リヒャルト・シュトラウス:歌劇「影のない女」
台本:フーゴー・ホフマンスタール
指揮:クリスティアン・ティーレマン、演出:ヴァンサン・ユゲ
カミッラ・ニールント(皇后)、ステファン・グールド(皇帝)、エヴェリン・ヘルリツィウス(乳母)、ウォルフガング・コッホ(バラック)、ニナ・シュティンメ(バラックの妻)
2019年5月25日、6月10日 ウィーン国立歌劇場
2020年7月、NHK BSP
これまでなぜか苦手意識があって、録音、映像(メトロポリタン?)など途中で投げ出していたのだが、今回はどうしてかわからないけれど、最後まで集中して見ることができ、作品、演奏とも堪能した。
台本はホフマンスタールのメルヘンというか変わった話。狩りをしていた皇帝が捉えたガゼル(カモシカ?)が人間の女に変身、皇后になるが、彼女実は霊界の大王の娘であった。
皇后には影がない。影は生殖能力の象徴であるが、激怒している大王は、三日のうちに人間界から影を得れば皇帝と一緒になれるがもう霊界には戻れない、影を得られなければ娘を取り戻し、皇帝は石になる、と宣言する。
ここに乳母が入ってきて、彼女自身の思惑もあって、皇后を人間界の染め物師バラックとその妻のもとにつれていく。バラックには障害がある三人の兄弟があり、妻との間もうまくいっていない。子供はいないが、作ろうかどうしようかというところで悩んでいる。そこに乳母がとり入って、妻に影を売らないかともちかけ、妻の悩みと混乱が続いていく。
このあたり、台詞からこの作品のいろいろな要素がわかってくる。バラック夫婦から買おうとしている影は生殖能力であるが、夫婦間の愛、性愛の問題も含んでいて、それに加えて貧困があり、夫婦関係は破綻していく。
ついに影を売ろうとするのだが、そのあたりから皇后の悩みと行動が、目立ってくる。そしてフィナーレまでは、この愛、性愛、生殖の問題が、男女二人ばかりではなく、人間界全体のテーマに広がってきて、それまでの作品のトーンが一気にハッピーエンドになっていく。
音楽は各役のやりとり、全体の迫力ある盛り上げ、まったく見事で、この1919年初演の作品、ワーグナーの後、「ばらの騎士」の美しさと退廃、「サロメ」、「エレクトラ」の強烈さを持つ作曲家の力が全開である。
バラック夫婦のやりとりに見る社会の貧困、作られたのは第一次世界大戦が終わった頃だろう。同時期にベルクの「ヴォツェック」が作られていて(初演は少し後だが)、共通するところもある。しかし、音楽作品全体としてみると、「影のない女」の方がテーマの広がり、聴くものに与えるものという点で、何か上をいくように思えた。台本のホフマンスタールとビュヒナーの違いが大きいとは思うけれど。
ティーレマンの指揮、これまでそんなに印象なかったけれど、今回、このシュトラウスのあらゆる良さが入った大曲で、優れた歌手たちの能力を存分に引き出し、オーケストラを優美に、また大迫力にドライヴして、見事の一言であった。
歌手は、女性三人とバラックが重要な役どころだが、皆力を出していた。皇后も第2幕の終盤、第3幕ではそれまでとちがって表に出てくる。訴える力があった。
そしてバラックの妻が、ここで一番いろんなことが集中して、悩み行動する役であって、ここにニナ・シュティンメという現代のディーヴァ、納得できた。
実は1977年同じ劇場でカール・ベームが指揮したライヴ録音のCDを持っていて、もったいないことに多分通して聴いていなかったのだが、そのキャストを見ると、皇后がレオニ―・リザネック、バラックの妻がビルギット・ニルソンで、ブリュンヒルデが二人といるというか、なんともすごい配役である。
そして乳母はルート・ヘッセ、私が強い印象で記憶しているのは「ローエングリン」のオルトルートでこの役はこの人のためかと思ったくらい。ここでの乳母にも共通するものがある。
バラックはヴァルター・べりー、そう上記「ヴォツエック」の主役(ブーレーズ盤)であった。
台本:フーゴー・ホフマンスタール
指揮:クリスティアン・ティーレマン、演出:ヴァンサン・ユゲ
カミッラ・ニールント(皇后)、ステファン・グールド(皇帝)、エヴェリン・ヘルリツィウス(乳母)、ウォルフガング・コッホ(バラック)、ニナ・シュティンメ(バラックの妻)
2019年5月25日、6月10日 ウィーン国立歌劇場
2020年7月、NHK BSP
これまでなぜか苦手意識があって、録音、映像(メトロポリタン?)など途中で投げ出していたのだが、今回はどうしてかわからないけれど、最後まで集中して見ることができ、作品、演奏とも堪能した。
台本はホフマンスタールのメルヘンというか変わった話。狩りをしていた皇帝が捉えたガゼル(カモシカ?)が人間の女に変身、皇后になるが、彼女実は霊界の大王の娘であった。
皇后には影がない。影は生殖能力の象徴であるが、激怒している大王は、三日のうちに人間界から影を得れば皇帝と一緒になれるがもう霊界には戻れない、影を得られなければ娘を取り戻し、皇帝は石になる、と宣言する。
ここに乳母が入ってきて、彼女自身の思惑もあって、皇后を人間界の染め物師バラックとその妻のもとにつれていく。バラックには障害がある三人の兄弟があり、妻との間もうまくいっていない。子供はいないが、作ろうかどうしようかというところで悩んでいる。そこに乳母がとり入って、妻に影を売らないかともちかけ、妻の悩みと混乱が続いていく。
このあたり、台詞からこの作品のいろいろな要素がわかってくる。バラック夫婦から買おうとしている影は生殖能力であるが、夫婦間の愛、性愛の問題も含んでいて、それに加えて貧困があり、夫婦関係は破綻していく。
ついに影を売ろうとするのだが、そのあたりから皇后の悩みと行動が、目立ってくる。そしてフィナーレまでは、この愛、性愛、生殖の問題が、男女二人ばかりではなく、人間界全体のテーマに広がってきて、それまでの作品のトーンが一気にハッピーエンドになっていく。
音楽は各役のやりとり、全体の迫力ある盛り上げ、まったく見事で、この1919年初演の作品、ワーグナーの後、「ばらの騎士」の美しさと退廃、「サロメ」、「エレクトラ」の強烈さを持つ作曲家の力が全開である。
バラック夫婦のやりとりに見る社会の貧困、作られたのは第一次世界大戦が終わった頃だろう。同時期にベルクの「ヴォツェック」が作られていて(初演は少し後だが)、共通するところもある。しかし、音楽作品全体としてみると、「影のない女」の方がテーマの広がり、聴くものに与えるものという点で、何か上をいくように思えた。台本のホフマンスタールとビュヒナーの違いが大きいとは思うけれど。
ティーレマンの指揮、これまでそんなに印象なかったけれど、今回、このシュトラウスのあらゆる良さが入った大曲で、優れた歌手たちの能力を存分に引き出し、オーケストラを優美に、また大迫力にドライヴして、見事の一言であった。
歌手は、女性三人とバラックが重要な役どころだが、皆力を出していた。皇后も第2幕の終盤、第3幕ではそれまでとちがって表に出てくる。訴える力があった。
そしてバラックの妻が、ここで一番いろんなことが集中して、悩み行動する役であって、ここにニナ・シュティンメという現代のディーヴァ、納得できた。
実は1977年同じ劇場でカール・ベームが指揮したライヴ録音のCDを持っていて、もったいないことに多分通して聴いていなかったのだが、そのキャストを見ると、皇后がレオニ―・リザネック、バラックの妻がビルギット・ニルソンで、ブリュンヒルデが二人といるというか、なんともすごい配役である。
そして乳母はルート・ヘッセ、私が強い印象で記憶しているのは「ローエングリン」のオルトルートでこの役はこの人のためかと思ったくらい。ここでの乳母にも共通するものがある。
バラックはヴァルター・べりー、そう上記「ヴォツエック」の主役(ブーレーズ盤)であった。