「ミラノ 霧の風景」(須賀敦子、1990年)
こんなにいい本だったか、というのがまず第一の感想。
本棚にあり、読まないでそのままだったという体裁ではなかったから10年近く前には読んでいたはずだが、中身にあまり記憶はない。
とにかく読んでみたのは、10月18日にNHK教育TVで「須賀敦子 霧のイタリア追想~自由と孤独を生きた作家~」を見たからである。
須賀敦子(1929-1998)の著書では他に「コルシア書店の仲間たち」、「ユルスナールの靴」を読んでいて、特に生前最後の出版である後者では、その文書にいたく感銘をうけた。
だいたい戦後の散文書きで、男にはろくな人がいないけれど、女性には幸田文と須賀敦子がいる。
戦後ほとんど最初の欧州留学生の一人、フランスからイタリアへ、ミラノでカトリック左派の書店に勤めることになり、夫にはそこで出会って数年後に死別、その後帰国して、という経歴から、何か書けばそれはもの珍しさだけでも眼をひく。でも、作者は自分の文章を、多分いつも鏡を見ながら描く自画像のようにとらえ、この表現に確信はあるのか、必要以上に美化していないか、効果を狙っていないか、誠実に自問自答しながら書いていたにちがいない。
それは読めばわかるものである。その上で出てくる、文章の流麗、よどみ、きしみ、というのはとりもなおさず作者の心のうごき、ありようであって、それが読むものを書かれた世界に誘い、引き込んでいく。
知り合った人たちがどういう人たちだったか、自分の感想よりは、その人たちと一緒にしたことや会話、過不足ないとはこういうことか。
ヴェニスの水の音、ゴンドラの音、霧、女達の服装・歩き方など、描写も秀逸。
そして、親しかった人たちが何かのおり、仲間だった或る人について、あの人はこういう出自だからと、簡単に言えば、階級がちがうということをごく自然にいう。それを作者は驚くが、何か断定的なことは書かない。
ヨーロッパは今でも本質的には階級社会であって、としたり顔にいえばすむものではないだろう。
でも日本語の本であっても、そういうことがあったということを、おそらく実名で作者は書いた。その文章が、何か自然にそこに収まっていることに、作者の力を感じる。