
いよいよ14日、義士祭が迫ってきました。そこで、今日はあらためて加東市家原観音寺で義士祭が行われているのか、その経緯をさぐってみましょう。
元禄14年(1701)3月14日、江戸城内で赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が吉良上野介義央(きらこうづけのすけよしなか)に斬りつけ、けがを負わせました(松の廊下の刃傷事件)。長矩はその日のうちに切腹。領地は没収、お家は断絶というきびしい裁きが行われました。しかし、吉良はおとがめなしでした。
主君の恨みをはらそうと、翌15年12月14日(15日の早朝にかけて)、家老大石内蔵助をはじめ四十七人の家臣が江戸の吉良のやしきに討ち入り、ついに仇を討ったのです。人々はこの赤穂藩の家臣らの忠義をたたえました。今でも時代劇「忠臣蔵」として人気が高い話です。
討ち入りから約150年後の弘化4年(1847)、善龍院(加東市社)の住職だった明範は、領主の家原浅野氏と相談して、観音寺の境内に赤穂藩浅野氏四代の藩主と四十七義士の石碑を建て、義士の忠義をたたえました。それが、観音寺の四十七士の墓とよばれているものです。
さて、浅野家と加東市の関係は次のとおりです。
今から約370年ほど前の江戸時代のはじめ頃に、播磨国赤穂(兵庫県赤穂市)に浅野氏が大名として入ってきました。赤穂浅野藩は赤穂をはじめ、佐用郡や加西郡、加東郡に領地を持っていました。
「刃傷松の廊下」のせりふに「浅野五万三千石家来も所領も捨てての刃傷でござる・・・」の一節がありますが、赤穂浅野家の領地は5万3千石でした。その内訳は、赤穂郡3万5200石(119ヶ村)、加西郡8920石(33ヶ村)、加東郡(現加東市、小野市域)8201石(24ヶ村)、佐用郡1200石(5ヶ村)という構成になっていました。
加東郡の領地のうち、現加東市域には23ヶ村があり、加東市は赤穂浅野藩と強い結び付きがありました。
加東市内の村名を挙げると、上三草、下三草、牧野、曽我、多井田、北野、穂積、○垂水、○窪田、○中村(上中)、○北村(喜田)、○梶原、木梨、○家原、○鳥居、○田中、○貝原、河高、野村、上田、○福吉、大門、○沢部の23ヶ村です。加東郡の領地には郡代がおかれ、赤穂義士の一人、吉田忠左衛門が加東郡代を務めていました。このうち、○印の11ヶ村は家原浅野家に分知されました。
1671年、浅野長賢(ながかた)に加東郡内の領地3千5百石が分けられ、旗本・家原浅野氏がつくられました。家原には陣屋(役所)もつくられ、その後、家原浅野氏は明治維新の廃藩までの七代、約200年続きました。
観音寺はいつ建てられたかははっきりしませんが、家原浅野氏がつくられた頃だと考えられています。浅野氏の祈願所・香華所であったようです。社の市街地にある善龍院は家原浅野氏の菩提所とされ、住職が観音寺の住職を兼ねていました。
元禄14年(1701)3月14日、江戸城内で赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が吉良上野介義央(きらこうづけのすけよしなか)に斬りつけ、けがを負わせました(松の廊下の刃傷事件)。長矩はその日のうちに切腹。領地は没収、お家は断絶というきびしい裁きが行われました。しかし、吉良はおとがめなしでした。
主君の恨みをはらそうと、翌15年12月14日(15日の早朝にかけて)、家老大石内蔵助をはじめ四十七人の家臣が江戸の吉良のやしきに討ち入り、ついに仇を討ったのです。人々はこの赤穂藩の家臣らの忠義をたたえました。今でも時代劇「忠臣蔵」として人気が高い話です。
討ち入りから約150年後の弘化4年(1847)、善龍院(加東市社)の住職だった明範は、領主の家原浅野氏と相談して、観音寺の境内に赤穂藩浅野氏四代の藩主と四十七義士の石碑を建て、義士の忠義をたたえました。それが、観音寺の四十七士の墓とよばれているものです。
さて、浅野家と加東市の関係は次のとおりです。
今から約370年ほど前の江戸時代のはじめ頃に、播磨国赤穂(兵庫県赤穂市)に浅野氏が大名として入ってきました。赤穂浅野藩は赤穂をはじめ、佐用郡や加西郡、加東郡に領地を持っていました。
「刃傷松の廊下」のせりふに「浅野五万三千石家来も所領も捨てての刃傷でござる・・・」の一節がありますが、赤穂浅野家の領地は5万3千石でした。その内訳は、赤穂郡3万5200石(119ヶ村)、加西郡8920石(33ヶ村)、加東郡(現加東市、小野市域)8201石(24ヶ村)、佐用郡1200石(5ヶ村)という構成になっていました。
加東郡の領地のうち、現加東市域には23ヶ村があり、加東市は赤穂浅野藩と強い結び付きがありました。
加東市内の村名を挙げると、上三草、下三草、牧野、曽我、多井田、北野、穂積、○垂水、○窪田、○中村(上中)、○北村(喜田)、○梶原、木梨、○家原、○鳥居、○田中、○貝原、河高、野村、上田、○福吉、大門、○沢部の23ヶ村です。加東郡の領地には郡代がおかれ、赤穂義士の一人、吉田忠左衛門が加東郡代を務めていました。このうち、○印の11ヶ村は家原浅野家に分知されました。
1671年、浅野長賢(ながかた)に加東郡内の領地3千5百石が分けられ、旗本・家原浅野氏がつくられました。家原には陣屋(役所)もつくられ、その後、家原浅野氏は明治維新の廃藩までの七代、約200年続きました。
観音寺はいつ建てられたかははっきりしませんが、家原浅野氏がつくられた頃だと考えられています。浅野氏の祈願所・香華所であったようです。社の市街地にある善龍院は家原浅野氏の菩提所とされ、住職が観音寺の住職を兼ねていました。
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