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メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

プッチーニ「ジャンニ・スキッキ」

2022-12-26 09:02:35 | 音楽一般
プッチーニ:歌劇「ジャンニ・スキッキ」
指揮:フランツ・ウェルザー・メスト、演出:クリスト・ロイ
ミシャ・キリア(ジャンニ・スキッキ)
アスミク・グリゴリアン(ラウレッタ)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
2022年 8月5・9・13日 ザルツブルク祝祭大劇場 
2022年12月 NHK BSP
 
プッチーニの三部作の一つで、通常は「外套」、「修道女アンジェリカ」に続けて最後に演じられる。それぞれダンテの「神曲」に対応しているらしい。
 
今回はこのプッチーニ唯一の喜劇(そういえばそうだっけ)が最初になった。あの有名な「わたしのおとうさん」のラウレッタを演じるアスミク・グリゴリアンが全三作品で主人公を演じるという試みと対応していることもなくはないようだ。
 
本作を通して観るのは二回目かなと思う。大きな遺産を残して死んだ金持ちがどうも遺言ですべてを修道院に寄贈するらしいと聞き、親族たちが困りはているところに、その一人(?)の若者と恋仲のラウレッタの父親ジャンニ・スキッキが来合せ、ベッドの死人と入れ替わり、医者が来てもまだ生きていることにする。このあとしばらくのどたばたがミシャ・キリアのみせどころ。しかし、スキッキは勝手に遺産の処置を自分にいいように言うので、最後は追っ払われる。
 
この間に恋仲を許されないラウレッタのあの歌、遺産はどうなっても二人の意志は確かになっていく。
最後にスキッキは、観客に向かって、ダンテの名前を出し、こうなったのは私が悪いが、もしみなさまが楽しめたならどうか情状酌量を微笑んで終わる。

いろんな要素は時代を超えて思い当たることがある。そして若い二人の恋は観客を楽しませる。それ以外の音楽はどたばた喜劇の伴奏みたいでもあるが。
 
服装は現代だし、ふるまいもそうだが、違和感はない。
ミシャ・キリアは巨体だが、こせこせしたスキッキを小柄な人が演じる場合よりはあきれるくらい態度が大きく、その分最後にやっつけられるときの効果も出てうまい。
 
ラウレッタのアスミク・グリゴリアンは観客が自然に応援したくなるいい感じで、さてこのあとの二作でどうなるか、楽しみである。

オーストリア期待の新人指揮者としてデビューしたウェルザー・メストももう60位、ドイツ系のものよりこういうものでてきぱきと指揮する方があっている気がする。

















ワーグナー「神々のたそがれ」(バイロイト2022)

2022-10-13 13:47:33 | 音楽一般
ワーグナー:楽劇「神々のたそがれ」
指揮:コルネリウス・マイスター、演出:ヴァレンティン・シュヴァルツ
クレイ・ヒリー(ジークフリート)、イレーネ・テオリン(ブリュンヒルデ)、アルベルト・ドーネン(ハーゲン)、ミヒャエル・クプファーーラデッキー(グンター)、エリザベス・ティーゲ(グートルーネ)、クリスタ・マイアー(ワルトラウテ)、オラファ-・ジグルダルソン(アルベリッヒ)
2022年8月5日 バイロイト音楽祭  2022年9月 NHK BSP
 
「神々のたそがれ」を映像で見るのは久しぶり、おそらくメトロポリタン(ルイージ)、スカラ(バレンボイム)以来だろう。
 
今回のたそがれ、登場人物の服装、風貌、背景、装置など随分現代風、それもかなりカジュアルで安っぽい感じもある。ただ、ワーグナー上演の中心的存在と見られるバイロイトといっても、こういう変わった演出は珍しくなかったと思う。
 
なかでも「指輪」はリングではなくジークフリートとブリュンヒルデの「愛の結晶」というわけか子供になっていて、劇の展開に沿って声はださないまま登場人物に扱われていく。場面によってはヴィジュアルというより意味上からも無理があった。こればかりではないが、全体として充実していた歌唱、オケとあまりにレベルが違っていたということなのか、カーテンコールでシュヴァルツ(演出)はすごい「ブー」を浴びていた。
 
ブリュンヒルデのテオリンは優れていて、本作の中心はブリュンヒルデだからこれはよかった。ジークフリートのヒリーはピンチヒッターらしいが、まずまず。
 
ギービッヒ家のグンター、グートルーネはチャラチャラしていたがこれは演出上の注文だろうか。まあ悪だくみの中心である弟ハーゲンはすごみも出していた。もう少し深さがあってもとは思うけれど。なぜならこの一族の怨念、執念は父アルベリッヒから来ているわけだが、今回観てみてアルベリッヒの登場はそんなに長くないからである。
 
視覚的なところはどうもといった感じだから、どっちかといえば音楽の方に注意しながら、4作の最後に位置する本作までの経過を思い出しながらいろいろ考えてみた。
 
もうウォータンは死んでしまい、当初の神々の世界を知ってここまで来たのはブリュンヒルデ、アルベリッヒ、そしてブリュンヒルデの妹ワルトラウテ(二人はワルキューレ)、あとはラインの乙女たち、ノルンたちである。
 
ウォータンが目指した神々の栄華を実現するはずの黄金をアルベリッヒ争い、ブリュンヒルデは父ウォータンに逆らったり、罰せられたりしながら、ジークフリートを送り出し、ジークフリートはノートゥング’(剣)と指輪を得、今度はブリュンヒルデと愛を交わしたわけだが、最後、アルベリッヒの子孫たる強欲な俗物ハーゲンたちに貶められる。
 
これで終わりではしょうがないから、ブリュンヒルデは火をはなちすべてをかかえてラインに帰っていく。指輪(黄金)はラインの乙女たちに返っていく。
 
なんだかこれより汚い格好だが、ドイツ帝国の終末のようにも見える。ドイツばかりでないかもしれない。
 
指揮のコルネリウスはもう少し拍手があってもよかったと思うし、オケは優れていた。もうこれだけ年月が経つと、世界から集めたメンバーの水準は昔より高いのだろう。
 


オペラとミュージカル

2022-08-20 09:47:46 | 音楽一般
昨日アップした「ミュージカルの歴史」で書き残したこと。
 
先にラモー「みやびなインドの国々」で書いたけれども、18世紀の特にフランスあたりのオペラでは、ただ歌とドラマというのでなく、レビューみたいに華麗なダンスが呼び物で、それがないと客も入らなかったらしい。
 
この本を読むと、そういう背景もミュージカルのなりたちに関係していると理解することができる。19世紀になりヴェルディの作品など、よりシリアスな音楽ドラマになってきても、パリ版といわれるバレエが入った版がのこり、その後も両方が長く続いた。
 
そう考えるとワーグナーがわざわざ楽劇としてああいう作品群をうみだしたのは大きな意味があるといえるだろう。

 

ラモー「みやびなインドの国々」

2022-08-05 09:30:06 | 音楽一般
ラモー:歌劇「みやびなインドの国々」
指揮:レオナルド・ガルシア・アラルコン、演出:クレマン・コジトレ
サビーヌ・ドゥヴィエル、ジェリー・フォックス、フロリアン・サンペイ、アレクサンドル・デュアメル、マティアス・ヴィダール、ジョディ・デボス、エドウィン・クロスリー・マーサー、スタニスラス・ド・バルベラク
管弦楽:カペラ・メディテラネア
2019年10月8.10日 パリ・オペラ座バスチーユ、2022年7月 NHK BSP(再放送)
 
ラモーについてはクラブサンなどの鍵盤音楽をずいぶん若いころに効いた記憶があるだけだったが、2019年に「イポリットとアリシー」(これはフェードルも出てくる古典的な筋のオペラ)を観、18世紀オペラの傑作で楽しめるものと驚いた。
 
今回のオペラはまたちがった感じで、現代にも通じるエンターテイメントとなっている。インドというのはフランスから見たさまざまな異国の総称で、4部からなるこの作品、第1部「寛大なトルコ人」、第2部「ペルーのインカ人」、第3部「花々(ペルシア)」、第4部「未開人たち(アメリカ)」というエキゾチックというかかなり荒唐無稽な話からなっている。
 
多くはなかなかうまくいかない恋の話だが、興味深いのは征服者、被征服者と善悪の組み合わせがステレオタイプになっていないことで、一つ一つはそう面倒くさい進展でなくめでたしめでたしとなる。それも音楽とダンス(バレエ)で楽しませるという意図が明確だから、近代でいうとレヴューというかそういう趣きがある。
 
特にこの公演が大評判になったのは第4部で祝典のような多人数のダンスで、このグルーヴ感があるというかノリのいい音楽で、ブレイクダンス、ストリートダンス、ヒップホップでこれでもかこれでもかと楽しませる。パリ・オペラ座だからかというわけでもないだろうが、アフリカ系の;ダンサーが多い。
考えてみれば、ラモー((1683-1764)はバッハ(11685-1750)、ヘンデル(1685-1759)、グルック(1714-1787)などとほぼ同時に活躍した人である。バッハを除けばみな劇音楽で19世紀の人気オペラにおとらない作品をいくつも書いている。上演も増えてきているし、映像で見る機会のかなりあるから、これはうれしいことである。
 
この作品の管弦楽は「イポリットとアリシー」でも書いたが、ヘンデルのあのしつこく続く通奏低音みたいなものに似ているけれど、もう少し変化がある。
実は2019年Eテレの「らららクラシック」で作曲家の宮川彬良がラモーと本上演を取り上げ、少し前に放送していたのを見逃したのが残念だったが、今回再放送で見ることができたのは幸いだった。
宮川によるとラモーは「和声楽」の本をはじめて書いた人(バッハでなく)だそうで、そう見ていたらこのような面を知り、これは現代のレベルと比べても、ミュージカル、エンターテイメントのクリエイター、プロデューサーとして大変な人だということであり、この企画を持ち出したようだ。時代としてはルイ14世だから納得できるところはある。
 
第3部で二組の男女の仲がもつれて最後組み合わせが変わって四人幸せになるところの長く美しい四重唱、なるほど和声法の達人といってもいいだろうか。
 
それから特にパリではバレエのないオペラはつまらないと見向きもされなかったらしいが、そういえば後にヴェルディの作品などでバレエが入ったパリ版をいう少し長い版があったりする(たしか「ドン・カルロ」など)。それもラモーの話から少し納得できるようになった。
 



ショパンのワルツ

2022-07-31 16:38:21 | 音楽一般
ショパンのワルツ作品64の2(順番でいくと第7番)をなんとか弾けるようになった。
 
ピアノは子供の時からまともに習ったわけでなく、大人になって自己流でやってみたけれどすぐに限界となり、歳を重ねてからいわゆる大人のピアノというレッスンコースに入った。
 
このワルツ、いずれは弾きたい、かなり無理な練習をかさねてもと思った曲の一つである。通しでかかる時間はプロと比べると相当長くなるけれど、こっちの感覚はなんとかこの音楽を歌っているというか、満足感はある。

指示されたとおり、ゆっくり右手だけ、左手だけではじめ、左右苦労しながらあわせてという感じだった。曲のきもとなるフレーズ、指の動きなど、なかなか様にならないこともあったし、何回もでてくる下降アルペジオの繰り返しなど、しばらくは間違えて当たり前、またフレーズのつなぎの音を覚えるのも難しかった。
 
ただそれが少し出来てきてみると、なぜこんな音の並び、飛びなど、このようにしたのか、作曲家が語りかけてくるような感じがして、うれしくなった。
これはショパンの晩年の曲で、舞踏会用ではなく、メランコリックなトリオ部分もあるが、音大ピアノ科レベルの人ならだれでも初見で弾けるだろう。ただその時、私が今回感じたよろこびはないかもしれない。
 
多少参考にした録音は手元にあったリパッティ、アシュケナージ、ルービンシュタイン。この歳になって弾いてみると、若いころあまり鮮やかに聴こえなかったルービンシュタインの演奏がしっくりきた。
何回も出てくるアルペジオの入り方の微妙なアクセント、ラグ、終盤のデクレシェンド、リタルダントをかなり前からはじめ見事に着地するところなどは、やってみようとしたけれど、技術的には難しくないはずだが、これができない。不思議なものである。

実は8年間ほどジャズピアノコースで、左手はコード(和音)だけというかたちで、それでも発表会では、アドリブを入れ(といっても即興は無理で、作曲して楽譜にしたもの)、ベース、ドラムスの講師の方とトリオをやれたのは楽しかった。

ただ、テキストが次の段階になると左手がもっと動かないとまるでだめということになり、ちょうどコロナでソロのことだけ考えて練習を続けるのには、クラシックに移るのもいいだろうと2年前に考えたわけである。
 
一方でこのワルツで根を詰めてやりすぎたこともあるから、この曲は時々弾きながら、もう少し短くてやさしい曲に取り掛かろうと考えている。
 
とにかくショパンに感謝である。