
闘龍灘を見下ろす闘龍スクエアに阿江与助像が建てられています。5月1日には川開き神事、そして3日には鮎まつり、そして夜の大花火が行われ、多くの人出で賑わいます。加古川舟運の祖と呼ばれ、滝野を代表する郷土の先人、阿江与助を紹介します。次の文は像の解説文です。
「阿江与助」は加古川舟運の祖と呼ばれる人物です。加東郡河高村に生まれ、後に上滝野村の阿江家を継ぎ、文禄三年(一五九四年)には滝野川(滝野以南の加古川)を慶長九年(一六〇四年)からは上流の田高川(滝野以北の加古川)の開削を成功させました。また、この功で滝野船座の座元に任じられ、加古川舟運を支配しました。
加古川舟運の開発は二期に分かれます。第一期は、地頭生駒玄蕃が貢米を輸送するにあたって加古川に注目、与助たちに通船を妨げる川底の岩石を除去し、浅瀬に水路を通させました。この区間の内、与助は滝野から大門(社町)までを担当しました。第二期は領主池田氏による滝野以北の浚普請および新町河岸の造率、高砂港の整備です。与助は田高村の西村伝入斎とともに滝野より上流の川底を浚えることを命じられ、慶長十一年(一六〇六年)に丹波本郷までの通船が可能になりました。
与助像は、大正九年六月、正五位追贈により闘龍灘河畔に建立されましたが、昭和二十年春、太平洋戦争のため供出、平成二年五月、先の台座を生かして再建されました。
「阿江与助」は加古川舟運の祖と呼ばれる人物です。加東郡河高村に生まれ、後に上滝野村の阿江家を継ぎ、文禄三年(一五九四年)には滝野川(滝野以南の加古川)を慶長九年(一六〇四年)からは上流の田高川(滝野以北の加古川)の開削を成功させました。また、この功で滝野船座の座元に任じられ、加古川舟運を支配しました。
加古川舟運の開発は二期に分かれます。第一期は、地頭生駒玄蕃が貢米を輸送するにあたって加古川に注目、与助たちに通船を妨げる川底の岩石を除去し、浅瀬に水路を通させました。この区間の内、与助は滝野から大門(社町)までを担当しました。第二期は領主池田氏による滝野以北の浚普請および新町河岸の造率、高砂港の整備です。与助は田高村の西村伝入斎とともに滝野より上流の川底を浚えることを命じられ、慶長十一年(一六〇六年)に丹波本郷までの通船が可能になりました。
与助像は、大正九年六月、正五位追贈により闘龍灘河畔に建立されましたが、昭和二十年春、太平洋戦争のため供出、平成二年五月、先の台座を生かして再建されました。
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