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メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

「エレクトラ」追加

2022-07-18 18:13:38 | 音楽一般
昨日にアップした「エレクトラ」、書き忘れたことを一つ。
 
この一家、父母と姉妹、弟の家族だが、このところいろいろ読んでいるエマニュエル・トッドの家族システム論、つまり国、地域などで家族システムにちがいがあり、それは個人、家族、集団の行動を基本的なところで規定している、ということからすれば、このオペラも、台本、作曲、演出、観る人それぞれの家族システムを思い浮かべると、面白いかもしれない。

リヒャルト・シュトラウス「エレクトラ」

2022-07-16 16:32:40 | 音楽一般
リヒャルト・シュトラウス:歌劇「エレクトラ」
指揮:ケント・ナガノ、演出:ドミートリ・チュルニャコフ
ヴィオレタ・ウルマナ(クリテムネストラ)、アウシュリネ・ストゥンディーテ(エレクトラ)、ジェニファー・ホロウェイ(クリソテミス)、ラウリ・ヴァサル(オレスト)、ジョン・ダジャック(エギスト)
2021年12月11日 ハンブルク国立歌劇場 2022年7月NHK BSP
 
シュトラウスの歌劇として、比較的初期に評判になったものは「サロメ」だが、そのすぐあとがこの「エレクトラ」で、ここから台本はホフマンスタールとなり、晩年までこのコンビで多くの傑作が生みだされた。
 
ただ私からするとこのエレクトラ、つまりギリシャの話で、トロイア戦争から帰還したアガメムノンが、妻クリテムネストラと不貞の相手エギストに殺される。夫婦にはエレクトラとクリソテミスの姉妹とその弟オギストの、三人の子供がいた。
 
オレストは追い出されており、クリソテミスは不幸な経緯はともかく女として幸せになりたい。ただ一人エレクトラだけが周囲からのけ者にされながら復讐を誓い続けていて、物語の進行はエレクトラと母クリテムネストラのやり取りというかいがみ合いが主となる。
 
ここでまず母親役の存在感、強さが要求されるわけで、メゾの大物が起用されることが多い。それに対抗するエレクトラも、そんなに聴いたり見たりしてはいないがやはりワーグナー作品の主役をやるようなソプラノ、例えばニルソンなどが思いうかぶ。
ただそうなると、これまでの「エレクトラ」印象は激しい、言い方は悪いが疲れるといったこともあった。それが今回のエレクトラ役ストリンディーテは母親よりかなり体躯も小さく、歌も若い女性らしいところもあり、聴いていてこれまでより理解が進むところがあった。
 
母親に対する怒り、怨念ばかりでなく、自分の中に入ってくる父親というものの存在、それが途切れてしまったことの絶望、そういうコンプレックスがうまく表出された歌唱だった。
 
演出のチェルニャコフという人はかなり問題児らしく、母と娘の対決時の道具、動きも大胆だが、終末近くから姉妹、弟の近親相姦的な面を表に出す演出で、通常は復讐を遂げたエレクトラが踊り狂って倒れるところで終わるのが、三人の性的関係が暗示以上の表現になっていた。見ている側として、どこのあたりでフィナーレとするのか、自らどうにかしなければならないのかもしれない。
 
舞台、衣装などは近・現代になっており、ギリシャ悲劇という感じは全くない。オペラとしてはこの方がいいのかもしれない。
 
ケント・ナガノの指揮、激しく雑になりかねない音と流れを、うまくもっていったと思う。この作品、それまでのいくつかの激しいフレーズがまた出てきて後やわらかい音と流れで包まれ聴く者の記憶に残るという、少しあとの「バラの騎士」で聴かれるところが、すでに「エレクトラ」でもあったということに気がついたのも、ナガノの指揮によるものだろう。

リムスキー・コルサコフ「金鶏」

2022-06-17 14:42:22 | 音楽一般
リムスキー・コルサコフ: 歌劇「金鶏」
原作;アレクサンドル・プーシキン
指揮:ダニエレ・ルスティオーニ、演出:バリー・コスキー
ドミートリ・ウリヤーノフ(ドドン王)、ニナ・ミナシャン(シェマハの女王)、アンドレイ・ポポフ(星占い師)、マリア・ナザロワ(金鶏(歌))
2021年5月18、20日 リヨン国立歌劇場  2022年6月 NHK BSP
 
おそらく民話をもとにしたプーシキンの原作だが、それをどう料理したのか。帝政ロシアがもう末期になり、日露戦争に破れ、当局にかなりいじられ、初演は作曲者(1844-1908)の死後1909年だったようだ。
 
横暴なドドン王が星占い師から得た金鶏の鳴き声に従い、多くは「何もしないで寝れおれ」ということになる。隣国との危機も意見が違う二人の王子にはさまれているうち、二人を処分してしまうと、現れた異国の女王のえんえんときかせる物語のなか、二人は一緒になりそうになるが、現れた星占い師が女王をよこせとなり、最後はどたばたとして終る。
 
近代の緊張したドラマにはならず、要所要所でなにかいい加減I(に見える)進行があるが、そこは音楽が主役のこの作品、はじめて見たが、まずまずの面白さであった。
ウリヤーノフのドドン王、なぜか貧乏くさい下着の上下、舞台は草が伸びた荒れ野で、金鶏も滑稽、女王だけはきれいな衣装。
ロシアオペラの常でドドン王はバス、女王の長い歌唱は聴かせどころが多く、ミナシャンも見事だった。
 
帝政であればこのくらいの話が出てきたからといって、そう取り締まられることもないとは思うが、初演前の版はちがっていたのだろうか。
 
これフランスのリヨン歌劇場で、どうして目をつけたのか、リムスキー・コルサコフはおそらくラヴェルとならんで近代オーケストレーションの大家だから、そのあたりからの興味だろうか。たしかにオーケストラ部分は素晴らしい。
 
先日のラヴェル「子どもと魔法」からすると、もう少し映像、照明に工夫してもよかったのではないか。あとバレエのレベルがいまいち。
 
これ、昨年の上演だけど、今年ロシアがああなってからであれば、どう受け取られたか。
ロシア、ソ連からは、ときどきl表面的にはなにか変なというかとんでもない作品がでてきていたのが、面白い。


 

ラヴェル「子どもと魔法」

2022-06-04 09:50:28 | 音楽一般
ラヴェル:歌劇「子どもと魔法」( L'enfant et les Sortileges)
台本:コレット夫人
指揮:ティトゥス・エンゲル、演出:ジェームズ・ボナス、イラスト・アニメーション:グレゴワール・ポン。美術・衣装:ティボー・ヴァンクリーネンブルク、照明:クリストフ・ショパン
クレマンス・プッサン(子ども)、クレール・ガスコワン(母親、中国茶碗、トンボ)
2019年11月14、15、19日 リヨン国立歌劇場  2022年5月 NHK BSP
 
ラヴェルはオペラとしては「スペインの時」と「子どもと魔法」の二つだけしか書いていない。
「子どもと魔法」はアンセルメ指揮スイス・ロマンドのレコード(1954年録音)を聴いたことがあり、今でも持っている。おぼろげな記憶では音楽は劇的だがしゃれていて、音は美しいが、なにしろ歌詞というか台詞が早くて対訳を追いかけるのも大変だった。
 
今回こうして初めて映像で見ると、これはやはり聴くだけでは理解できないなと思った。
登場人物は子供と母親以外はほとんど動物や家具、食器などで、それらが子供に普段邪険にされていてこらしめようという流れである。
  
本来バレエが組み合わされているらしいが、今回は見せ方としては映像、影絵など、それも音楽とうまくシンクロしていて、飽きずに見ることができた。この映像技術はなかなか大したもので、番組でこの次にあった「ピーターと狼」(プロコフィエフ)もそうだけどフランスのセンスと技術は素晴らしい。
 
おそらくアニメ「王と鳥」(やぶにらみの暴君)あたりから続いているのではないだろうか。ディズニーとはまったくちがうセンスである。
もっとも食器が出てくるとこれは「美女と野獣」を思い出した。

詳細な評価は出来ないが、いずれ再度見てみようと思っている。むしろその時はラヴェルの音楽をもっとよく聴いてみよう。
 
一つ、昔聴いた時から記憶にあるのだが、台詞の中に「ハラキリ、雪洲、早川、、、」(発音はこのまま)とある。台本が書かれたのは1910年代、アメリカ、フランスと活躍していたこの人にエキゾチックな面白さを感じていたのかもしれない。
 

 


R. シュトラウス「カプリッチョ」

2021-10-14 14:46:35 | 音楽一般
リヒャルト・シュトラウス:歌劇「カプリッチョ」
指揮:クリスティアン・ティーレマン、演出:イェンス・ダニエル・ヘルツォーク
カミッラ・ニールント(伯爵夫人マドレーヌ)、クリストフ・ポール(マドレーヌの兄)、ダニエル・ベーレ(作曲家フラマン)、ニコライ・ボルチェフ(詩人オリヴィエ)ゲオルク・ツェッペンフェルト(演出家)、クリスタ・マイア(女優)
ドレスデン国立歌劇場 2021年8月4,6,8日 無観客上演で収録 2021年8月NHKBSP

シュトラウス最後のオペラで、これと「最後の四つの歌」、「メタモルフォ―ゼン(変容)」が最晩年の作品である。

ちょっと変わった作品で上演されることは少ないようだが、そのわりには映像で見る機会がこれまで何回かあって、メトロポリタン(2011)パリオペラ座(2004)(いずれもマドレーヌはルネ・フレミング)、それと今回思い出したのだがフェリシティ・ロットが主役のものをレーザー・ディスクで見た記憶がある。何かとてもソフィスティケイテッドで、よかった。
 
伯爵夫人で未亡人のマドレーヌ、誕生日に舞台が企画されていて、マドレーヌに言い寄っている作曲家と詩人が我こそはと競い、また劇場支配人の演出家は彼なりの主張をする。マドレーヌの兄と女優とのからみもあって、一見ごたごたしながら進むのだが、そこはシュトラウスと彼に協力してこれを作ったクレメンス・クラウスのおかげだろうか、幕の切れ間のない2時間半が飽きさせずに進んでいく。
 
結末は途中で暗示されるけれど、今回気がついたのは、演出家にシュトラウスの本音がカリカチュアのように出てきていて、この人のオペラ、音楽人生の余裕ある総括といったらよいか。
 
主役のカミッラ・ニールントは先日の「ばらの騎士」で感心した通り、ただマルシャリンと比べるとこのマドレーヌはそう達観していないので、それが出たらとは思う。最期のところの演出、確か台本では鏡に映る自分を未来の老いと見るのだが、ここでは風貌の似た女性を暗い照明で出していた。
その他の歌手たちはいずれも安心して楽しめた。
 
演出は初演の戦時中を想定した衣装、装置らしいが、やはり世紀末の方が、とは思う。
指揮のティーレマン、このところシュトラウスは手の内に入った気持ちよく聴けるものとなっていた。
 
ところで序奏の弦楽六重奏は大好きで独立して演奏されることもあり、何度も聴いている。今回はテンポがはやくさらっとしているなと感じたが、オペラが進行していくと、実はここで使われたフレーズが形を変え、いろいろ複雑に組み合わされて出てきていること(素晴らしい)に気がつき、オペラ全曲の序奏としてはこれでいいのだと納得した。
 
それにしても、シュトラウスという人、時代と人間を深く描きつくすということでは「影のない女」、作曲家自身の美しいカリカチュアとして「カプリッチョ」、内心の後悔の韜晦的表出として「メタモルフォーゼン」、なんという堂々たる一生だろうか。