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メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

絵本読み聞かせ(2024年7月)

2024-07-25 14:32:37 | 本と雑誌
絵本読み聞かせ 2024年7月
 
年少
おおきなかぶ(ロシア昔話 A.トルストイ再話 内田莉莎子訳 佐藤忠良画)
がたんごとん がたんごとん ざぶんざぶん(安西水丸)
こぐまちゃんのみずあそび(わかやま けん)
年中
おおきなかぶ
きんぎょがにげた(五味太郎)
こぐまちゃんのみずあそび(わかやま けん)
年長
おおきなかぶ
なつのいちにち(はた こうしろう)
そらまめくんのベッド(なかや みわ)

季節性もあるのだが昨年と同じプログラム、子供たちは成長したり、この季節だから当日のメンバも違っていたりはするものの、すんなりうけとっているみたいだった。
 
おおきなかぶを3クラスにというのは、保育士さんから年少組でも注意力がある最初なら大丈夫といわれたので今回も。うけたかどうかというより、こういう話のパターンと佐藤忠良の画の魅力をいろんなレベルで吸収してくれたらだが、たぶんそうなっていると思う。
 
年少、年中とも植物(食べ物)、動物などあんがい認識力はあって、成長は早いなと感じる。
なつのいちにち、そらまめくんのベッドは方向性はちがうけれどそれぞれ教育性も考えて採用しているのだが、素直にうけとってくれたようだ。


ゴーゴリ「鼻/外套/査察官」

2024-07-15 11:11:44 | 本と雑誌
ゴーゴリ: 鼻/外套/査察官
      浦 雅春 訳  光文社古典新訳文庫
ゴーゴリ〈1809-1852)の作品を読むのは初めてである。作者はプーシキンより一世代後の人、この三作はみな話として奇異なところがあり、面白おかしくはあるが、はてこれは何を言わんとしているのか、簡単には想像できないところはある。
 
「鼻」は、いいかげんな床屋に鼻を切られてしまい、それをさがして動き回る男、鼻がなくても気がつく人も気にする人もおらず、結局鼻は出てくるのだが、作者はこういうことが世間にはあるともないとも言えないという感じで結びとする。
 
「外套」は、着古してもう限界になった外套をどうしようかという下級官吏、仕立て屋とのやり取りはなかなか決着しないがこれが面白く、さて仕上がって喜んでいると追いはぎにあってしまい、苦闘しながら探しまわるのだが、他人はそんなに重大なこととはおもわず、というところは「鼻」と同様。
 
「査察官」は演劇スタイルで、その場面進行をうまく使えるからか、なんともいい加減にみえる人たちの行動が面白おかしくとめどなく続いていく。地方都市の市長を中心にした人たちに入ったどうも中央から査察官が来るらしいといううわさ、それに乗ることになり自分が査察官ということをを否定しないインチキおとこ、どんどんとめどなくなって、市長をめぐる集団のやりとりと進行結末、インチキ男はいくところまでいって、、、という話し。舞台で見たらより面白いだろう。
 
ゴーゴリには「死せる魂」、「狂人日記」などもっと長いものもあり、また「タラス・ブーリバ」などはちょっと違った傾向だろうから読んではみたいのだが。
 
この本は翻訳のスタイルで話題というか議論になったらしい。ちょっととんでもない話だしおそらく話のリズム感を活かすために、訳者は落語調を採用してみたようだ。賛否あるものの、私はこの方が作品の中に入っていけるし、やった甲斐はあると思う。
 
特に「鼻」はとんでもない話なんだけれどショスタコーヴィチがオペラにしていて、観たことがある。なんだかよくわからない不思議でおかしなものだなあと思ったが、今回こうして読んだ後もう一回観てみてもいい。

絵本読み聞かせ(2024年6月)

2024-06-27 17:10:19 | 本と雑誌
絵本読み聞かせ(2024年6月)
 
年少
なーらんだ(三浦太郎)
どんどこももんちゃん(とよたかずひこ)
くだもの(平山和子)
年中
どんどこももんちゃん
パパ、お月さまとって!(エリック=カール、もり ひさし訳)
くだもの
年長
きんぎょがにげた(五味太郎)
パパ、お月さまとって!
くだもの
 
ほぼ例年の同月と同じプログラム
「どんどこももんちゃん」、年少組にぴたりなのか、反応がよく各ページでそれが長く続く。
エリック=カールの絵は驚きが例年より大きかったが、これ月をあまり見ていないのか関心がなかったのか、そうでなければいいのだけれど。
 
「きんぎょがにげた」は不思議な絵本で、年長にはやさしすぎるかと思ってもなぜかおもしろいらしく、このあたり五味太郎の「絵のあそびのちから」なんだろうか、大人にはわからない面がある。
「くだもの」はやはり初夏と秋冬あたり、見てさわいでもらうのがいい。

恩田 陸「spring」

2024-06-24 15:12:01 | 本と雑誌
spring スプリング
恩田 陸 著 筑摩書房
 
帯に長編バレエ小説とあるようにバレエの世界を詳細に描いたかなり珍しい作品である。
 
子供の時からその才能が目立ったジュンその叔父稔、ジュンと幼馴染でライバルであり友である春(HAL)、やはり同世代の姉妹の一人七瀬、この4人がそれぞれぞれ彼ら特にジュンと春について、バレエの世界について語っていく。稔はバレエをしないで彼らが本やレコードの世界に入っていくことをサポート、ジュンと春は早くから振付けの才能を発揮し、ダンサーとしての成功ばかりでなくバレエそのものの頂点(神?)を追い求めるといっていい。七瀬は途中から作曲になるが、バレエについて深く理解し春のために作曲、編曲してかかわる。彼らの舞台は今の状況を反映してか初めから世界である。
 
バレエについてはまるでなじみがなかったが、吉田都が英国ロイヤルバレエのプリンシパルになってからNHKでさまざまな番組があり、その後平野亮一、高田茜がプリンシパルになるなど続いてみてきた。。
それで本作を読んで、ダンサー、振付、演出、クラシック、コンテンポラリー、新作などについて様々な詳細が興味深く、よくこれだけ調べ集めてと思う。この世界についての理解は進んだと思う。
 
しかしながら読み終わってみると「それだけ」なのである。題名のスプリング、これはストラヴィンスキー「春の祭典」であり、この振付と舞踏で春はバレエそのものになる(なったと彼は納得する)のだが、それはこのこの世界で彼の歩みとして納得できるとはいえ、なにかバレエだけといえばそう。
 
これはこの小説が上記四人の立場からある意味平等に四部で書かれていて、しかもそれぞれ一人称、ということはそれぞれ主人公に作者が入り込んで語っているという、小説としてはあまりない形になっているからと考える。こういうことはあまりない。
 
人称と著述というのは作者にとっても様々な問題があり、一方で工夫のしどころなのだが、これだけほぼ均等に四つにされると、がっかりであった。過去の様々な小説のなかでも例えば「フランケンシュタイン」(メアリー・シェリー)のように、語り、手紙などいくつも均等ではなく変化をつけてと様々な手段はある。
 
上記のことと関係しているかもしれないがこの作者、文章はうまくない。今の人気作家はこんなものなのだろうか。それからもっといい校正者をつけたほうがいいと思ったところがいくつかあった。筑摩書房でこのレベルとは思いたくないが。
 
恩田陸でいえば数年前に評判になった「蜜蜂と遠雷」、これは映画だけ見て原作は読んでいない。映画はそこそこ面白かった、まず映画でよかったかもしれない。


スタインベック「ハツカネズミと人間」

2024-06-02 16:05:20 | 本と雑誌
ハツカネズミと人間 ( OF MICE AND MEN )
  ジョン・スタインベック 作 大浦暁生 訳 新潮文庫
 
タイトルは知っていたが読んでみようと思わなかったのは描かれている世界が貧しい人たちでそのかわいそうな運命という単純なイメージがあったからだと思う。
 
カリフォルニア州サリーナスあたりに仕事を探している二人の男ジョージとレニーが現れる。ジョージは小柄で機転が利き、レニーは大柄だが知恵遅れで、ジョージはその世話を頼まれておりそれをいやとは思わない。レニーは自分が足手まといだろうとわかっているのだがジョージはかまわない。
 
週の後半に仕事を求めてある農場に現れ、そこで何人かのちがった背景、くせのある人たちと出会いやり取りがある。この会話が無駄なく深く優れた描写になっていて秀逸。
ジョージはハツカネズミやうさぎが好きなレニーに、二人で働いて少しずつ金をため、小さい土地を買って草を育てうさぎなどを飼おうという。レニーはそれを頭にいれ、何かがあるとおれたちはそうすると何度も口にする。普通ならこれをうるさい、くどいと思うはずだが、そうでないジョージ、この進行がとにかくうまい。こういう文章がなぜ書けるのか。
 
ジョージが心配していたことをレニーがやってしまい悲劇的な結末になる。この10ページほどのしんみりした、ほのぼのとしたともいえる文章、こたえるが再度読んでしまった。

スタインベックには「怒りの葡萄」、「エデンの東」というサリーナスを舞台にした貧困に苦しむ民衆を描いた叙事的物語の作家というイメージがあった。ノーベル文学賞を受賞していて、おそらくその対象となる業績は「怒りの葡萄」あたりだろう。しかし明らかに注目すべきはこの160頁あまりの中編であり、これだけ優れた文学作品はヨーロッパにもちょっとない。
 
ジョージとレニーの最後の場面は映画にできないだろう。演劇化はされているようで、舞台ではかなり工夫のしようがあるかもしれない。