ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和44年-社小学校創立97周年「八城教育」から②

2012年07月09日 06時22分13秒 | Weblog
 前回紹介した昭和44年の社町立社小学校(現加東市立社小学校)の「八城教育」創立97周年記念特集号に卒業生の思い出「ああわが母校」の欄があり、昨日紹介した藤原静子先生とわが父、藤本豊治の文が掲載されていました。

なつかしい母校 「社校」の思い出 大正十三年高等科卒業  藤本豊治(現社町長)

 社小学校が本年で開校九十七年になる事を岸本校長先生から聞かされ、びっくりしました。明治百年は合言葉のように聞きましたが、今更ながら吾が「ふる里」の小学校の歴史を知らなかった事を恥じました。
 早速社の小学校の在りし思い出を探しまして経歴簿を取り出しました。真黒い表紙の真ん中に金文字で「経歴簿」と印刷された下に朱墨で氏名が毛筆で書かれ内容は校長、受持教員、父兄の名、続いて教育勅語、戊申詔書注意、そして各学年の成績記入欄、一〇点満点等、一冊の冊子になっていますが、この経歴簿を先生から受ける時の気分は何とも表現出来ない気分で、開けて嬉しかったり、悲しかったり、ガッカリした気分は時代が変わっても減税の小学生も同じ気分でないかと思いながらに懐かしい思い出にふけりました。
 低い下駄に羽織を着て上草履を入れた袋を片手に風呂敷に包んだ教科書をかかえて、六、七年前に取り潰された背の高い石柱の門をくぐった頃を思います。その頃門を入ると真正面に職員室の玄関が、あまり間を置かずにあって、左に小さい築山を控え、その反対側の石側の築山に続いて東に杉垣に囲われた小使室がありました。その場所が現在の真正面の築山から東にかけての場所です。その当時、全生徒に「回虫駆除」のため「まっくり」を小使室で炊かれ、大きい釜から顔をしかめ、息もとめてのみにくいのを辛抱して年に二回余り飲んだことを覚えています。その時の井戸が現在屋体講堂の玄関左の向い、北の隅に残されているのを見るたびに、生水を飲みに行ってよく叱られた通称「コマサク」小使さんを忘れません。とても酒が好きで馬鹿音頭(社特有の民謡)が上手な人でした。
 玄関右の小使室との間に校長室がありました。その部屋に、立派な「ひげ」をおかれた尾詮光という三草の殿様の家老の息子であるとか聞かされた校長さんが、何時も背の低い方なのにステッキをついて三草から歩いて来られていた姿を私達は「ちゃぼ」と言って陰口を叩いていましたが、とても威厳を感ずる校長先生との印象を皆持っていました。その職員室は現在梶原の公民館として移改築されていると聞いています。その頃に植えられていた松の木が数は減っていますが今の築山や屋体講堂の南に元気にある姿を見ますと何だか親しみを感じます。
 一年生から六年生迄の数知れない思い出の中で忘れられない失敗があります。四年生の時漸く雑貨店の店頭は、下駄、草履、雪駄の時代からゴム靴に変りつつありました。私達の同級生の一部に、このゴム靴をはく連中が出来まして、私もその一人となって意気揚々とあこがれの短いゴム靴をはいて、当時の魅力のまと、時代の先端を行く誇りを持って?遂にのぼせ上がり、先生も靴のまま廊下、教室に上がるんだから、私達も靴をはいているのだからそのまま上がろうと言って教室や廊下を活歩しました処、二、三日は先生も気付かれなかったが、雨降りの日、廊下で泥靴のまま遊んでいる処をみつけられて大いに叱かられ、先生と生徒の区別を説教され廊下に二時間余立たされゴム靴をはかない同級生に笑われ、あくる日からゴム靴組はションボリした事を思い出します。
 然しその頃は皆殺伐でした。生徒同士のけんかは絶え間ありません。窓ガラスを割る位は上等でした。先生も皆のやんちゃぶりには閉口された事でしょう。その代わりに竹の根節のむちで首筋を叩かれたり、机のふたで頭をなぐられたり、廊下の階段から(三、四段あり)突き落されたりしましたが平気でした。その頃のなつかしい教室は移築され階段もなくなって現在の一番奥の低学年の教室になっていますが、私達が前の講堂の場所にあった教室で勉強した事を思うと、何となくその近くに行きますと懐かしさを覚えます。その教室と同じ様に校庭の柳の木も同じです。もっと小さい頃でしたが、幾十年じっと変り行く数多い生徒を眺めつつ大きく育っている事を思いますと、あの木の根元に小さな池があって菖蒲やかきつばたの花が咲いていた事が思い出されます。
 思い出はつきません。母校に一歩足を踏み入れるたびに数限りない幼い頃の思い出が浮かんできます。ご厄介をかけました諸先生に感謝しつつ筆を止めます。


 長い文でしたが、全文掲載しました。昭和44年ですから私は社高校の1年でした。父は翌年現職のまま亡くなりましたのでもうこの原稿を書いた頃は弱っていたのではないかと思います。父の小さい頃の写真を重ねながら小学生の頃の「やんちゃな」父のようすを思い浮かべていました。校庭の柳の木や、低学年の校舎等は私の思い出とも重なります。きっとあの世でコマサクさんや「ちゃぼ」校長先生と懐かしい思い出話をしていることでしょう。
コメント
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