ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和30年-社町合併祝賀パレード

2012年07月13日 05時40分28秒 | Weblog
 昭和30年(1955)4月3日の日付のあるこの写真は、昭和の大合併で誕生した社町の合併祝賀パレードの一こまです。七福神の乗った寶船が、社市街地にある持寶院、八坂神社の前を通っているところです。多くの人出で賑わっているようすが伝わっていきます。
 昭和30年、社町、福田村、米田村、上福田村、鴨川村の1町4村が合併して、新しく社町が誕生しました。その喜びを伝える貴重な写真です。
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昭和44年-社小学校創立97周年「八城教育」から②

2012年07月09日 06時22分13秒 | Weblog
 前回紹介した昭和44年の社町立社小学校(現加東市立社小学校)の「八城教育」創立97周年記念特集号に卒業生の思い出「ああわが母校」の欄があり、昨日紹介した藤原静子先生とわが父、藤本豊治の文が掲載されていました。

なつかしい母校 「社校」の思い出 大正十三年高等科卒業  藤本豊治(現社町長)

 社小学校が本年で開校九十七年になる事を岸本校長先生から聞かされ、びっくりしました。明治百年は合言葉のように聞きましたが、今更ながら吾が「ふる里」の小学校の歴史を知らなかった事を恥じました。
 早速社の小学校の在りし思い出を探しまして経歴簿を取り出しました。真黒い表紙の真ん中に金文字で「経歴簿」と印刷された下に朱墨で氏名が毛筆で書かれ内容は校長、受持教員、父兄の名、続いて教育勅語、戊申詔書注意、そして各学年の成績記入欄、一〇点満点等、一冊の冊子になっていますが、この経歴簿を先生から受ける時の気分は何とも表現出来ない気分で、開けて嬉しかったり、悲しかったり、ガッカリした気分は時代が変わっても減税の小学生も同じ気分でないかと思いながらに懐かしい思い出にふけりました。
 低い下駄に羽織を着て上草履を入れた袋を片手に風呂敷に包んだ教科書をかかえて、六、七年前に取り潰された背の高い石柱の門をくぐった頃を思います。その頃門を入ると真正面に職員室の玄関が、あまり間を置かずにあって、左に小さい築山を控え、その反対側の石側の築山に続いて東に杉垣に囲われた小使室がありました。その場所が現在の真正面の築山から東にかけての場所です。その当時、全生徒に「回虫駆除」のため「まっくり」を小使室で炊かれ、大きい釜から顔をしかめ、息もとめてのみにくいのを辛抱して年に二回余り飲んだことを覚えています。その時の井戸が現在屋体講堂の玄関左の向い、北の隅に残されているのを見るたびに、生水を飲みに行ってよく叱られた通称「コマサク」小使さんを忘れません。とても酒が好きで馬鹿音頭(社特有の民謡)が上手な人でした。
 玄関右の小使室との間に校長室がありました。その部屋に、立派な「ひげ」をおかれた尾詮光という三草の殿様の家老の息子であるとか聞かされた校長さんが、何時も背の低い方なのにステッキをついて三草から歩いて来られていた姿を私達は「ちゃぼ」と言って陰口を叩いていましたが、とても威厳を感ずる校長先生との印象を皆持っていました。その職員室は現在梶原の公民館として移改築されていると聞いています。その頃に植えられていた松の木が数は減っていますが今の築山や屋体講堂の南に元気にある姿を見ますと何だか親しみを感じます。
 一年生から六年生迄の数知れない思い出の中で忘れられない失敗があります。四年生の時漸く雑貨店の店頭は、下駄、草履、雪駄の時代からゴム靴に変りつつありました。私達の同級生の一部に、このゴム靴をはく連中が出来まして、私もその一人となって意気揚々とあこがれの短いゴム靴をはいて、当時の魅力のまと、時代の先端を行く誇りを持って?遂にのぼせ上がり、先生も靴のまま廊下、教室に上がるんだから、私達も靴をはいているのだからそのまま上がろうと言って教室や廊下を活歩しました処、二、三日は先生も気付かれなかったが、雨降りの日、廊下で泥靴のまま遊んでいる処をみつけられて大いに叱かられ、先生と生徒の区別を説教され廊下に二時間余立たされゴム靴をはかない同級生に笑われ、あくる日からゴム靴組はションボリした事を思い出します。
 然しその頃は皆殺伐でした。生徒同士のけんかは絶え間ありません。窓ガラスを割る位は上等でした。先生も皆のやんちゃぶりには閉口された事でしょう。その代わりに竹の根節のむちで首筋を叩かれたり、机のふたで頭をなぐられたり、廊下の階段から(三、四段あり)突き落されたりしましたが平気でした。その頃のなつかしい教室は移築され階段もなくなって現在の一番奥の低学年の教室になっていますが、私達が前の講堂の場所にあった教室で勉強した事を思うと、何となくその近くに行きますと懐かしさを覚えます。その教室と同じ様に校庭の柳の木も同じです。もっと小さい頃でしたが、幾十年じっと変り行く数多い生徒を眺めつつ大きく育っている事を思いますと、あの木の根元に小さな池があって菖蒲やかきつばたの花が咲いていた事が思い出されます。
 思い出はつきません。母校に一歩足を踏み入れるたびに数限りない幼い頃の思い出が浮かんできます。ご厄介をかけました諸先生に感謝しつつ筆を止めます。


 長い文でしたが、全文掲載しました。昭和44年ですから私は社高校の1年でした。父は翌年現職のまま亡くなりましたのでもうこの原稿を書いた頃は弱っていたのではないかと思います。父の小さい頃の写真を重ねながら小学生の頃の「やんちゃな」父のようすを思い浮かべていました。校庭の柳の木や、低学年の校舎等は私の思い出とも重なります。きっとあの世でコマサクさんや「ちゃぼ」校長先生と懐かしい思い出話をしていることでしょう。
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昭和44年-社小学校創立97周年「八城教育」から

2012年07月03日 05時01分28秒 | Weblog
 友人が一枚の古い新聞を持ってきました。昭和44年(1969)10月25日発刊の日付がある「八城教育」(社町立社小学校)の創立97周年記念特集号でした。校長は岸本格先生。私の在学当時の校長先生でしたので懐かしい思いで写真を見ました。
 校長先生の挨拶の中にある歴史を読むと、「社小学校は明治5年(1872)10月25日に校区内の八つの学校の校舎をもって誕生しました。そして、その中心校は知新校の名で社町上本町にあり、その後八城学校、社尋常小学校、社尋常高等小学校、社国民学校、社小学校と名こそ変わりましたが連綿として続き、よき伝統を育んでまいりました」とあります。昭和44年で97周年。今年だと140周年ということになります。八城学校は現在の明治館の地にありました。現在の地に学校が移転したのは明治41年(1908)年のことでした。その頃の生徒数は770人。昭和13年(1938)に本館木像校舎が新築されました。その頃には1100人の生徒数だったそうです。さらに昭和20年(1945)には1450人。すごいですね。

 「八城教育」に藤原静子先生の思い出の文が掲載されています。

 私がこの社小学校を卒業してから早や30年近くになりますが・・・から始まる思い出の中に、学校生活の一日が書かれています。

 まず、校門を入って、二宮金次郎の銅像と令旨塔、次ぎに奉安殿(今は築山になっている)、最後に運動場の松林にあった八城神社にうやうやしく礼をしてから、班長の「解散」の合図で教室へ行っていました。
 下校時は朝の逆に、八城神社、奉安殿、令旨塔、二宮金次郎の銅像に礼をして帰っていました。

 今は八城神社のあった松林辺りは社幼稚園になっています。奉安殿のあった場所は築山に、令旨塔はありませんが、その石はこの歴史ブログでも紹介しましたが、築山の中にあります。金次郎像はありますが、戦争当時のものは「出征」し、現在の像は戦後寄贈されたものです。
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稲尾の虫送り今年も-実盛さんのご上洛

2012年07月02日 05時18分48秒 | Weblog
 1日(日)、朝から雨が降って昼を過ぎても降ったり止んだりのはっきりしない天気でした。加東市稲尾地区伝統の「虫送り」の行事ができるのかどうか気になっていました。夕方になってようやく日も射すようになり、稲尾に出かけると、集会所前の広場には地区の皆さん総出で賑やかにバーベキューを楽しんでおられました。
 この「虫送り」の行事は今年で10回目を迎えるということで、昭和初期まで行われていたものの、その後途絶えていた伝統行事を復活し、地域おこしに取り組もうという趣旨で行われてきました。ゲストには「斧」俳句会の皆さんが招かれ、虫送りの俳句が紹介されました。

 午後7時を回った頃、稲尾地区の八幡神社境内に移動し、虫送りの行事が始まりました。薄暗くなった境内で神事が行われ、火が松明に灯されて「虫送り」の列が出発しました。
 先頭はわらで作られた「馬に乗った実盛(さねもり)人形」。これに「虫送り」「豊年祈願」などの言葉が書かれた幟、松明、そして太鼓や鉦の鳴り物の列が神社から出て、暗くなった地区の田圃の中の道を歩きます。「実盛さんのご上洛、稲の虫はお供せい」と鉦太鼓を鳴らしながらみんなで唱えながらあるきます。
 「実盛さん」とは斉藤実盛のことで、戦さの最中に田の稲株に足をとられてころび、これが原因で敵にやられてしまったということで、その霊が田の虫となって被害をもたらすという言い伝えがあり、その実盛さんの名を呼びながら田の虫を松明の灯で誘い出して追い出すということです。ただ、「サネモリ」は実盛の名であるというほか、早苗、さなぼり、早乙女などの田に関係する「早」「サ」という音、言葉によるものという話も聞きました。わらでつくられた実盛人形は稲尾地区の方がこの人形に詳しい人から教えてもらって作ったそうです。
 地区を一回りして、地区の東の池まで、約1時間。空には月が出ていました。今年もこうして伝統の虫送りの行事が無事済みました。
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薬師堂の大杉の間から

2012年07月01日 06時54分27秒 | Weblog
 昨日紹介した加東市岩屋の薬師堂には大杉が生えています。県道から望む大杉はまっすぐに天を衝くように屹立していて威厳があります。そして、境内の杉の太い幹の間からは、東条川をはさんで、田植えがすんだ水田が広がっている風景が望めます。
 このような風景は、懐かしく、心が安らぎます。たまには、少し時間をとってこうした風景の中に自分を置いてみるのもいいですね。
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