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メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ベルク 「ヴォツェック」

2021-08-30 09:41:26 | 音楽一般
ベルク:歌劇「ヴォツェック}」
指揮:ヤニック・ネゼ=セガン、演出:ウイリアム・ケントリッジ
ペーター・」マッテイ(ヴォツェック)、エルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァー(マリー)、クリストファー・ヴェントリス(鼓手長)、ゲルハルト・シーゲル(大尉)、クリスチャン・ヴァン・ホーン(医者)
2020年1月11日 ニューヨーク・メトロポリタン・歌劇場  2021年7月 WOWOW
 
しばらく聴いてなかったが、音楽は若いころから何度か聴いている。だから記憶があるフレーズなどかなりあるが、映像を見た記憶は確かでない。一回くらいあるかもしれないが。
 
ヴォツェックの存在を初めて知ったのは1963年、日生劇場の杮落としに初来日したベルリン・ドイツ・オペラの演目の一つとしてである。それまでNHKがイタリア・オペラを何度か招致していたが、オケを含めてすべてというのは初めてで、演目は「フィガロの結婚」、「フィデリオ」、「トリスタンとイゾルデ」、「ヴォツェック」、フィガロとフィデリオの指揮はカール・ベーム、トリスタンはまだ若く気鋭のロリン・マゼール、ヴォツェックはハインリッヒ・ホルライザーだった。
 
一般に話題になったのは、なにしろ巨匠ベーム初来日ということもあり前の二つだったが、ここに20世紀オペラのヴォツェックを配したのには、当時現代音楽についてよく発言していた柴田南雄や吉田秀和がいろいろ書いていたから、評価が高いんだなと思った。
 
その後ブーレーズが指揮したレコードを何度か聴いて、この悲劇はそれなりに理解したとは思う。第一次世界大戦前後の絵画など、ドイツ表現主義のものを積極的に見ていたこともあったかもしれない。
 
ただヴォツェックが音楽的に極めて洗練された、全体がしっかり構成されたもの、といわれてもそれを味わう能力はなかったから、その後好んで聴くということはなかった。
 
三幕90分休みなしの上演、複雑だがおそらくうまく考えられた舞台装置、ドローイングを映像で映し出して音楽を強調するもの、など効果的ではある。一方ごちゃごちゃしすぎているところもあり、音楽が抒情的になるところとマッチしないこともあった。
 
歌手たちはみな見事だが、特にマリーのヒ―ヴァーがよかった。このオペラ、私からすると、いくら当時の社会、被支配階層の人間ということだとしても、ヴォツェックにはあまり共感できないが、マリーには感情移入できるところがある。人間にはこういうところはあると思う。この脚本、マリーをもっと深く描いてくれたらと思うのだ。
 
マリーがヴォツェックとの間に産んだ子供との場面、この演出では操り人形である。最近時々使われる手法で、メトのミンゲラ演出「蝶々夫人」でもあった。しかしこれに比べると今回の人形のしつらえは理解不能で、マリーの演技にもマイナスではなかったか。
セガンの指揮は明快だったと思う。
 
あまり難しい音楽は理解できないものとしては、ベルクという人、「抒情組曲」、「ヴァイオリン協奏曲」といった新しい抒情の音楽で傑作もあり、オペラが「ヴォツェック」や「ルル」というのはどうなのか、というのは勝手な感想だろうか。「影のない女」を書いたリヒャルト・シュトラウスほど、私はこれだという自信に到達できなかったのだろうか。


ワーグナー 「さまよえるオランダ人」

2021-08-18 14:19:19 | 音楽一般
ワーグナー:楽劇「さまよえるオランダ人」
指揮:ワレリー・ゲルギエフ、演出:フランソワ・ジラール
エフゲニー・ニキティン(オランダ人)、アニヤ・カンペ(ゼンタ)、フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ(ダーラント)、藤村実穂子(マリー)、セルゲイ・スコロホドフ(エリック)、デイヴィッド・ポルティッヨ(舵取り)
2020年3月10日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場  2021年6月 WOWOW
 
2月にもオランダ人をファビオ・ルイージ指揮フィレンツェ五月祭で見ている。こう続くと多少よく気がつくところがある。その時、さまよえるオランダ人が結婚出来れば救われるとしたダーラントの娘ゼンタがかなり大柄だった。歌唱は特にどうということもなかったが、今回のアニヤ・カンペは同じく大柄、最初からたいへん強い歌唱で、どうしても救ってあげたいという意志が前に出ている。
 
オランダ人はゼンタを以前から好いているエリックとのやりとりを気づいたからか、これは放浪を続けざるを得ないと言い渡すのだが、ゼンタは身をひるがえして死を選び、オランダ人を救う。
 
今回のアニヤ・カンペのゼンタを聴いて初めて、これは純粋な愛情などというものではない、なにしろ会う前から伝説を描いた絵を見て、憧れというか妄想をもっていたわけで、ヒューマンな要素はまずないのである。
なんと言ったらいいか、先験的な破滅による救済とでも言ったらいいだろうか。作曲家はこの初期の作品で、すでにこういう概念を持っていたのだろうか。カンペで見、聴くともうブリュンヒルデに通じるものを感じてしまう。
 
オランダ人、ダーラントは力もあり堅実、マリーの藤村実穂子は日本人で初めてメトデビューということで話題になった。よく知らなかったが昨年、エッシェンバッハ指揮N響のマーラー「復活」で評判を知った。歌唱はこの場に合ったものだが、もう少し声量がほしい。舵取りのポルティッヨは若々しいきれいな声で、この暗い背景の中アクセントになっている。
 
演出のジラールは映画出身で評価が高いらしい。ダーラントの家の糸より工場の場面は、上から垂れた縄を使ったイメージ演出で面白いが、上述の別公演で近代の小さい工場のリアルな雰囲気を出していたものの方が、あの場面の意味がよく出ていたように思う。
 
全体にオランダ人の船や船員たちもあまり荒々しく描かれていない。メトの合唱とゲルギエフが指揮するオケがあれば、ということでもないだろうが。
そこはルイージ・フィレンツェの方が印象強かったと言える。もう少し歌手のレベルが高ければさらによかったが。
 
この作品、全体としていかにもゲルギエフ向きといえるが、それだからか割合堅実淡々と指揮しているといえる。それは間違っていないが、ワーグナーではむしろ他の作品でこの人ならではの表出を聴きたいところだ。



コルンゴルト 「死の都」

2021-07-05 16:18:05 | 音楽一般
コルンゴルト:歌劇「死の都」
指揮:キリル・ペトレンコ、演出:サイモン・ストーン
ヨナス・カウフマン(パウル)、マルリス・ペーターセン(マリエッタ/マリーの幻影)
2019年12月1.6日 バイエルン国立歌劇場  2021年6月 NHK BSP
 
コルンゴルト(1897-1957)23歳の作品、高い評価を得たオペラである。コルンゴルトの作品としては比較的よく演奏されるヴァイオリン協奏曲くらいしか知らなかったが、「死の都」もかなり上演されているらしい(日本でも)。この人、大戦を境に米国に亡命し、映画音楽で活躍、後の作曲家に大きな影響を与えたそうである。
 
原作はベルギーの詩人ローテンバックの「死の都ブリュージュ。これをベースに結末などいくつか翻案しているらしい。ブリュージュが過去の都であるように、主人公パウルは愛した妻マリーの死後も自宅を「在りし者の教会」と名付け、マリーの使っていたもの、洋服から鬘まで残してあり、おびただしい写真を貼り巡らしている。
 
その後パウルはマリエッタという女に出会う。彼女はマリーとうり二つで、好きになるが、自宅には連れてこない。マリエッタは劇団にいて、積極的だし、仲間たちと煽情的な騒ぎをよくしている。マリエッタはパウルがマリーの幻影を求めて自分と付き合っていることに気づき、最後はパウルの自宅に乗り込む。さて二人は殺し合い、自殺?と思わせるのだが、最後は死者を悼んでも、自らの生を、「生と死は分かたれるべき」と結ばれる。
 
作られたのが第一次世界大戦の直後だから、これは大きな意味を持つものだったと思われる。一方でそれまでのヨーロッパの過去に対する喪失感から、そうはいかない人たちもいただろう。ツヴァイク「昨日の世界」など?
 
音楽は聴いていてリヒャルト・シュトラウスを思わせる。きれいなところと、衝撃的なところ、いずれもオペラとしては聴いていて飽きさせない展開である。
 
主役の二人カウフマンとペーターセンは力のいる歌唱と、動きで出ずっぱりであり、これを演じることができる歌手はそう多くはないだろう。
演出は箱型の部屋の組み合わせを使い、回転舞台を使って円滑な場面展開をしている、近年よくあるものだが、照明との組み合わせがよく、効果的である。
 
指揮のペトレンコは、鋭さ、柔軟性、的確である。あまり最近の人に詳しくないこともあってか、1~2年前に突然ベルリンフィルの首席として名前をきいたとき、はてと思ったくらい。このバイエルン国立歌劇場ではもう少し前から実績があるらしい。今後新鮮な活躍を見せてくれそうだ。

モーツァルト 「偽の女庭師」

2021-05-17 16:52:59 | 音楽一般
モーツァルト:歌劇「偽の女庭師」(K.196)
指揮:ディエゴ・ファソリス、演出:フレデリック・ウェイク・ウォーカー
ジュリー・マルタン・デュ・テイユ(サンドりーナ)、クレシミル・シュピツェル(代官)、アネット・フリッチュ(アルミンダ)、ベルナール・リヒター(伯爵)、ルチア・チリッロ(ラミーロ)、ジュリア・セメンツァート(セルベッタ)、マッティア・オリヴィエーリ(ナルド)
2018年10月11日 ミラノ・スカラ座  2021年5月 NHK BSP
 
1774年、モーツァルト18歳の時の作品である。といっても初めてのオペラでもなく、この歳でと驚くけれども、あまりそれにとらわれなくてもいいようだ。
 
代官屋敷の女庭師サンドリーナ、訳ありで貴族出身の身分を隠している。代官の姪(アルミンダ)が結婚するということで代官邸に現れる、結婚相手に決まった伯爵がそこに来るが、ここでサンドりーナを見て、過去にひどいことをしてしまったヴィオランテではないかと思う。
 
代官の達者な小間使い(セルベッタ)、それにいいよるナルド、アルミンダを追いかけるラミーロ(メゾソプラノ)が入り乱れ、結局だれとだれが?と想像しながら観ていくことになるのだが、構図はわかりやすいから、歌手たちの歌と演技を楽しんでいrてばいい。思ったより飽きずに最後までいった。
 
今回の公演、オーケストラはピリオド楽器とそれに即した奏法のようで、作曲家この時期の音楽、シンプルで活気があることが目立つが、物語の大きな起伏を表現するもっと後の作品よりは、こういうやりかたの方がいいのだろう。
 
歌手たちは歌も、所作も達者だし、ほとんど一つの広間での進行と、壁や通路(穴)をうまく使ったしかけも大げさすぎなくていい。
 
ところで、この作品は「フィガロの結婚」の前触れとも言われているようだが、フィガロやコシ・ファン・トゥッテなどモーツァルの男女間のコメディ・オペラは、最後ヒロインたちの賢さが勝つということが多い。これはモーツァルトに限らないのかもしれないが、作曲家としてはそれだけではない、もっとちがう人間ドラマの深遠をという考えがあったのではないか。それがドン・ジョヴァンニで、これは是非とも書きたかったものだろう。ドン・ジョヴァンニにくらべれば、他の作品の結末は今風に言えばポリティイカル・コレクトネスみたいで、音楽ならもう一つ先があると言える。
 
今回、こういうことを思い浮かべたのも、最後までうまく聴かせてくれたからである。

ヘンデル 「アグリッピーナ」

2021-05-08 09:47:06 | 音楽一般
ヘンデル:歌劇「アグリッピーナ」
指揮:ハリー・ビケット、演出:デイヴィッド・マクヴィカー
ジョイス・ディドナート(アグリッピーナ)、ケイト・リンジー(ネローネ)、ブレンダ・レイ(ポッペア)、イェスティーン・デイヴィーズ(オットーネ)、マシュー・ローズ(クラウディオ)
2020年2月29日 ニューヨーク・メトロポリタン  2021年5月 WOWOW
 
ヘンデル(1685-1759)が1709年に発表したオペラ・セリア、ヘンデル24歳であるから、この作曲家イメージゆより早熟のようである。
 
ローマ時代、皇帝クラウディオが外地で死んだとの報があり、後継者を誰にするかということになるが、忠実な部下オットーネをという声に対し、皇后アグリッピーナは連れ子のネローネ(ネロ)をと企む。ところがクラウディオは死んでおらず、さてと構図はこじれてきて、オットーネと相思相愛のポッペアも加わり、なんとも混乱した話が進行する。
 
この登場人物だと、最後は悲劇的と想像するのだが、幕間で誰かが語っていたように、実は喜劇であって、みな色と権力のはざまで葛藤を繰り広げる、その強さと可笑しさ、それを盛り上げる音楽がこの作品の見どころ、聴きどころであり、特にライヴで映えるものとなっている。
 
演出は、古代の人たちが現代の霊廟に現れて、というしつらえになっていて、衣装、ダンス、男女のからみなど、時代を超えてなんでもありの中、マクヴィカーさすがに楽しませてくれる。
 
舞台によく現れる長く細い階段、これを上り下りするのは歌手も大変だが、それと大きな赤いマリリン・モンローを想像させる唇、もちろん権力と色欲、わかっていても効果的である。
 
歌手陣は、ディドナートを中心によくまとまり、からみ、バランスがとれているといったらいいか。ディドナートは少し久しぶりだからか、これまでのすっきりしたイメージより豊満な感じが出ていてピタリだし、ポッペアのレイも風貌はそれに負けない。オットーネはカウンターテナーのデイヴィーズ(名手らしい)で、ポッペアに対して体躯が小さいのは別として、ここにこの声というのは全体の中でいいアクセントになっている。この時代はこういう役割・編成が多かったのだろうか。
 
クラウディオのローズは巨体とだまされそうな感じがユーモラス。そしてここで一番の話題性、となったのはケイト・リンジーのネローネで、変な性格の、まだ子供だがワルという子を演技たっぷり、しかし歌は見事に演じ切る。
 
実は以前からファンで、ケルビーノ、「ホフマン物語」のニクラウスなどで注目していた。ズボン役といっても、他の;歌手のように衣装の下は女性という感じがなく、現在他に変わる人がいない感じである。
 
ヘンデルの音楽は他の同じような繰り返しでしつこく続くオーケストラは他のオペラと同様だが、歌を支えるチェンバロなどの部分はより表現力があると感じた。
歌が筋の進行にくらべ長々と繰り返して続くのは、当時の聴衆の楽しみに沿ったものだったのだろう。
 
指揮のビケットは飽きさせない進行、酒場を想定した場面では舞台上でチェンバロ(即興?);色っぽいダンスを盛り上げていた。
初めて観たものだが、こういう発見は楽しい。