぼろぼろの車、天井にも穴が開いてましたけれども、ドアが開かなかったりもしたんですが、エンジンがが動けば車はちゃんと動くんですね。要はこの一つがきちっとしていれば生きていくことができる一つのこと。イエス様がここで言っておられるのはそういう一つのことなのです。これさえあれば動く、この一つだけあれば生きていける、そういう一つなんですね。

 では、その一つのものとは一体何かと言うと、イエスのことばに聞き入ることだと言うのです。イエス様は、人間からこれを取ってしまったならばすべてが分解してしまう、バラバラになってしまうのだ、とおっしゃったのです。聖書の中の詩人たちは言いました。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇 119章105節) 聖書のことばが私の足の灯で私の道の光なのだと。この光に照らされるとは、私たちはどこを歩きどのように歩かなければいけないのか、ここには深い穴があるよ、ここには水たまりがあるから避けていきなさい。そういう事が聖書のことばを読んでいくと分かっていく訳です。聖書のことばに聞き入るという時間。それこそバラバラになってしまいそうな私たちの人生を一つにしていってくれるたった一つのものなのです。

  ( PBA制作「世の光」2016.8.16放送でのお話しより )

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■愛を持って語ろう / 関根弘興

2016年08月15日 | Weblog
2016/8/15放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今日も新約聖書エペソ人への手紙4章25節のことばを紹介しましょう。
 「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。

  聖書は、偽りを捨て真実を語れ、と教えています。そして真実を語るという事はどのように、いつ語るのかという配慮が必要だ、ということを前回お話ししましたね。そして今日はこのことばにもう一言付け加えたいと思います。それはエペソ人への手紙4章15節にあることばで、「愛をもって真理を語り」と書かれているんですねえ。愛をもって語るってことが大切なんだということです。

 旧約聖書の中にヨブという人が出てきます。ヨブは神を恐れる正しい人でしたが、家族や財産を一瞬にして失ってしまいました。そして自分も大変な病気になるという悲惨な状況に陥ってしまいました。そんなヨブのもとに友達が見舞いにやって来るんですね。そしていろんなこと言うんです。「ヨブよ、あなたが何か悪いことしたからこんな事が起こったのではないか? 神様は正しい者をこのようにされるはずが無い。」 このように語り出したんです。つまり因果応報の理屈でヨブを責め立てたんですね。彼らは自分が真実を語っていると思っていたのですが、そのことばはヨブにとって何の慰めにも励ましにもなりませんでした。かえってヨブを苦しめるだけだったんですねえ。

 さて神様はどのようにお語りになったのでしょう。ヨブ記42章7節という所を読むと、神様はこの友人たちを厳しく叱責しておられるんです。
 このように書かれています。
 「わたしの怒りはあなたがたに向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らなかったからだ。」(ヨブ記 42章7節参照)

 こう書いてあるんです。この友人はヨブに神様の真実を語らなかったというんですねえ。いつの時代でも大変な自然災害が起こったり急にひどい病気にかかったりするとすぐに、これは悪いことした結果じゃないか、神の裁きだ!と言いだす人がいます。愛のかけらすらないことばに翻弄されないでください。第一コリント13章に書かれているように、「愛がなければ何の役にも立たない」のです。神様は愛なる方です。愛なしに真理を語ることはできません。だからキリストの愛を覚えつつ真実を語り合っていくそんな仲間となっていきましょう
 
  (PBA制作「世の光」2016.8.15放送でのお話しより)

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■パウロに現れた主キリスト / 羽鳥頼和

2016年08月13日 | Weblog
2016/8/13放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は新約聖書 使徒の働き22章で、パウロが人々に語った彼の証しについてお話しします。

 パウロは自分がどのようにしてユダヤ人以外の異邦人に福音を語るようになったのかを話しました。パウロはもともとキリスト教会を熱心に迫害していた人でした。そんな彼が信者を捕まえようとダマスコに向かう途中でキリストの声を聞き、回心してキリストに従うようになったのです。

 そんな彼がエルサレムの神殿にいた時のことです。キリストの幻が現れてパウロに言いました。「急いで早くエルサレムを離れなさい。人々がわたしについてのあなたの証しを受け入れないから。」 パウロはキリストに自分の思いを話しました。「主よ、私が彼らにひどいことしてきたことは彼ら自身よく知っています。そんな私がキリストに従うようになったのです。まず彼らに受け入れてもらいたいのです。」

 するとキリストはパウロにご自分の計画を語られました。キリストは言いました。「わたしはあなたを異邦人に遣わす。」 このキリストの一言によってパウロは異邦人への伝道を始めたのです。

 最初、パウロはユダヤ人たちに受け入れられることを考えていました。しかしパウロの考えとキリストの計画は違いました。そこでパウロはキリストの命令に従ったのです。

 そうすると不思議と道が開かれて、パウロによる異邦人への伝道が進んでいきました。この証しをした時もそうでした。ユダヤ人たちはパウロの語ることを聞いて怒り出し、暴動が起こってしまい、パウロは殺されそうになりました。ところが治安を守ろうとローマの兵士が介入してきました。そしてパウロは捕えられましたが、彼のいのちは助かったのです。その時、パウロがローマの市民権を持っていることが分り、事態は一変しました。ローマの市民権を持っている者はローマの法律に基づく裁判を受ける権利があったのです。こうしてパウロは殺されずに済んだだけでなく、このあと何とパウロは被告人としてローマに行くことになるのです。そしてその後、パウロはローマで伝道することになりました。キリストは不思議な方法で福音を伝えられました。パウロがキリストの命令に従ったのでこのような不思議なことが起こったのです。

 人がキリストに従うとき、キリストの素晴らしい働きが行われるのです

 (PBA制作「世の光」 2016.8.13放送でのお話より )
 
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■主の憐れみによる再会 / 岩井基雄

2016年08月12日 | Weblog
2016/8/12放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。月の第二週の金曜日は旧約聖書に登場するヤコブの人生について学んでいます。

 彼は神様によって内側から変えられた人でした。私たちの悩みの多くは人間関係ですよね。複雑に絡みあい、こじれた人間関係の修復は容易ではありません。それが家族間の問題であればなおさら解決は簡単ではありませんね。ヤコブは双子の兄エサウとの葛藤を抱えていました。正反対の個性は多くの確執を生み、それは遂に殺意にまで発展したのです。それはヤコブが兄の長男の権利を奪い、母と共謀して父を欺き、兄が受けるべき神の祝福を奪い取ったからでした。しかし20年間の逃亡の時を経て、ヤコブはついに兄と関係を回復する時が来たのです。そのために神様は彼を整えられました。莫大な贈り物などの知恵を尽くして兄との和解を計画したヤコブでしたが、神が導かれた方法はヤコブの高慢を砕き、その心を謙遜へと整え備えることでした。砕かれた心と引きずる足をもって兄エサウと再会したヤコブは兄と抱き合うことができたのです。

 その時のことを聖書は次のように語っています。
 「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。」 旧約聖書 創世記33章3節、4節

 神様の取り扱いを受けたヤコブは、自分の思いを越えた恵みと再会をエサウと果たすことができました。彼は自分の知恵の力ではなく、神様に砕かれて初めて兄と和解することができたのです。人との和解の前に、まず神様との和解が必要です。自らの傲慢さや罪を認めてそれを告白し、へりくださり、砕かれた心で神様の前に立つことによって、人との和解も成り立っていくのです。神様はあなたの人生に鍵を落とす様々な人間関係に光をあて、あなたを取り扱い、あなたを神様の前にへりくだらせて和解と赦しへと導いてくださいます。それは神ご自身が赦しと恵みと憐み神だからです。あなたもこの神様の愛を受け取って歩んで行きませんか?

  (PBA制作「世の光」2016.8.12放送でのお話しより)

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■小さい者に過ぎないと思っていても / 福井 誠

2016年08月11日 | Weblog
2016/8/11放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「小さい者に過ぎないと思っていても」です。それでは第一サムエル記15章17節、18節から読んでみましょう。

  サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』

 イスラエルがアマレク人を戦争した時のこと、神様は預言者サムエルを通してサウルを王に、すべてのものを聖絶する、つもり男も女も子どもも乳飲み子も、牛も羊もらくだもろばもすべて殺せ、と命じました。まあ今日の平和主義の感覚からすると理解しにくい命令ですが、実はこの命令、イスラエルが圧倒的に劣勢、アマレクに勝つ訳が無い状況で命じられたものですね。つまりもし聖絶がなされたならば、それはイスラエルの戦力によるのではなくて神の助けによる勝利ですから戦利品はすべて神のもの、自分のものにしてはならない、という意味もあった訳です。

 ところが、神の助けによっていざ勝ってみると、サウルは神様に栄誉を帰すこともなく命令に従わず、肥えた羊や牛、最も良いものを惜しんで、これを殺さず、値打ちのないものだけを殺したのでした。

 サウルのしたことは神様の怒りを買いました。そして(サムエルは)言うのです。「あなたは自分では小さい者に過ぎないと思ってはいても、イスラエルの王ではないか。」と。
 サウルは預言者のサムエルに見捨てられ、サムエルに代わる力ある人、知恵ある人を探し求めていました。自分の能力の限界を分かっていたのでしょうね。ところが、劣等感に浸った結果、彼がしたことは小さな自己認識に卑しいことでした。

 大切なのは自分をどのように見えるかですね。聖書は人間は神の宝として造られたと言います。神に愛される者として神の使命を果たすものとして生み出されたのです。卑下することも高ぶることもなく、自分の価値を適切に認めて前向きな人生を歩んでいきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2016.8.11放送でのお話より )

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■み旗のもとに / 板倉邦雄

2016年08月10日 | Weblog
2016/8/10放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「み旗のもとに」という題でお話ししましょう。小学生の運動会の時、旗のもとに集まってから競技を始めたことがあります。旗はしばしば移動と集合の際の目印になりますね。

 さて主なる神様はモーセとアロンに言われました。「イスラエルの人々は各々その部族の旗のもとに、その父祖の家の旗印に従って宿営しなければならない。しかも神の幕屋の周りにそれに向かって宿営しなければならない。」(参照 民数記2章2節)

 「主はわが旗」(出エジプト17章15節)と聖書の中で言われています。私たちはすべて主なる神様のもとに集められ、主なる神様に向かって神の家族としてとどまりたいものですね。

 続けて主なる神様は言われました。「日の出る方、東に宿営する者はユダの宿営の旗につく者、イッサカルの部族、ゼブルンの部族そしてユダの部族である。部族の先頭に進むことになります。南の方ではルベンの宿営の旗のもとにつく者、シメオンの部族、ガドの部族、これらは二番目に進まなくてはならない。」(参照 民数記2章3節、9節、10節、16節)

 さて、神の幕屋はレビ部族の宿営と共に他の部族の宿営の中央になって進まなければなりませんでした。(参照 民数記2章17節)
 「西の方ではエフライムの宿営の旗につく者が宿営する。すなわちマナセの部族、ベニヤミンの部族である。これらは三番目に進まなくてはならない。そして北の方ではダンの宿営の旗につくものが宿営する。アシェル部族、ナフタリの部族である。これらの者はその旗に従って最後に進まなければならない。」(参照 民数記2章18節、24節、25節、31節)

 東西南北に御旗のもとに宿営しました。南側に宿営する人は常に熱風にさらされたことでしょう。北側の人々は寒風にさらされる環境でした。また先頭に進む人々と中間を進む人々、そしていつもしんがりを進む人々では良いことも悪いこともあったでしょうね。東西南北のどこに住むかということも、隣に誰が住むかと言うことも、何番目を進むかも主なる神様がお定めになったことは事実です。

 私たちの人生は私たちが選びとっているようですが、実は主なる神様によって選ばれた人生なのかもしれません。

 イエス様のことばです。
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。
    ヨハネの福音書15章16節

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■本当に必要なたった一つのもの -2 / 大嶋重徳

2016年08月09日 | Weblog
2016/8/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。

 新約聖書のルカの福音書にはイエス・キリストが旅の途中に必ず立ち寄られた家族が出てきます。ここにはマルタとマリヤという姉妹が住んでいました。マルタは大好きなイエス様が家に来てくださったことがうれしくて、この日一所懸命おもてなしをしていました。しかし妹のマリヤは平気な顔でじっとイエス様の足元に座っている。その妹を見たマルタは、いろいろのことに気が落ち着かず、という状態に陥ります。「気が落ち着かず」というのは、心が複数になる、心がバラバラになる、と言う意味があります。マルタはイエス様をもてなしたいと言う優しい一つの心で始まったにもかかわらず、妹マリヤに対する怒りの心が生まれ、一つの心が二つにてなってしまいました。更に、バラバラになった心の中にもう一つの心が生まれました。それは自分のこの気持ちを探してくれるはずのイエス様が何にも言わないことでした。(・・・・イエス様だって見えているでしょう、私がこんなに一人で働いているのを。「マリヤ。マルタが忙しそうだから少しは手伝ったら?」とイエス様も少しは空気を読んだらどうですか。・・・・) マルタの過ちは、イエス様を大喜びで迎えたにもかかわらず、最後はのんきに妹を足元に従えて話し続けているイエス様のやり方までもが腹が立ち、イエス様のやり方を非難し、指図すると言うような心の乱れ方になってしまったのです。

 私たちもまた日々、一所懸命働き、あるいは勉強しているわけです。会社のため、家族のため、夫のために尽くし、子どものために、とあれこれ頑張る。教会でも奉仕をしている。それ自身は何も悪いわけではありません。しかし問題は一所懸命になればなるほど、(・・・神様あなたは見えているんですか? 私はもっと報われてもいいんじゃないですか。こんなに頑張っている私のことをなんでもっと誉めてくれないんですか。・・・) 目に入って来る人と比べて自分は報われていないと思い込み、そして神様への非難する心が生まれて来るのです。

 しかし聖書をじぃっと読むと、私たちのバラバラな心を聖書のことばは一つにしていってくれます。私たちはこの朝も、聖書のことばをじぃっと聞いていきたいと思います。バラバラになってしまった心を聖書のことばこそ一つにしていってくださる。そこから私たちは一日を始めていきたいと思います。

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