今日は、昭和7年(1932)2月に実施された第18回衆議院議員選挙における兵庫県第三区、横田孝史の立候補に関する推薦文を紹介します。
写真は、民政党の第三選挙区青年有志代表者小西信二の名で有権者に訴えた応援ビラです。
当時の選挙制度は中選挙区制で、第三選挙区は、明石市、明石郡、加古郡、印南郡、美嚢郡、加東郡、加西郡、多可郡の1市7郡を選挙区とし、定員は3人でした。現在の東播磨、北播磨地域になります。
横田孝史は加西郡の出身で明治45年実施の第11回選挙から大正6年実施の13回選挙にわたり衆議院議員を務めていました。
謹で横田孝史君の為に愬ふ
帝国議会が初て開かれてからすでに四十有余年憲法を楯として政党を戟として根強き旧閥政府を根絶し、責任内閣制を確立して政党政治の運用を見るに至った今日までには、血汐にもまさる涙ぐましい先輩の悪戦苦闘を煩はしたことは、我等青年の口から言ふまでもありませぬ。
身を議院の内外に置きてその悪戦苦闘の第一戦に立ち続けてきた功労者の一人に、わが郷土の児である横田孝史君の存在することは悲壮にも我等の痛快とするところであります。
我等の父兄は曾て君を三回まで議会に送り出しました。しかし君の政治生活は概して不遇でありました、逆境でありました、多くの場合少数党として虐げられ在野党として蹂躙されたのでありました。殊に君の持論である二大政党主義の樹立について活動した当時には、憲政実施の大陰謀である彼の大正政変に禍されて将さに焼討ちの惨害にも遭遇すべき危地にさへ立ったことがあるのであります。
「苦節五十年」は、改進党創立以後の活動における君の政治生活を摠括するに最も相応はしい標語であります。その人が国事のため党事のために今は財産をも蕩尽し去りて、内外状勢の重大な政局を眼前に眺めながら幾多功利的政客の下積みに圧し埋められんとしつつあるのを見ては、血あり涙あるもの君の為に泣かざるを得ないのであります。
ああ、浜口前首相は兇弾のために倒れ、安達前内相の毒手は吾党内閣を暗殺し、今また井上前蔵相も不幸兇徒のために命を堕し、凶変また凶変、参事の頻りにわが民政党を禍するの秋に乗じて、彼れ政敵は前年の大政友会を建設し過去の横暴を再演せんとしているのであります。此際に若し選良その人を誤らば党中に向って爆弾を投ずると同じ結果を生じないと誰が保障し得るのでありましょう。
我等青年は、百戦錬磨、苦節を守って終始一貫した横田孝史君をいま一度、議会に送り出し、その鍛え上げた手腕と積年政界に植えつけた潜在力とを利用して、わが民政党の主義政策のために最後の奮闘をなさしめたいのであります
願はくば深厚なるご同情を同君当選のために注いでください
昭和七年二月
兵庫県第三選挙区青年有志
代表者 小 西 信 二
有権者殿
兵庫県加西郡北条町北条九二〇
責任者 大 西 市 之 助